第16.5話 皇帝陛下の退屈
旧離宮の最上階、重厚な樫の木の扉で閉ざされた一室に、埃の匂いを孕んだ冷気が澱んでいた。
色褪せた緋色のタペストリーが垂れ下がる壁際で、帝国皇帝は肘掛けの革が擦り切れた古びた椅子に深々と身を沈めていた。格子の嵌められた縦長の窓からは、帝都の空を覆う重く濁った鉛色の曇天が見える。
扉の向こうからは、一定の間隔を置いて規則正しく響く重装歩兵の靴音が聞こえていた。軍務局直属の歩哨が、昼夜を問わずこの部屋を取り囲んでいる。完全なる軟禁──事実上の幽閉状態であった。
だが、その冷たい牢獄にあって、皇帝の端正な貌には焦燥も怒りも、あるいは死を前にした恐怖の類すら微塵も浮かんでいなかった。ただ退屈そうに、自らの白く細い指先を弄んでいる。
金糸で縫い取られた宮殿の豪華絢爛たる玉座であろうと、この埃っぽい旧離宮の粗末な椅子であろうと、皇帝にとっては等しく無価値な木片に過ぎなかった。
(……実につまらん)
胸の奥底で、乾ききった呟きが零れ落ちる。
物心ついた頃から、世界はひどく色褪せて見えていた。
かつて帝国には、誰が見ても玉座に相応しい優秀な皇兄たちが揃っていた。
卓越した内政手腕を誇った第一皇子、軍略に長け前線で武名を轟かせた第二皇子、そして貴族たちを手玉に取る狡猾な政治力を持った第三皇子。
いずれも燃えるような野心を抱き、偉大なる覇王たらんと覇権を競い合っていた。
そして、その全員が死に絶えた。
毒殺、暗殺、馬車への細工、門閥貴族たちの醜悪な足の引っ張り合いと謀略の果てに、兄たちは自ら流した泥沼の血溜まりへと沈んでいった。互いに足を引っ張り合い、互いに毒を盛り合って共倒れになったのだ。
何の才覚も持たず、何の野心も抱かず、ただ部屋の片隅で無気力に息をしていただけの出来損ないの末弟──自分だけが、泥沼の濁流に触れることすらなく生き残ってしまった。
そうして、消去法という名の無意味な手続きによって、空席となった金色の玉座へと押し付けられた。
即位したその日から、周囲に群がる門閥貴族や軍閥の重鎮たちは、皇帝を自らの都合の良い傀儡として扱おうと甘言と脅惑を弄した。
誰もが帝国の未来など見ていなかった。ただ己の家門の利権を肥え太らせ、甘い汁を吸い尽くすことだけに血道を上げていた。
この国は、すでに根元から腐り果てた巨木なのだ。
皮一枚で辛うじて立っているだけの倒木に、いくら手入れをして延命させたところで何の意味があるというのか。いっそ派手に風に煽られ、根こそぎへし折れて朽ち果ててしまえばいい──それが、玉座から帝国中枢を見下ろし続けた皇帝の、偽らざる本音であった。
だからこそ、あの『特務機関』を立ち上げたのだ。
門閥貴族たちの利権構造から完全に外れた場所に、超法規的な権限を持つ異常な組織を作り上げた。
その頂点に据えたのは、類稀なる冷徹な頭脳を持ちながら幼さゆえに貴族社会で爪弾きにされていた公爵令嬢ロザリア。そしてその刃として与えたのは、戦場で数千の敵を平然と踏み潰し、人間離れした暴威から「帝国の死神」と恐れられていた武人、ヴォルフ・ガランドであった。
思惑は明快だった。
この二頭の怪物を解き放てば、飢えた猛獣のごとく腐りきった貴族たちを食い散らかし、やがて統制を失って国ごと派手にぶち壊してくれるだろう──と。
腐敗しきった帝国という名の巨大な爆弾に、火のついた導火線を投げ込んでやったつもりだった。己の手を汚すことなく、この退屈極まる世界が瓦解していく様を高みの見物と洒落込もうとしたのだ。
だが、現実は酷く滑稽な方向へと転がった。
放たれた怪物は、皇帝の思惑を嘲笑うかのように、あまりにも有能で、あまりにも真面目すぎたのだ。
ロザリアは冷徹無比な法典解釈と完璧な財務帳簿を武器に、地方の不正利権を容赦なく摘発して組織を徹底的に健全化させた。
そして死神ヴォルフ・ガランドは、驚くべきことに軍規を寸分違わず遵守し、一切の私情を交えずに反乱分子を淡々と鎮圧して回った。
国をぶっ壊せと放り出したはずの怪物が、歪んだ財政を整え、反乱を叩き潰し、地方の統治機構を効率化してしまった。
破滅の起爆装置として送り込んだはずの特務機関が、皮肉にもこの腐りかけた帝国を最も強力に延命させる屋台骨となってしまったのだ。
(真面目に立て直してどうするのだ、あの馬鹿どもは……)
皇帝は自嘲の笑みを微かに唇に浮かべた。
だが、その奇妙な茶番劇も、ついに終わりを迎えたらしい。
今朝方、貴族院の重鎮と軍務局長がこの旧離宮へ乗り込んできた。
皇帝の急病をでっち上げ、後ろ盾を失った特務機関を正規の軍務査察権によって解体・包囲したと、勝ち誇った顔で告げてきたのだ。ロザリアは軍務局の地下牢へ投獄され、特務機関本隊も武装解除されたという。
(派手な大爆発を起こすかと思えば……結局は、あっさりと外枠からハシゴを外されて手詰まりか)
過度な失望も、怒りもなかった。
ロザリアやヴォルフ・ガランドに対して、最初から熱い期待や信頼など抱いていなかった。所詮は人間などこの程度のものだという、冷淡な事実の確認に過ぎない。
二頭の怪物がどれほど強大であろうと、法と手続きという名の制度の網に絡め取られれば、あっけなく檻に閉じ込められる。国家という巨大な泥沼の前には、個の武力も知謀も等しく飲み込まれて消えるだけだ。
すべては元の木阿弥。
貴族どもは再び甘い汁を吸い合い、帝国は緩やかに、だが確実に腐敗の底へと沈んでいくのだろう。
そして、傀儡としての利用価値すら薄れた自分には、近いうちに「病死」という名の毒杯か、あるいは短剣が届けられるはずだ。
命乞いをする気も、抵抗する気も起きなかった。
玉座に座らされてから今日に至るまで、生に対する執着など爪の先ほども持ち合わせていない。かといって、自ら命を絶つほどの激情すら持ち合わせてはいなかった。
ただ、死ぬまでは生きる。
それだけの、無機質な時間の浪費に過ぎない。毒杯が届くその時まで、ただ息をして、退屈を持て余すだけのことだ。
むしろ、この無意味で重苦しい責務からようやく解放されるのだという、乾いた安堵感すらあった。
皇帝は背もたれに深く頭を預け、冷たい窓の外の鉛色の空を見つめた。
「これで余の役目も、幕引きか」
誰もいない薄暗い部屋に、掠れた独白が静かに吸い込まれていく。
「……実につまらなく、退屈な人生だったな」
特務機関の壊滅も、己に迫る死の気配も、すべてを無価値なものとして切り捨てながら、皇帝は眠るのだった。
新作「アメリカをデブらせろ!〜もしファストフード店のワンオペ店長がジャンクフードを西部開拓時代に持ち込んだら〜」公開中!
https://ncode.syosetu.com/n5245ms/
こちらもぜひご覧ください




