第16話
夜明け前の冷たい霧が、帝都の路地裏を白く染め上げていた。
ヴァイスベルク邸からの撤収は迅速かつ密やかに行われた。両手首を頑丈な革バンドで拘束された女怪盗を中央に挟み、ヴォルフ・ガランドを先頭に、レオンとガゼルが油断なく周囲を警戒しながら歩を進める。
レオンの胸ポケットには、押収された軍務局補給部の極秘裏金リストが厳重に収められていた。
これだけの物証があれば、軍務局の不正を暴き、中央における特務機関の牽制力を行使する決定打となる。
そして捕縛した怪盗の卓越した潜入能力と身体操作技術は、主君たるロザリア閣下の合理的采配によって、必ずや帝国防衛のための隠密戦力へと昇華されるはずであった。
組織の勝利と治安維持の完遂を確信しながら、ヴォルフたちは特務機関本部が位置する中央官街の裏手へと差し掛かった。
だが、大通りを望む物陰に達した瞬間、ヴォルフは無言のまま右手を掲げ、足を止めた。
「……待て」
「隊長?」
レオンが低く問いかける。
わずかな朝靄の向こう、普段であれば特務機関の衛兵が規律正しく警備しているはずの本部庁舎の周囲を、見慣れぬ黒塗りの重装甲を着込んだ一団が幾重にも取り囲んでいた。
掲げられているのは特務機関の旗ではない。軍務局直属の重装憲兵隊、および門閥貴族の重鎮たちが擁する私兵団の軍旗であった。
篝火がけたたましく焚かれ、騎馬の憲兵将校が怒号を上げて本部の通用口を封鎖している。
「……様子がおかしいですね。軍務局の正規部隊と貴族の私兵が、なぜ当機関の本部を包囲しているのか……」
レオンが顔を強張らせ、手帳を握りしめたその時──。
「ぐっ……ぶ、部隊長……!」
路地裏の積み荷の影から、血塗れの外套を羽織った男が足を引きずりながら転がり出てきた。特務機関第一部隊所属の伝令兵であった。
「伏せろ」
ヴォルフは瞬時に巨躯を屈め、倒れ込む伝令兵の身体を支えて物陰の奥へと引きずり込んだ。
伝令兵の胸当ては鋭利な刃物で引き裂かれ、口の端から微かに血泡が滲んでいる。
「何があった。簡潔に報告せよ」
感情を完全に削ぎ落としたヴォルフの低音に、伝令兵は激しく息を乱しながら、震える唇を開いた。
「部隊長……本部が……閣下が、軍務局の査察部に……!」
「落ち着け。順を追って話せ」
「本日未明……貴族院と軍務局が連名で緊急宣言を発布いたしました。『皇帝陛下が急病により意識不明に陥られ、静養のため旧離宮へ移送された』と……!」
その言葉に、背後で息を呑む音が重なった。
皇帝の急病、そして旧離宮への移送──それが何を意味するか、その場にいる誰もが即座に理解した。事実上の宮廷クーデターによる、皇帝の幽閉である。
「陛下のご裁可という唯一の後ろ盾を失った瞬間、軍務局と貴族院は正規の『中央軍務査察権』を行使いたしました。特務機関によるこれまでの活動を『統帥権の逸脱および越権専横の廉』と断じ、査察部と重装憲兵隊が本部に突入……!」
「……本隊の兵はどうした」
「ロザリア閣下が……部下の無駄な流血を避けるため、一切の武力抵抗を禁じられました。正規の法廷にて潔白を証明すると宣言され、単身で査察を受け入れ……現在、軍務局本部の最下層地下牢へと連行・収監されました……! 本部の第一部隊本隊も、軍規を盾に武装解除を受け、兵舎に軟禁状態です……!」
「なっ……!?」
レオンの顔から完全に血の気が引いた。
「そんな……陛下の親裁という超法規的庇護が外れただけで、既存の軍規と査察権を盾に踏み込んできたというのか……! 陛下が不在の今、当機関の行動はすべて違法とみなされる……!」
「おいデカブツ、どうすんだよ!?」
ガゼルが爛々と目を吊り上げ、腰の短剣に手をかけた。
「あのお嬢ちゃんが捕まったってのか!? 本部に殴り込んで全員ぶっ飛ばすか!?」
「静かにしろ、ガゼル。状況の把握が先決だ」
ヴォルフの冷徹な一喝が、張り詰めた空気を断ち切った。
拘束されたまま壁にもたれていた女怪盗が、乾いた笑い声を微かに漏らす。
「ふん……お前らの足場なんざ、最初から泥舟だったのさ。軍務局の連中が裏金や帳簿を血眼になって集めてたのは、このクーデターのための買収資金だよ。後ろ盾の皇帝を檻に放り込まれちゃ、特務機関なんてただの違法軍事組織だ。詰みだよ、お前ら」
嘲笑を含んだ怪盗の言葉を、ヴォルフはただ静寂の中で聞き流していた。
皇帝の幽閉。
主君ロザリアの投獄。
本隊の武装解除と、唯一の活動根拠であった「親裁」の喪失。
特務機関は今、超法規的な後ろ盾を失い、既存の軍法と査察権という法的手続きの前に孤立無援で放り出された。
一歩でも表に出れば、軍規違反と国家反逆の首謀者として全軍から追われる身となる。
怒声も、狼狽も、焦燥もなかった。
黒兜の奥深く、ヴォルフの双眸から一切の温度が消え失せていた。
そこにあるのは、かつて戦場において数千の敵陣を単身で踏み潰し、「帝国の死神」と恐れられた時代の、絶対零度の静寂だけであった。
これまで彼を覆っていた武人としての素朴な煩悩も、無垢な日常の皮膜も、すべてが剥ぎ取られていた。
主君が奪われた。
ならば、成すべきことは極めて単純かつ明快である。
「レオン」
「は、はっ……!」
「伝令に応急処置を施せ。──これより本隊のとる行動を通達する」
ヴォルフは腰の大剣の柄に手を添え、低く、だが鋼鉄のように揺るぎない声で告げた。
「敵の狙いは皇帝の無力化による権力掌握と、ロザリア閣下の処刑による特務機関の完全抹殺にある。ならば我らが取るべき最短経路は一つしかない」
「……部隊長?」
「帝都地下水路への退路を確保せよ。網の目を潜り抜け、反逆の首魁どもを根こそぎ粉砕する」
兜の奥の冷たい光が、夜明けの闇を鋭く切り裂いた。
「──主君を取り戻すぞ」
帝国の死神が、真の覚醒を果たした瞬間であった。
新作「アメリカをデブらせろ!〜もしファストフード店のワンオペ店長がジャンクフードを西部開拓時代に持ち込んだら〜」公開中!
https://ncode.syosetu.com/n5245ms/
こちらもぜひご覧ください




