第15話
深夜の静寂が、豪商ヴァイスベルク邸の広大な敷地を包み込んでいた。
雲間から差し込む青白い月光が、幾重にも重なる切妻屋根と堅牢な石造りの外壁を冷たく照らし出している。
邸宅の周囲には軍務局息のかかった私設警備兵たちが篝火を焚いて巡回していたが、彼らの視線はすべて地上と正門に向けられており、頭上に広がる闇の空間には微塵も届いていなかった。
本館の屋根裏の梁、冷たい闇の中に、ヴォルフ・ガランドは気配を完全に殺して潜んでいた。
革鎧の擦れる音すら立てず、黒兜の奥から鋭い視線を天窓へと注いでいる。
事前の分析と地形の読みが正しければ、目標が侵入し、目的の品を奪取して脱出するルートはここしかない。
不意に、天窓の鉛枠が音もなく外れた。
滑り出るように屋根瓦の上へと這い出してきたのは、全身を闇色の夜戦服で包んだ細身の影──女怪盗であった。その小脇には、分厚い羊皮紙の束がしっかりと抱えられている。
瓦を踏みしめる爪先の位置、重心を低く落とした構え。
次の瞬間、彼女は地上へ降りることなく、隣接する別棟の尖塔へ向けて跳躍姿勢をとった。屋根伝いの立体機動を十全に活かした、空中逃走の機動である。
だが、彼女が瓦を蹴り放った刹那、その頭上から突風のような影が落ちてきた。
「──逃がすかよッ!」
屋根の最高点にある風見鶏の影に潜んでいたガゼルが、野生動物のごとき敏捷さで天窓の梁を蹴り、空中へ身を躍らせたのだ。
「なっ……!?」
空中で身動きの取れない怪盗の視界に、獰猛な笑みを浮かべた赤毛の少女が飛び込む。
ガゼルは空中での体勢制御を無視し、怪盗の肩口をめがけて両足で強烈な跳躍蹴りを叩き込んだ。
直撃こそ腕のガードで防がれたものの、怪盗の逃走軌道は無残にもへし折られた。跳躍の勢いを殺された二つの影は、絡み合うようにして屋根の縁から宙へと放り出される。
瓦を蹴って自力で中庭の庇へ着地したガゼルに対し、体勢を崩した怪盗は重力に引かれ、石畳の敷かれた中庭へと真っ逆さまに落下していった。
その落下地点の直下。
闇の中から、質量そのもののような巨躯が音もなく踏み出した。
ヴォルフ・ガランドである。
ヴォルフは落下してくる怪盗の軌道を見極め、石畳を踏みしめて跳躍した。
空中で接触した瞬間、怪盗は咄嗟に隠し持った短剣を抜こうと腕を振るったが、ヴォルフの剛腕はその手首を鋼の万力のごとく正確に制圧した。
相手の落下する運動エネルギーを殺すことなく、自身の回転運動へと流れるように変換する。空中で身体を反転させながら相手の重心を己の胸郭に引き込み、無駄のない制圧軌道を描いて石畳へと着地した。
鈍い地響きとともに、石畳の上で関節を完全にロックする。
怪盗の右腕はヴォルフの太い腕と膝によって完全に封じられ、指先ひとつ動かせない状態に組み伏せられていた。
「動くな」
ヴォルフの低く冷徹な声が、夜の冷気に落ちる。
組み伏せた瞬間、掌と前腕を通じて伝わってきたのは、鋼のように引き締まった体幹の強靭さと、無駄のない重心移動を支える筋肉の驚異的な弾力であった。激しい着地と拘束の負荷を受け止めながら、呼吸を乱すことなく即座に脱出の機会を窺う見事な筋連動。
(……素晴らしい)
兜の奥で、ヴォルフは武人として静かに感嘆の息を呑んだ。
これほどの体幹、これほどの身体操作技術を持つ者であれば、いかなる過酷な環境下においても対等に並び立ち、互いに背中を預け合えるはずだ。
己の愚直なまでの信念に照らし合わせ、ヴォルフの胸中には清らかな敬意が満ちていた。
「部隊長、見事な捕縛です」
闇の中から駆け寄ってきた副官レオンが、素早く軍務手帳を開いてペンを走らせる。
「空中での重心反転から接地制圧に至る一連の動作、極めて正確かつ迅速でした。対象の身柄、完全に確保されております」
「へっ! あたしが頭の上から叩き落としてやったからだろ! 見たかデカブツ、あたしの勝ちだな!」
屋根の上からひらりと飛び降りてきたガゼルが、胸を張って勝ち誇る。
石畳に組み敷かれた女怪盗は、悔しげに奥歯を噛み締めながら、自分を押さえつける黒兜の巨躯を睨み上げた。
「……何者だ、あんたたち。憲兵隊の動きじゃない……さてはあんたが特務の死神とやらか」
「貴様に名乗る必要はない」
ヴォルフは無表情のまま、彼女の両手を頑丈な革バンドで拘束し、立ち上がらせた。
小脇に抱えられていた羊皮紙の束をレオンが回収し、手早く内容を検分する。
「部隊長。これは……軍務局補給部の極秘裏金調達リスト、および中央貴族との間で交わされた兵站横領の証拠書類です。単なる金品目当ての窃盗ではありません」
「やはりか」
ヴォルフは短く頷いた。
帝都を騒がせていた怪盗の正体は、軍中枢の腐敗を暴くために暗躍していた存在、あるいはそれを追う何者かの手先であったということだ。
(いずれにせよ、すべては閣下の御心のままに、だ)
己の任務達成と、帝国における治安実績の確立に静かな確信を抱きながら、ヴォルフは夜空を見上げた。
「これより特務機関本部へ帰還し、閣下に身柄を引き渡す。撤収するぞ」
「はっ、承知いたしました」
三人は捕縛した怪盗を伴い、夜明け前の帝都の路地裏を、意気揚々と本部へ向けて歩き出した。
新作「アメリカをデブらせろ!〜もしファストフード店のワンオペ店長がジャンクフードを西部開拓時代に持ち込んだら〜」公開中!
https://ncode.syosetu.com/n5245ms/
こちらもぜひご覧ください




