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第14話


夜明け前の紫紺の空が、帝都上層・貴族街の屋根並みを冷たく照らし出していた。


取り逃がした現場となった豪商の館の屋根の上。冷涼な夜風が吹き抜ける中、革鎧を纏ったヴォルフ・ガランドは片膝をつき、割れた素焼きの屋根瓦の破片をミリ単位の精度で見つめていた。




指先で瓦の断面をなぞり、漆喰の剥がれ落ちた角度と、縁に残された泥の擦れ痕を微細に検分する。


「……なるほど」


兜の奥で、ヴォルフは至極真面目に呟いた。




「この瓦の割れ方……着地時の衝撃を膝関節のクッションに頼るのではなく、脊柱の自然な弯曲としなりによって完全に受け流している。


衝撃の分散から逆算するに、体重はおよそ四〇キロ台後半。大腿四頭筋の剛力ではなく、腸腰筋と脊柱起立筋群が主導する、極めて美しく合理的な運動連動だ」




立ち上がったヴォルフは、向かいの尖塔の梁を見据え、その距離を目測した。




「踏み切り時の瓦の沈み込みの深さから見る瞬間的な筋出力、および空気抵抗の少なさを鑑みるに、最大跳躍距離は五・五メートル。滞空時における体幹のブレは皆無だ」


「流石は部隊長! 痕跡と力学から容疑者の筋骨格構造を瞬時に特定するとは……! 直ちに記録し、捜査調書に反映させます!」




隣に控えていた副官レオンが感極まった面持ちで軍務手帳を開き、猛烈な勢いでペンを走らせる。


一方、二人の背後で屋根瓦にしゃがみ込んでいたガゼルは、見るからに引き攣った表情で数歩後ずさった。




「おい待てよ、なんで瓦の破片見ただけで相手のケツや背中の筋肉が分かるんだよ……えぇ……キモ……」


「無礼だぞガゼル。部隊長の卓越した観察眼は、長年の実戦経験と解剖学的知見に基づいた至高の軍事技術だ」


「そういう問題じゃねえだろ! 瓦見て相手の身体を品定めしてるとか、どう考えても頭おかしいだろこのデカブツ!」




野生児の率直極まるツッコミを、ヴォルフは微塵も気に留めることなく受け流した。


相手の機動力の限界値と身体特性を正確に把握した今、捜査は次の段階へと進む。




◆




帝都中央区、特務機関本部の一角にある分析室。


冷たい石壁に囲まれた室内の中央には、帝都の詳細な立体地図と、レオンが集約した過去数ヶ月分の潜入窃盗事案の調書が広げられていた。




「部隊長。過去の犯行現場における被害調書を再精査したところ、極めて不自然な偏りが判明いたしました」


レオンが手帳の頁を指し示しながら報告を読み上げる。




「被害に遭った十数件の邸宅ですが、宝飾店や一般の富豪には一切手がつけられていません。狙われたのはいずれも『軍務局補給部と取引のある特命豪商』、あるいは『門閥貴族に連なる高官の私邸』のみ。さらに、金貨や宝石といった換金性の高い動産には目もくれず、厳重に隠匿された金庫の奥から『特定の帳簿や私信の束』だけが正確に持ち去られています」


「……単なる金品目当ての盗賊ではない、ということか」




ヴォルフの低い声が落ちる。


軍務局補給部といえば、帝国の軍事物資調達と予算執行を一手に握る中枢機関だ。


地方の三境における汚職を摘発した特務機関に対し、中央の軍閥や門閥貴族が警戒と敵意を強めているこの時期に、軍内部の裏金や帳簿ばかりを狙う怪盗の存在。




「単なる義賊か、あるいは……何者かの意図によって動く隠密斥候か」


ヴォルフの脳裏に、帝都中枢を取り巻く不穏な影がよぎる。


だが、どのような政治的背景があろうと、相手の身柄を確保し、閣下の御前に引き据えるという特務機関の任務に変わりはない。公明正大なるロザリア閣下の裁定に委ねさえすれば、その卓越した潜入技術は国益のために正しく組み込まれるはずなのだ。




「問題は、次の襲撃地点の特定だな」


ヴォルフが地図に視線を落とすと、腕を組んで机を覗き込んでいたガゼルが、不意に細い指で地図の一角を指した。




「なあデカブツ。さっきの女の跳び方、あたしにはよく分かるぜ」


「ほう。申してみろ、ガゼル」


「あいつ、屋根の高さが揃ってて、路地が入り組んだ場所しか選んでねぇだろ。大通りを挟んだ向こう側には絶対跳ばねぇ。見通しが良すぎる場所は、下から衛兵に弓で射かけられるからな。それに、逃げ道に地下水路の排水口か、馬車が入れねぇ狭い抜け道がある場所を必ず選んでる」




野生児ならではの空間把握力。獲物と天敵の視界を直感的に読み取るガゼルの指摘に、ヴォルフの力学計算が重なる。




「最大跳躍距離五・五メートル。屋根間の間隙がそれ以上開いている区画は除外される。さらに、着地時の退路として直下に暗渠が存在する地点……」


「そして、標的の条件に合致する軍務局関連の施設……」




レオンが地図上にペンで線を引いていく。


ヴォルフの解剖学的力学、レオンの統計データ、そしてガゼルの野生の直感。三者の分析が交差した瞬間、広大な帝都の地図の中で、唯一の地点が浮かび上がった。




「特定いたしました。軍務局補給部幹部の個人資産と極秘帳簿を預かる豪商──『ヴァイスベルク邸』です」




◆




「包囲網を敷く」


ヴォルフは地図から顔を上げ、二人に命じた。




「前回の失敗は、直線的な質量突進のみに頼ったことにある。今回はガゼルを屋根裏および天窓の直上に配置し、三次元的な退路を塞ぐ。地上の抜け道はレオンが封鎖し、退路を断たれた目標を私が直下から迎撃・制圧する」


「はっ、承知いたしました」


「へっ、今度こそあいつの鼻を明かしてやるぜ!」




ガゼルが拳を鳴らし、レオンが手帳を胸ポケットへと収める。


一度取り逃がした獲物を確実に仕留めるため、死神の胸に静かな闘志が宿る。




「出動する」


夜の帳が再び帝都を覆い始める中、三つの影は静かに、そして迅速に標的の屋敷へと向けて動き出した。


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