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第13話


幸せの青い鳥は身近にいるという──。


西方遠征の完了から数ヶ月が経過した帝都の夜。


下層区の片隅に佇む薄暗い酒場で、非番のヴォルフ・ガランドは単身、木製ジョッキを満たす琥珀色のエールを傾けながら、静かに物思いに耽っていた。




北の荒野にも、東の波濤にも、西の砂塵にもいなかった。


帝国全土の不穏分子を討ち滅ぼすため各地を転戦し、そのたびに過酷な戦場で背中を預け合える「剛健なる伴侶」を探し求めてきたが、得られたのは結局ちんちくりんの怪童だけであった。


己の不器用さと運命の巡り合わせに、どれほど深い溜息を吐き出してきたことか。




だが、灯台下暗しとはまさにこのことではないか。




ヴォルフの兜の奥にある鋭い双眸は、酒場の板壁に無造作に貼り出された一枚の指名手配書へと注がれていた。


そこには、ここ数ヶ月にわたり帝都の富裕層や貴族街を騒がせているという、神出鬼没の女怪盗の似姿が描かれていた。




しなやかに引き締まった四肢。屋根瓦を蹴り破らんばかりに発達した腸腰筋の陰影。そして、夜風を裂いて跳躍する背中にくっきりと浮き彫りにされた、極限まで研ぎ澄まされた脊柱起立筋群の描線。




誇大広告の類ではない。逃走を目撃した衛兵たちの証言を幾重にも重ね合わせ、帝国憲兵隊の熟練絵師が正確無比に再現した運動構造の記録である。




(……見事だ)


ヴォルフは無言のまま、深く感嘆の息を漏らした。


彼が求めているのは、安易な肉欲や浅ましい享楽などではない。自分のような頑丈極まる武人と生涯を共に歩み、過酷な日常において互いに背中を預け合い、時には己の至らなさを鉄拳と共に厳しく叱責してくれる伴侶──。


それには、相応の体幹と強靭な筋力構造が必要不可欠であるという、至極純真で無垢なる武人の論理であって決して個人的な欲望ではない。──決して。


これほどの筋連動を誇る肉体であれば、家庭という戦場においても微塵の揺らぎもあるまい。




捕縛したところで重罪人として処刑されては元も子もないではないか──などという懸念は、ヴォルフの脳裏には微塵も存在しなかった。


彼が忠誠を捧げる特務機関長、ロザリア閣下の冷徹無比なる合理主義を、ヴォルフは誰よりも深く理解し、全幅の信頼を置いている。




西方では生け捕りにした残党を『労務大隊』として国家の再建に使い倒し、怪童ガゼルの天賦の才を見抜いて直属に抜擢したように、閣下がこれほど卓越した跳躍力と潜入技術を持つ『極上の人的資源』を、単なる処刑や地下牢で腐らせるはずがないのだ。




屋根伝いの三次元機動、警備の死角を突く浸透能力、そして厳重な錠前を無傷で外す解錠術。捕らえて閣下の御前に引き据えさえすれば、閣下は必ずや彼女を帝国の防諜機関や特務部隊の隠密斥候として強制編入し、その身体能力を国益のために極限まで有効活用するに違いない。




閣下の公明正大なる裁定によって罪を清算させ、特務機関の正規戦力として確固たる身分を得た暁には──晴れて同じ組織で背中を預け合う同志として、親交を深めた暁には、正式に求婚の手続きを踏めばよい。




(すべては我が主君たる閣下の卓越した内政手腕の範疇にある。理想の妻は、この帝都にいたのだ……)




ヴォルフは最後のエールを喉へ流し込み、静かに立ち上がった。


死神の胸中に、かつてない清らかな決意が静かに燃え上がっていた。




◆




翌朝、帝都中央区にそびえる特務機関本部・機関長執務室。


「……以上が、帝都上層区において頻発している連続潜入窃盗事案、ならびに当該事件への当機関の介入具申になります」


分厚い絨毯の上で直立不動をとるヴォルフの隣には、軍務手帳を手にした副官レオン、そして真新しい軍の支給服を身に纏ったガゼルが並んでいた。


砂漠から連れ帰って数ヶ月、基礎的な軍規と帝都の生活にすっかり馴染んだ赤毛の少女は、退屈そうに腕を組んで足を揺らしている。




黒檀の巨大な机の奥から、ロザリアが怜悧な瞳を向けた。


「我が特務機関が、なぜ帝都の単なる盗賊捕縛に乗り出すのか、説明を求めます。ヴォルフ」




鈴を転がすような、だが一切の私情を排した声音。ヴォルフは表情を微塵も崩さず、極めて論理的かつ厳格な口調で応じた。




「地方利権を制圧した今、我らが次に対峙すべきは中央における貴族院および軍務局の牽制にあります。帝都治安維持の実績を積み上げ、憲兵隊や軍務局査察部に対する当機関の優位性と管轄権を誇示することは、将来的な中央統制において極めて有効な布石となりましょう」




一分の隙もない、国家防衛と組織論に基づいた正当なる建前。


ロザリアは羽根ペンを指先で弄びながら、小さく息を吐いた。




「……筋は通っていますね。かの賊を捕らえることは中央の重鎮たちに特務機関の存在価値を認めさせるマウントをとる材料としては悪くありません」


ロザリアは書類に視線を落とし、淡々と裁定を下す。




「ただし、条件が二つあります。第一に、貴族街に特務部隊の重装甲歩兵を大々的に展開させることは禁じます。軍務局へのあからさまな挑発と取られ、査察の口実を与えかねません。


第二に、新兵ガゼルの帝都環境における実戦連携試験を兼ねること。野生の勘に頼るばかりの彼女が、都市部の作戦行動に耐えうるか見極めなさい」


「はっ。御意のままに」


「貴方とガゼル、レオンの三名による軽装・内偵任務として許可します。……無駄な騒ぎは起こさないように」




ロザリアの決裁印が書類に叩きつけられた。


ヴォルフは深く敬礼し、己の胸中で渦巻く「青い鳥の確保」という真の目的に向けて、静かに踵を返した。




◆




銀色の月光が、帝都上層・貴族街の入り組んだ屋根瓦と深い路地裏を青白く照らし出していた。


尖塔の影に潜み、夜の気配を窺う三つの影。




重装甲の鎧を脱ぎ、動きやすい革鎧を纏ったヴォルフの隣で、レオンが小声で手帳を読み上げる。




「被害に遭った豪商や門閥貴族の屋敷はいずれも厳重な警備を敷いていましたが、いずれも屋根伝いに侵入され、隠し金庫のみが正確に開錠されています。今夜標的となる可能性が最も高いのは、あちらの軍需物資を取り扱う豪商の館です」


「おいデカブツ、屋根の上……なんか動いたぞ」




低い姿勢で瓦に張り付いていたガゼルが、野生動物のような鋭敏さで指を差した。


月光を背に、豪商の屋敷の天窓から滑り出るように現れた黒ずくめの影。


細身の体躯に張り付いた夜戦服。その背中は大きく開き肌が露出している。


手配書に描かれていた通りの、美しく盛り上がった脊柱起立筋群が躍動していた。


瓦を蹴る初速、重心の移動、そして空中へと身を躍らせる瞬間の腸腰筋の爆発的な収縮。


下から見上げるヴォルフの観察眼が、その運動力学を瞬時に分析する。




(……なんという無駄のない重心移動だ。地面からの反力を逃さず脊柱へと伝達し、最小限の筋出力で最大跳躍を成立させている。


あれほどの体幹があれば、過酷な日々の鍛錬はもちろん、家庭環境における突発的な負荷にも難なく耐えうるはずだ……!)




感動のあまり胸を熱くしながら、ヴォルフは地を踏みしめた。


「目標を確認。これより捕縛に移行する!」


「「了解(承知しました)!」」




ヴォルフは路地を最短ルートで疾走した。質量を乗せた剛脚が石畳を激しく叩き、空気を切り裂いて突進する。


屋根の上を跳躍する怪盗の着地点を先読みし、直下へ回り込んで跳躍──空中での関節制圧を試みる。


だが。


「──なっ!?」


黒ずくめの影は、空中でヴォルフの巨躯が迫るのを察知するや、驚異的な柔軟性で身体を反転させた。瓦の端に爪先を引っ掛け、重力をあざ笑うかのような三次元的な軌道修正を行い、ヴォルフの剛腕のわずか数寸上をすり抜けていく。


直線的な質量突進を得意とする重装歩兵の機動に対し、怪盗の動きは風そのものであった。




「あっちへ逃げたぞ! おい、待てコラァッ!」


屋根の上を跳び回るガゼルが猛追するが、怪盗は貴族街の複雑に入り組んだ尖塔の梁へと軽やかに飛び移り、夜の深い闇の中へと吸い込まれるように姿を消した。




静寂が戻った路地裏に、石畳を踏みしめるヴォルフの重い足音だけが響く。




「……目標の完全消失を確認」


レオンが懐から取り出した手帳に、ペンを素早く走らせる。




「驚異的な跳躍力です。推定跳躍距離五メートル超。背筋および下肢の瞬間緊張度は特務隊員の基準値を遥かに凌駕……隊長、実に貴重な戦闘機動データが収集できました」


「……ああ」




ヴォルフは虚空を見上げたまま、硬い拳をぎゅっと握り締めた。


その眼前には、夜風に揺れる尖塔の影だけが残されている。




「おいデカブツ! あんたが下でドタバタ突っ込んでくるから、向こうが警戒して逃げちまったじゃねぇか!」


屋根の上から不満げに身を乗り出すガゼルの抗議も、今のヴォルフの耳には届いていなかった。


初手は取り逃がした。




だが、あの背筋の躍動、あの鋼のようにしなやかな体幹の機能美は本物であった。


(待っていろ、我が青い鳥よ……)




帝国の死神は、夜空に浮かぶ冷たい月を見上げ、必ずや彼女を捕縛し、閣下の裁定を経て清廉なる伴侶として迎え入れるのだと、静かに、そして誰よりも真摯に闘志を燃え上がらせていた。


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