第12.5話 公爵令嬢ロザリアのため息
夜の帳が降りた執務室に、書類をめくる乾いた音だけが静かに落ちる。
窓の外には、無数に瞬く帝都の灯火が銀河のように広がっていた。
卓上のランプが放つ淡い光の下、ロザリアは西方鉱山の事後処理に関する決裁書類に目を通していた。
総督の身柄確保、横領資産の国庫返還、私兵たちの労務大隊への編入、そして天性の身体能力を持つ孤児・ガゼルの近衛登用。
一分の隙もない、国家機能の最適化に基づいた完璧な裁定。
皇帝の親裁を背負う特務機関長として、誰一人として異を唱えられない公明正大な統治の形がそこにはあった。
だが、書類の端に最後の署名を走らせた後、ロザリアの指先がわずかに止まる。
脳裏に蘇るのは、先刻までこの部屋に直立していた黒甲冑の武人の姿だ。
ヴォルフ・ガランド。
「帝国の死神」と畏怖されながら、余計な政治的野心を一切持たず、ただ愚直に己の任務を果たして自分にすべてを委ねてくる男。
彼がガゼルに向けた視線の意味を、ロザリアはその卓越した観察眼で正確に看破していた。
手配書に描かれた「獰猛な大人の女闘士」という虚飾に淡い期待を抱き、現れたのがただの育ち盛りの子供であったことに、勝手に打ちのめされていた横顔。
そして、その子供が成長するまで待つことすら「武人の誇りが許さない」と、自らの潔癖さで叩き斬っていた絶望の深さ。
(……本当に、清廉すぎる人)
ロザリアは小さく息を吐いた。
呆れ果てるほどに愚直で、どこまでも高潔だ。
己の胸にどれほどの渇望を抱えていようと、庇護すべき未成熟な存在へ向けられる眼差しには、微塵の不純さも混ざらない。その鉄壁の倫理観があるからこそ、ロザリアは彼を唯一無二の「刃」として全幅の信頼を置いている。
……けれど。
その軍人としての清廉さは、同時に静かな宣告でもあった。未だ小さき者を、決してその領域に踏み込ませないという厳格な一線。
それはすなわち、十二歳のロザリア自身もまた、彼の瞳には「一人の女性」として永久に映らないという冷たい現実を告げていた。
どれほど卓越した知略で帝国を動かそうと、どれほど皇帝の信任を得て権力の頂に立とうと。
時間という抗えない理の前では、いかなる権能も意味をなさない。
彼が求めているのは、今この瞬間に背中を預け合える、完成された大人の強さだけなのだから。
(……理不尽なものですね)
窓ガラスの奥、帝都の夜景に透けるように浮かぶ己の幼い輪郭を見つめ、ロザリアの胸の奥に冷たい寂寥が満ちていく。
恋と呼ぶには淡く、主従の情と呼ぶには少しだけ輪郭の違う、名前のつかない微かな痛み。
ガゼルを直属の護衛とし、特務部隊を率いるヴォルフに実戦での連携と教育を委ねたのは、特務機関の防衛力を最大化するための、純粋な最適解だ。
私情など一切挟んでいない。誰が査問しようと、これ以上の采配はないと断言できる。
ただ――帝国を揺るがす火種を消して回る本務に加え、帝都へ戻れば新たな近衛の手綱を握る役目まで背負うことになる彼は、これまで以上に戦いと任務の日々に身を投じることになるだろう。
彼が探し求める理想の幻影は、遠い砂漠の彼方へと消え去った。
手塩にかけた娘に手を出すことなど決して選ばない彼が、誰を選ぶこともなく、これからも己の刃として隣に立ち続けてくれる。
その巡り合わせの確かさに、胸のどこかで淡い安らぎを覚えてしまう自分を、ロザリアは小さく自嘲した。
「……さて」
ロザリアは視線を窓から机上へ戻し、姿勢を正した。
冷徹な官僚としての静寂が、再びその瞳を覆う。
自らの下した裁定の正しさを噛み締めながら、ロザリアは静かに次の報告書を引き寄せ、夜更けの執務へとペンを滑らせていった。
─第1章 黎明・三境査察編 完─
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