第11話
夜明け前の西方総督府。地平線の彼方が白み始め、冷え切った砂漠の空気が紫紺の闇を押し流そうとしていた。
豪奢な白亜の総督府を包囲した特務機関第一部隊の手際は、冷徹かつ完璧だった。
敷地内に配置されていた総督直属の私兵部隊は、闇に紛れた黒甲冑の兵たちによって瞬く間に死角から急襲され、誰一人として警鐘を鳴らす間もなく武装解除されて回廊へ転がされていく。
静まり返った回廊の最奥、黄金の装飾が施された重厚な執務室の扉の前に、三つの影が音もなく並び立った。
ヴォルフ・ガランドは無言のまま右足をわずかに引き、鍛え上げられた軍靴を扉の閂めがけて叩き込んだ。
轟音とともに両開きの扉が粉々に砕け散り、室内の豪奢な絨毯の上へと吹き飛んだ。
「な、なんだッ!? 誰だッ!」
立ち込める粉塵の向こう、暖炉の前で書類の束を狂ったように火にくべていた男
――肥満体を金糸のガウンに包んだ西方総督が、引き攣った顔で跳び退いた。
執務室の空気は、羊皮紙や木枠が燃え盛る嫌な臭気と黒煙で満ちていた。
手にした紙束を暖炉へ投げ込もうとした総督の腕が、侵入者たちの姿を捉えた瞬間、凍りついた。
埃の中を歩み出てきたのは、返り血一つ帯びていない漆黒の巨躯――「帝国の死神」ヴォルフ。
その隣には、軍務手帳を手にした端正な顔立ちの副官レオン。
そして、その足元には――死神の手によって細切れに処分されたはずの、泥まみれの赤毛の少女ガゼルが、殺気を孕んだ瞳で総督を射抜いていた。
「ヴ、ヴォルフ……!? な、なぜ貴様がここに……!」
総督の顎がわなわなと震え、脂汗が額から滝のように噴き出した。
「ガ、ガゼル……!? なぜ貴様が生きている!? 貴様、死神に奇襲を仕掛けて……な、なぜ……ッ!」
ヴォルフが無言で顎をしゃくると、レオンが無駄のない動作で踏み込み、外套を払って暖炉の炎を砂袋で素早く圧殺した。
さらに壁際の隠し金庫を軍用ツールでこじ開けるが、内部はすでに空であり、底にわずかな灰がこびりついているのみだった。
「隊長。金庫内は空、暖炉の書類も大部分が灰となっております。直接的な裏帳簿や密売契約書といった決定打となる物証は、事前に焼却・処分された模様です」
レオンの淡々とした報告を聞き、総督の引き攣っていた顔に、急速に醜悪な安堵の色が広がった。
男は煤で汚れたガウンを整え、脂ぎった顔を歪めて嘲笑を浮かべた。
「ふ、ふん……! 驚かせおって! 何の用だか知らんが、ここは西方総督の執務室だぞ! 証拠の書類一つ押さえられん無能どもが、不法侵入した上に私を拘束できるとでも思っているのか!? 軍務の越権行為として帝都へ訴え出てやる!」
物証が灰になったことで調子づき、唾を撒き散らす総督。
だが、ヴォルフは鉄兜の奥から、まるで路傍の汚物でも見るかのような冷淡な視線を向けるだけだった。
「書類を燃やせば、すべてを闇に葬れるとでも思ったか」
低く、地を這うようなヴォルフの声が執務室を圧する。
「現場の鉱山は落盤などしておらず、今も無傷で正常に稼働している。採掘現場の日誌と、帝都へ届いた上納記録の差分。……そして何より、死んだはずのこの怪童が生きてここに立っている」
ヴォルフは懐から、ロザリアの署名と皇帝の玉璽が押された令状を取り出し、総督の鼻先へ突きつけた。
「地方総督の職務執行における重大な背任および反逆疑惑に基づき、貴様の身柄を拘束する。……帳簿を燃やしたところで無駄だ。鉱山を封鎖し、貴様の口座と関係者を帝都の監査官に徹底的に洗わせれば、消えた鉱石の行方も金の足取りも、自ずとすべて洗い出される」
「な……ッ!?」
「逃げ道はないぞ、総督」
冷酷な現実を突きつけられ、総督の顔から急速に血の気が引いていった。
帝都へ連行され、中央の厳しい査察と尋問にかけられれば、隠し口座も密売ルートも時間の問題で暴かれる。
言い逃れが完全に不可能だと悟った瞬間、男の恐怖は醜い逆上へと反転した。
「お、のれ……! どいつもこいつも、この私をコケにしおって……!」
総督は暖炉の火かき棒をひったくり、ガゼルを指差して激昂した。
「だいたい、そのドブネズミの証言など誰が信じるものか! 砂漠の孤児の戯言など、裁判で何の価値もないわ! 闘技場で死ぬはずだった貴様を拾い上げてやった恩も忘れおって! 正義だと? 仲間を守るだと? 笑わせるな!」
総督は嘲笑混じりに唾を吐き散らし、ガゼルを侮蔑の眼差しで見下ろした。
「おいガゼル、貴様が得意げに大剣を振るって追い散らしていた『悪党』どもが、一体誰だったか知っているか!? 鉱石の横流しに抗議していた西方先住部族の長や、私の不正を帝都へ告発しようとしていた正規採掘ギルドの連中だよ! 貴様は私の端金に目がくらみ、言われるがまま罪なき者共を正義の味方気取りで喜んで叩き潰していた、ただの頭の悪い狂犬だったのだッ!」
「……っ!?」
ガゼルの息が止まった。
頭を殴られたような衝撃に、目を見開いたまま硬直する。
自分が「鉱山を守る正義の鉄槌」と信じて振るってきた刃が、実際には悪事に抗議する無実の人々を口封じするための凶器に過ぎなかった。
総督の口から直接突きつけられた残酷極まりない現実に、ガゼルの体が小刻みに震え出した。
「支援金だと!? 貴様のような剣奴の仲間に、真っ当なパンなど食わせてやる義理があるか! 泥水でもすすって野垂れ死ねばよかったのだ! 孤児院のガキどもを人質に取られてヘラヘラ命を差し出すような間抜けが! 貴様は最初から、帝都の死神に斬り殺させるための使い捨ての鉄砲玉だったのだッ! なぜ死ななかった! なぜ死神の手で細切れにならなかったッ!!」
総督の罵声が執務室に響き渡る。
ガゼルはその場に立ち尽くしていた。
己の手で無実の者を傷つけていたという取り返しのつかない罪悪感。
そして、命を削って戦い抜いてきた日々のすべてを、ただの使い捨ての茶番として嘲笑われた屈辱。
ガゼルの小さな肩が激しく波打ち、奥歯が軋むほどの音を立てた。
拳の爪が手の平に食い込み、血が滲み出す。
その瞳から、もはや悲哀の涙は完全に消え失せていた。
ただ、燃え盛る業火のような、純粋で鋭利な憤怒の光だけが宿っていた。
ヴォルフは無言のまま、ガゼルの頭の上に鋼鉄の手甲を無造作に乗せた。
「……ガゼル」
「……あ?」
「落とし前をつけろと言ったはずだ。……やれ」
ヴォルフの手が離れた瞬間、ガゼルの体が弾丸のように弾けた。
「ひっ――!?」
総督が火かき棒を振り上げる暇すら与えなかった。
超低空の踏み込みから、腰の捻転と背筋のバネを極限まで連動させた、天性のギフテッドによる渾身の一撃。
ガゼルの小さな、だが鋼のように引き締まった右拳が、総督の脂ぎった顔面のど真ん中を正確に撃ち抜いた。
バキィッ! と、人の骨が砕ける鈍い破壊音が執務室に響き渡る。
「ぶべっ――!?」
巨躯を誇る総督の体が木の葉のように宙を舞い、背後のマホガニー製の巨大な執務机を真っ二つにへし折って叩きつけられた。
壁の装飾具を巻き込みながら床を転がり、血と折れた歯をぶちまけて白目を剥き、そのままピクリとも動かなくなった。
粉砕された机の破片の前に、ガゼルは拳を握りしめたまま立ち尽くしていた。
肩を上下させ、荒い息を吐き出しながら、昏倒した男を睨みつける。
その表情には、騙され、利用され尽くした過去への決別と、己の手でつけた確かな落とし前の感触だけが残されていた。
「……ふぅ。手が痛ぇや」
ガゼルは腫れ上がった右手をぶらぶらと振り、泥だらけの顔でフンと鼻を鳴らした。
「息はあるな」
ヴォルフは倒れ伏した総督を一瞥し、背後の副官へ淡々と命じた。
「レオン、拘束具をかけろ。燃え残りの灰と現場を保全し、特務機関第一部隊の護衛下に置け」
「はっ! 直ちに執行いたします!」
レオンが手際よく部下を呼び入れ、気絶した総督を頑丈な鉄鎖で縛り上げていく。
ヴォルフは破壊された執務室の窓辺へと歩み寄った。
朝日の黄金色の光が、砂嵐の去った静寂な総督府の前庭を鮮やかに照らし出していた。
吹き晒しの前哨平原で感じていたあの強烈な肩透かしと脱力感――期待していた「逞しい大人の女闘士」はおらず、いたのはただの小生意気な子供だったという現実は、朝日の下でも変わらない。
だが、己の私利私欲のために子供の誇りと命を弄んだ腐敗の根源は、完全に断ち切られた。
「隊長! 総督の身柄確保、ならびに総督府の制圧が完了いたしました!」
レオンの凛とした報告に、ヴォルフは鉄兜を深く被り直し、漆黒の外衣を翻した。
「これより帝都へ帰還する。総督の身柄、現場の記録、そして――この重要参考人を、ロザリアの元へ届けるぞ」
「お、おい! あたしを荷物みたいに言うなデカブツ!」
後ろで騒ぎ立てるガゼルの抗議を背中で聞き流しながら、死神は朝日に染まる西方総督府を後にし、帝都へと続く凱旋の路を踏み出した。
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