第9話
夜の帳が下りた西方砂漠地帯、希少魔導鉱石の採掘鉱山へと至る手前に広がる、広大な砂礫の前哨平原。
吹き荒れる猛烈な砂嵐が篝火の赤い炎を激しく煽り、砂粒が第一特務部隊の漆黒の重甲冑をバラバラと容赦なく打ち据えていた。
周囲には遮蔽物が一切存在しない。
見渡す限りの平坦な吹き晒し地帯は、重装甲を誇る帝国正規軍の突進と面制圧には極めて有利である反面、身軽さや死角を利用して戦う軽装の闘士にとっては、足場を取られる上に逃げ場もない最悪の地形であった。
平原の外郭における戦闘は、すでに大勢が決していた。
鉱山への進路を塞ぐように配置されていた武装勢力の残党は、漆黒の甲冑部隊による精密な包囲網によって次々と無力化され、冷たい砂礫の上に組み伏せられていく。
だが、第一部隊長のヴォルフ・ガランドは未だ腰の長剣を抜くこともなく、鉄兜の奥から砂煙渦巻く平原の奥をじっと見据えていた。
その胸中には、任務の緊張感とは全く異なる、熱烈な期待が静かに渦巻いていた。
胸元の革ポケットには、西方総督府から送られてきた一枚の人相書が収められている。
過酷な地下闘技場を素手と刃物一本で制覇し、灼熱の砂海で己の力のみを頼りに生き抜いてきた女闘士ガゼル。
余分な脂肪を極限まで削ぎ落とし、まるで鋼板の如く六つに割れた見事な腹筋と、獰猛な野生を宿した圧倒的な立ち姿。
(……砂漠の死線を潜り抜け、己の肉体を極限まで鍛え上げた女か)
これほどの体幹を持つ強者ならば、帝国の死神と呼ばれる己を前にしても決して怯えず、媚びることもなく、対等に隣に立って背中を預け合えるに違いない。
至らぬ点があれば、正面から机を叩いて怒鳴りつけてくれるはずだ。結婚したい。
兜の下で真顔のまま密やかな願望を巡らせながら、ヴォルフは「首領ガゼル」との邂逅を求め、重い軍靴の音を響かせて平原の中央へと歩みを進めた。
その時、砂嵐の咆哮を切り裂いて、殺気すら置き去りにした異常な風切り音が鼓膜を打った。
――音がない。
気配を察知した刹那、砂煙を突き破り、遮蔽物のない平原を地を這うような超低空の姿勢で肉薄してくる影があった。
小柄な影の右手から閃き出たのは、研ぎ澄まされた一本の短剣。狙いはヴォルフの喉元、甲冑の継ぎ目である頸動脈の一点のみ。
名乗りも威嚇もなく、ただ確実に息の根を止めるためだけに放たれた、精密極まりない暗殺刺突。
ヴォルフは反射的に顎を深く引き、左腕の鋼鉄の手甲を滑り込ませて切っ先を紙一重で弾き上げた。
キィィン、と耳を劈く甲高い金属摩擦音が夜の闇に響く。
手甲の鋼鉄に刻まれた深い裂傷を視界に捉え、ヴォルフの背筋に冷たい緊張が走った。
生半可な兵の突きではない。
全身の体重と加速のエネルギーを針の先ほどの切っ先に乗せきった、本物の達人の一撃だった。
奇襲を防がれた影は、着地の衝撃を完全に殺して後方へ滑るように跳躍した。
そして流れるような動作で背中に手を伸ばすや否や、自身の身の丈を遥かに超える巨大な大剣を一気に引き抜いた。
「死ねッ!」
砂煙を薙ぎ払い、吹き荒れる大剣の嵐。
それは小柄な体躯からは到底信じられない速度と破壊力を秘めていた。
力任せの大振りではない。足首、膝、股関節、そして脊椎の連動が完璧に統制されており、砂礫に足を取られることなく滑るように加速する。遠心力で加速した刀身が、ヴォルフの頸部、脇の下、膝裏といった急所をミリ単位の精度で連続して抉りにかかる。
(速い……! 兜で受ける余裕すらないか)
ヴォルフは長剣を抜く間合いすら与えられず、籠手と体捌きだけで必死の防戦を強いられた。
一撃でもまともに喰らえば、重甲冑ごと肉を断ち切られる。
相手の眼光には迷いも躊躇もなく、ただ獲物を確実に解体することだけに特化した純粋な殺意が宿っていた。
天性の身体的ギフテッド。
数多の戦場を潜り抜けてきた歴戦の死神が、内心で冷汗を流すほどの圧倒的な才能だった。
(……もしこいつの骨格が完成し、大人の筋量を備えていたならば、首を刎ねられていたのは俺の方だ。とんでもない怪童だぞ)
だが、実戦の死線を越えてきた経験の差が、わずかな隙を捉えた。
大剣の猛烈な振り抜きによって生じた、コンマ数秒の遠心力の偏り。
ヴォルフはその一瞬を見逃さず、踏み込みながら籠手で刀身の腹を外側へ受け流し、相手の懐へと完全に間合いを潰した。
「なっ……!?」
間合いを奪われた影の瞳が大きく瞠られる。
ヴォルフは自身の体格差と質量を乗せた重心移動で相手の体軸を強引に崩し、手首を巻き込むようにして大剣を砂の上へ叩き落とした。
そのまま相手の腕を背後へ交差させて固め、全体重をかけて砂礫へうつ伏せに組み伏せる。
骨格の急所を的確にロックする、冷徹で無駄のない精密な関節制圧。
二振りの武器を失った小柄な影は、砂に顔を押し付けられたまま完全に身動きを封じられた。
ヴォルフは荒くなった息を静かに整え、周囲の暗がりを見渡した。
「……見事な体幹と太刀筋だ。これほどの手練れを手下に置いているとはな。で、首領のガゼルはどこにいる」
すると、組み伏せられていた影が、泥と砂を吐き出しながら猛然と激昂した。
「手下じゃねえ! 目ん玉腐ってんのか! あたしが傭兵団の頭、女闘士ガゼル様だッ!!」
「……」
ヴォルフの思考が、完全に停止した。
(……は?)
兜の奥で目を凝らし、組み伏せた相手をつぶさに見下ろす。
ボサボサの赤毛に、泥と煤がこびりついた丸顔。
だぶだぶの革鎧の隙間から覗く腹部は――六つに割れた鋼の筋肉など微塵もなく、子供特有の柔らかく平らな腹膜そのものだった。
どう見ても十代前半の、育ち盛りの子供――いわゆる、ちんちくりんであった。
ヴォルフは無言のまま片手でガゼルの関節を固めたまま、空いた手で懐から人相書を取り出した。
人相書に描かれた、鎧のような腹筋を誇る長身筋骨隆々の獰猛な女戦士。
手元で砂まみれになって喚いているちんちくりん。
人相書、ちんちくりん、人相書、ちんちくりん。
ヴォルフは一切の言葉を発することなく、実に三往復、両者を交互に見比べた。
「……実物のどこをどう見たら、この絵になるんだ」
ヴォルフの胸中で膨らんでいた期待は、音を立ててシナシナと萎み、底知れぬ脱力感へと沈んでいった。
(……子供ではないか)
落胆に打ちひしがれるヴォルフに対し、ガゼルは拘束された腕を軋ませながら吠え立てる。
「おいデカブツ! あたしは総督様から、ここは悪党どもから鉱山を守るための前哨地だって頼まれたんだ! 鉱山を奪いに来た死神のお前らこそが、正義を奪いに来た悪党なんだろ!」
その無垢な叫びを聞いた瞬間、ヴォルフの兜の奥の瞳から、落胆の色が完全に消え失せた。
「……総督にお前は何を吹き込まれた? 『帝都の死神は子供も容赦なく殺す悪魔だから、生き残りたければ話を聞かず、名乗る前に急所を突いて殺せ』とでも言われたか」
「なっ……!? なんで、それを……」
図星を突かれたガゼルの顔から、急速に血の気が引いていく。
ヴォルフは関節を緩め、懐からもう一枚の公文書――鮮やかな朱色の総督印が押された『緊急討伐要請書』を取り出し、ガゼルの目の前に放り出した。
「それが貴様をここに配置した総督の本音だ」
ガゼルは震える手で砂まみれの書類を拾い上げた。
そこに記されていたのは、あまりにも冷酷な文言だった。
『西方砂漠における前哨平原を不法占拠し鉱山を脅かす凶悪傭兵団の殲滅を要請する。首領ガゼル以下、構成員全員の対話は一切不要。現場にて即時殲滅・処分することを特務機関に委ねる――西方総督』
「対話不要、現場での即時殲滅。……暗闇の砂嵐の中、お前のような規格外の強者に急所を奇襲させれば、通常の軍人なら反射的に武器を振るって斬り殺す。正当防衛による過剰防衛で、軍の手を使ってお前を合法的に口封じするのが奴の筋書きだ」
「嘘だ……嘘だろ……ッ! あたしが闘技場から出られたのは総督様のおかげで……この場所を守り抜けば、孤児院のみんなと平和に暮らせるって…!」
信じ切っていた大人に裏切られ、己が仲間を死地へ誘う罠の引き金にされていたという残酷な真実。
ガゼルは書類を握りしめたままガタガタと震え出し、その大きな瞳から大粒の涙をボロボロと零れ落とした。
「うわああああんッ! 総督のバカ野郎ぉぉッ!」
砂礫の上に突っ伏して子供のように泣きじゃくるガゼルを見下ろし、ヴォルフは深く息を吐き出した。
腰の革袋から携行食糧の包みを取り出すと、乾燥肉と硬パンを無造作に彼女の頭の上へ放り投げた。
「……泣く暇があるなら食え。胃袋が空では、まともな判断もできん」
「ぐすっ……うぅ……ッ」
命がけの死闘の末に待っていたのは、期待していた「背中を預け合える筋骨隆々の女闘士」などではなく、虚像を背負わされ使い捨てられかけた子供だけだったという強烈な脱力感。
そして何より――十代前半の才ある子供を正義で洗脳し、過剰防衛を誘発させて特務部隊に処分させようとした地方総督の狡猾さと外道ぶりに対する、冷徹で静かな怒りがヴォルフの胸底で静かに燃え上がっていた。
「隊長! 前哨平原全域の制圧、完了いたしました!」
背後から、手帳を携えた副官レオンが駆け寄ってきた。
「残存兵力の武装解除は終了、平原の安全を確保しております! これよりの方針をご指示願います!」
ヴォルフは人相書と要請書を懐へ押し込むと、鉄兜を深く被り直した。
「このまま鉱山の検分に向かうぞ!この手配書、そして遮蔽物のないこの平原に戦力を配置した総督の意図……裏で何が動いているか、現場の物証を押さえて確かめる」
「了解しました! 被拘束者の身柄を確保の上、鉱山本丸へ進軍いたします!」
泣きじゃくるガゼルを連行し、死神は漆黒の外套を翻して、巨大な採掘鉱山へと歩を進めた。
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