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第83話「丘の上で」

 翌朝、体は驚くほど軽かった。三日間どうやっても抜けなかった気だるさが、嘘みたいに引いている。窓を開けると、テルミナの朝が流れ込んできた。焼きたてのパンの匂い、井戸を汲む音、子供の笑い声。世界が、ちゃんと続いている。

 丘は、町の外れにある。昔、リリスと初めて契約した夜に登った場所だ。それからも何かあるたびに、誰かとあそこへ登った。シャルロットの呪いが一つ解けるたび、セラフィナの封印が解けるたび。今日は、シャルロットと二人で。着替えて部屋を出ると、廊下でリリスとばったり会った。

    ◇

「ほう。出かけるのか」

 リリスが、何もかも見透かしたようににやりと笑う。

「丘に、な」

「……知ってるのか」

「シャルロットが昨日、わらわに相談しておったわ。『どんな顔で行けばいい』とな。可愛いやつじゃ」

 リリスが俺の胸を、とん、と指で突く。その目に、もうからかいの色はなかった。

「行ってこい。あの娘は、ずっと待っておった。呪いが解けるより、ずっと前から」

「……お前は、いいのか」

「何がじゃ」

「いや」

 リリスがふっと息を吐き、いつもの不敵な笑みに戻る。

「わらわのことは、また今度ゆっくり聞いてやる。今日は、あの娘の番じゃ。——行け」

 そう言って、俺の背中を軽く押した。

    ◇

 丘に着くと、シャルロットが先に立っていた。淡い青のワンピース。鎧はもう、どこにもない。風が金色の髪を揺らしている。振り返ったその顔は、緊張で強張っていた。

「……来てくれた」

「呼ばれたからな」

 隣に立つと、眼下にテルミナの町並みが広がった。朝日を浴びた屋根が橙色に光り、遠くで誰かが洗濯物を干している。

 しばらく、二人とも黙っていた。シャルロットが何度か口を開きかけてはやめる。指先が、ワンピースの裾を握ったり離したりしていた。

「あのね」

 ようやく、声が出た。

「私、ずっと言いたかったことがあるの」

 俺は黙って待った。急かさない。彼女が二年かけて抱えてきた言葉だ。町を見下ろしたまま、シャルロットが話し出す。

「森で、死にかけてた私を、レイドが拾ってくれた」

「呪いを治すって言ってくれた。理由なんかいらない、いたいならいればいいって。……あの時の私、何も返せなかった。お礼も、ろくに言えなかった」

「でも、毎日一緒にいて、戦って、呪いが一つずつ解けて。気づいたら——レイドのいない明日が、考えられなくなってた」

 風が、二人の間を抜けていく。

 シャルロットが、こちらを向いた。金色の瞳が、俺を見ている。逃げも、目をそらしもしなかった。

「好き」

 風が、止まった気がした。

「冥府で言ったのは、聞こえてないふりされて、それでよかった。怖かったから。でも——もう、ちゃんと言う」

 一歩、近づいてくる。

「レイドが好き。ずっと前から、好きだった」

 言い切った顔は、耳まで赤い。それでも目だけは、まっすぐだった。あの森で声も出せなかった少女が、自分の足で立ち、自分の言葉で想いを告げている。

    ◇

 俺は、すぐには答えなかった。答えを探していたわけじゃない。とっくに決まっていた。ただ、この瞬間を、ちゃんと受け止めたかった。シャルロットだけじゃない。リリスも、セラフィナも、メルティも、みんな特別だ。誰か一人を選ぶなんて、できない。ずるい話かもしれない。

 でも、と俺は口を開いた。

「俺も、好きだ」

 シャルロットの肩が、跳ねる。

「ただ、先に言っておく。俺は——お前だけを選ぶ、とは言えない。リリスも、セラフィナも、メルティも、みんな大事だ。こんな俺で、いいのか」

 シャルロットが、ぷっと吹き出した。目尻に涙が滲んでいる。それでも、笑っていた。

「何それ。今さら」

「知ってるわよ、そんなこと。あの子たちのことも、ぜんぶ。……それでもいいって、もう決めたの」

 涙を、手の甲で拭う。

「私、欲張りだから。レイドの隣にいられるなら、それで十分。一番じゃなくても、いい」

「一番とか、ないよ」と俺は首を振った。「順番なんてつけられない。みんな、違う形で、大事なんだ」

「……ずるい男。でも、そういうとこ。そういうとこが、好きなんだから」

 シャルロットが、俺の胸にこつんと額を当てた。その背中に、そっと手を回す。

 腕の中の体は、もう硬くこわばってはいなかった。森で拾った時、あんなに細くて壊れそうだった体が。今はたしかに、生きて、ここにいる。

    ◇

 どれくらい、そうしていただろう。

 シャルロットが顔を上げる。涙の跡は残っていたが、憑き物が落ちたみたいに晴れやかな顔だった。

「……すっきりした」

「そうか」

「うん。やっと言えた。二年分」

 二人で丘を下りはじめると、町が近づいてきた。パン屋の煙突から煙が上がり、ギルドの前でフィーナが手を振っている。その時、シャルロットが、ふと足を止めた。

「ねえ、レイド」

「ん?」

「他のみんなにも、ちゃんと向き合ってあげてね」と、シャルロットがいたずらっぽく笑う。

「リリスもセラフィナもメルティも、みんな待ってるんだから。——特にリリスは、八百年だよ?」

 俺は、思わず空を見上げた。たしかに、その通りだ。一人に答えたら、終わりじゃない。

 むしろ、ここからだった。


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