第80話「光と闇の境界で」
俺を中心に、光の橋が架かっていく。生と死を隔てる境界そのものが、目に見える形になって、足元から空へと伸びていく。何もかもが白い。
冥王の顔が、初めて歪んだ。
「その技は」
声から、余裕が消えていた。
「あの男と、同じ。始まりの、死霊術師——!」
冥王が手を翳す。あらゆる魂を呑み込む魂喰が、光の橋に襲いかかった。だが橋はびくともしない。魂の架け橋はエネルギーではなく、魂と魂の繋がりそのものだ。喰らうという力が、そもそも噛み合わない。
「馬鹿な……我の魂喰が、効かない……!」
俺の体から、魂が流れ出していく。指先から、腕から、奥のほうから。橋に命を注ぐたびに、体の芯が冷えて、意識が薄れていった。
それでいい。これで終わる。みんなが助かる。
視界が白に溶けていく、その時だった。
◇
腕を、痛いほど強く掴まれた。
「やめろと言ったはずじゃ」
リリスだった。紅い瞳が、すぐ目の前にある。涙で濡れていた。
「ぬしが消えたら、わらわは——」
「リリス。離せ」
声を出すのが、やっとだった。
「これしか、ないんだ」
「嘘じゃ」
リリスが俺の手を両手で握りしめると、その体から紅い光が溢れ出した。八百年を生きた真祖の、命そのもの。それが手を通して、俺の魂に流れ込んでくる。抜けていくはずだった命が、途中で止まった。
「やめろ……! お前が消えるだろ!」
「消えぬ」
涙を流しながら、リリスが不敵に笑う。
「わらわは真祖じゃ。命を分けたぐらいで、死にはせぬ。それに、な」
握る手に力がこもった。声が、ふいに柔らかくなる。
「ぬしの方が、大事じゃ」
◇
背中に、手のひらが当たった。温かい。呪いを制する力が、背骨を伝って流れ込んでくる。シャルロットだ。
「一人でやるなんて、許さないから」
言葉とは裏腹に、その手は俺を支えていた。
腰に、小さな腕が回る。メルティが、実体化した体ごと、力いっぱい俺にしがみついた。
「ししょう。メルティ、もう消えないって約束した。だから、ししょうも。消えちゃ、だめ」
反対の手を、誰かが取る。セラフィナだった。暁の翼が、橋を淡く照らしている。
「私の魂も使ってください。この翼は、生と死の境を照らす光ですから」
最後に、白銀の光が橋に突き立った。名もない鉄剣。柄を握ったゼノンが、俺を見る。
「七年分の借りだ。返させろ」
五つの力が、橋に注がれた。俺一人で背負うはずだった命の代価が、六つに分かれていく。
◇
数千年前、始まりの死霊術師は、たった一人でこの橋を架けた。一人で世界を救い、一人で消えた。
俺は、違う。
六つの魂が、橋の上で一本に繋がっていく。一人では渡りきれない橋も、六人でなら渡れる。流れ出ていった命が戻ってきて、仲間の魂が俺を生かしていた。
涙が、こぼれた。
「……お前たち」
それ以上、言葉にならない。
「泣くな」
自分も泣いているくせに、リリスが握った手に力を込めた。
「わらわたちの力を、信じろ」
◇
六人の魂で編まれた光の橋が、冥王に向かって伸びていく。
「やめろ……! この技だけは——!」
冥王が初めて後ずさったが、逃げ場はなかった。橋の光が、その体を包み込む。喰らえない光、呑み込めない繋がりが、冥王の中で渦巻く数十万の魂——その縛めを、一つずつ解いていった。
光の粒が、零れ落ちる。
一つ。二つ。十。百。
冥府で。地上で。何千年ものあいだ呑み込まれてきた魂たちが、いま一斉に空へと昇っていく。
「我の力が……我の、魂が……!」
数十万を失った冥王の体が、みるみる縮んでいく。最後に残ったのは、たった一つ。冥王自身の、ちっぽけな魂だけだった。
◇
俺は、その魂に手を伸ばした。
六人の力で、新しい封印を編む。死霊術。血。聖と闇。呪力。全属性の魔法。白銀の剣。六つの色が絡み合い、小さな魂を包む檻になっていく。
「また、封じるのか」
冥王の声に、もう怒りも飢えもなかった。
「何千年、経っても」
「違う」
俺は首を振った。
「消すわけじゃない。眠ってもらうだけだ。冥府の秩序が、戻るまで」
底のない暗闇だった冥王の瞳に、わずかな光が差した。長く生きすぎた者の、途方もない疲れの色だった。
「……数千年ぶりに、疲れた。少し、眠ろう」
封印が閉じる。冥王の魂が、抗うことなく、眠るように光の中へ沈んでいった。
◇
紫黒の渦が消え、瘴気が晴れていく。忘却の底が、本物の白を取り戻していった。
遠い地上で、雲が割れて陽が差したのが、わかった。理屈ではなく、わかった。
糸が切れたように、六人が床に崩れ落ちる。立っていられる者は、もう誰もいなかった。魂を使い果たして、指一本動かすのも億劫だった。
それでも、全員が息をしていた。誰も、消えていない。
俺は仰向けに倒れたまま、天井のない白を見上げて、笑い出した。
「生きてる。全員、生きてるな」
「当然じゃ」
息も絶え絶えに、リリスが笑う。
「死なせるものか」
メルティが四つん這いで近づいてきて、俺の胸に倒れ込んだ。実体の重みと、温度のある体で。
「ししょう……ししょう……! よかったぁ……!」
その頭に手を乗せると、髪がやわらかかった。
シャルロットは膝を抱えて、泣きながら笑っていた。
「バカ……ほんとに、バカ。一人で死のうとしないでよ……」
セラフィナは何も言わず、ただ静かに涙を拭っている。言葉は要らなかった。少し離れて大の字に転がったゼノンが、白い天井へ息だけの笑いをこぼした。
「生きてるって、いいな」
◇
頭の中に、声が響いた。カロンだ。もう、掠れていない。
「冥渦が、止まった。封印は以前より遥かに強固だ。これなら、数万年は持つだろう」
少しの沈黙のあと、その声に深いものが滲んだ。
「レイドよ。見事だった。始まりの死霊術師は、一人で世界を救い、命を落とした。だがお前は——仲間と共に世界を救い、こうして生きている。お前は、あの男を超えたのだ」
目を閉じた。超えた、という言葉は、どうしてもしっくりこなかった。
「……違うよ」
小さく答える。
「俺は、恵まれてただけだ。こんな仲間が、いたから」
握ったままだったリリスの手が、俺の手を引いた。体を起こす力もない手を、ただ、離さないように握って。
「帰ろう、レイド。テルミナに」
涙の跡のまま、紅い瞳が笑っていた。
白い光が、六人を包んでいく。地上へ。陽の差す、世界へ。
「ああ」
声が、自然とこぼれた。
「帰ろう」
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