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第77話「忘却の底——冥王復活」

 四天王の空間を抜けると、白い世界が広がっていた。

 上も下もない。壁もない。果てしない白。その中央に、巨大な紋章が浮かんでいた。直径五十メートルほどの円。古代の文字と魂の光でできている。

 始まりの死霊術師が、数千年前に刻んだ封印。

 だが、紋章はひび割れていた。無数の亀裂が走り、そこから紫黒の光が漏れ出している。封印が、限界を迎えていた。

「これが、始まりの死霊術師の封印……」

 メルティが見上げた。声が小さい。

「数千年、これが冥王を閉じ込めていたんですね」

 セラフィナが紋章に目を凝らした。

「……凄まじい術です。天界の封印術より、ずっと精巧で、ずっと優しい。封じながら、相手を傷つけないように造られている」

「じゃが、もう持たぬ」

 リリスが言った。冷静だが、紅い瞳が紋章の亀裂を見据えている。

    ◇

 カロンの声が、頭の中に響いた。

 かすれていた。今までで一番弱い。冥府の管理者すら、冥渦に蝕まれている。

「間に合ったな……だが、ギリギリだ。封印はあと数分で崩れる」

「補強する方法は」

「魂の架け橋。それしかない。だが——」

「わかってる」

 遮った。最後まで聞きたくなかった。

 封印を補強すれば、冥王の復活を防げる。だがその代償は、俺の魂の大半だ。事実上の死。

 封印の前に立った。手を伸ばせば届く。今ここで魂の架け橋を使えば、冥王は復活しない。世界は救われる。

 後ろを振り返らなかった。振り返れば、決心が鈍る。

 リリス。シャルロット。セラフィナ。メルティ。ゼノン。帰ると約束した。テルミナで待っていると言った。

 手が、震えた。

 使うべきか。今、ここで。みんなが気づく前に。

 迷った、その一瞬。

    ◇

 封印が、砕けた。

 最大の亀裂が紋章を走り、轟音と共に砕け散った。紫黒の光が爆発した。白い世界が、一瞬で紫黒に塗り潰される。

 間に合わなかった。

 いや——迷ったから、間に合わなかったのか。

 あの一瞬。手を伸ばせば封印を補強できた。みんなに気づかれる前に、魂の架け橋を使えた。だが俺は、帰る約束を思い出して、手を止めた。

 その迷いが、世界を危険に晒した。

 歯を噛んだ。後悔は後だ。今は、目の前の敵に集中する。

 破片が飛び散る中、その中心から、声が聞こえた。

「……久しぶりだな」

 低く、深く、穏やかな声。全ての魂に直接響く声。

「光の世界の匂いがする」

 紫黒の光が凝縮していく。人の形になっていく。

    ◇

 現れたのは、巨大な怪物ではなかった。

 人間と同じくらいの背丈。性別のわからない、美しい顔。肌が夜空のように光り、その中で星が瞬いている。瞳だけが、底のない暗闇だった。覗き込むと、引きずり込まれそうな暗さ。

 冥王。数千年ぶりに目覚めた、全ての魂を喰らう者。

 怒鳴りもしない。威嚇もしない。ただ、静かにそこに立っている。それなのに——空気が重い。呼吸が苦しい。存在しているだけで、こちらの命を握られているような圧。

 シャルロットの手が震えた。メルティが半歩下がった。ゼノンの鉄剣が、カタカタと鳴った。

 歴戦の六人が、ただ立っているだけで圧倒されている。

「……800年で、最大の敵じゃの」

 リリスだけが、辛うじて声を出した。それでも、紅い瞳の奥に、わずかな怯えがあった。800年を生きた真祖が、怯えている。

 冥王が、こちらを見た。正確には、こちらの「魂」を見た。

「六つの魂か」

 微笑んだ。穏やかな、優しげな微笑み。

「どれも美味そうだ。——全て、いただこう」

 その一言が、何よりも恐ろしかった。怒りも、悪意もない。腹が減ったから食べる。それだけ。人間が果実をもぐように、魂を喰らう。

    ◇

 俺は全員の前に出た。

 足が震えている。魂力は半分以下。それでも、前に立った。

「来い」

 冥王に向かって言った。

「ここで終わらせる」

 冥王が、片手を上げた。

 何の動作もなかった。ただ手を上げただけ。それなのに、空間が歪んだ。白と紫黒が混ざり合い、世界が捻じれる。

 魂視に、冥王の体内が映った。

 息が止まった。

 数万。いや、数十万。冥王の体の中で、魂が渦巻いている。数えきれない魂。封印されている間に、冥渦を通じて喰らい続けた魂だ。

「封印されてる間も、喰い続けてたのか」

「封印は我を閉じ込めた」

 冥王が答えた。穏やかに。

「だが、魂の流れまでは止められなかった。数千年。流れ込む魂を、一つ残らず喰らった。——おかげで、目覚めた時には、封印された時よりも強くなっていた」

 四天王とは、次元が違う。

 数十万の魂を喰らった怪物。人の姿をした、世界そのものの終わり。

 それでも——退けない。

 ここで倒すしかない。

「全員、構えろ」

 六人が、最後の敵に向き合った。


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