第76話「第四天王・虚無」
第四の空間は、白かった。
炎も、暗闇もない。ただ白い。壁も床も天井も、白くて、境目がわからない。音がない。匂いもない。何もない空間。
中央に、人型の影が立っていた。
見ようとすると、視線が逸れる。確かにそこにいるのに、認識できない。存在しているのに、存在を拒む。見るたびに、頭が「そこには何もない」と言ってくる。
第四天王、虚無。
影が片手を上げた。何の予備動作もなかった。
「あ——」
メルティの声。足元を見ると、メルティの両足が消えていた。
「足が……ない……でも、痛くない……?」
魂視で見た。消えたのではない。メルティの足の「存在」そのものが希薄になっている。あるはずのものが、ないことにされている。
「動くな!」
魂の強化をメルティに全力で注いだ。存在を肯定する。「お前はここにいる」と魂に刻む。メルティの足が戻った。輪郭が濃くなる。
「ひゃっ……足、戻った……」
メルティが自分の足を踏みしめた。何度も。確かめるように。
◇
虚無の力がわかってきた。存在を否定する力だ。
リリスが血の茨を放った。茨が虚無に届いた瞬間、届いた部分が消えた。「無」になった。同時に、リリスの指先が一瞬薄くなった。
「攻撃した分だけ、こちらが削られるのか」
リリスが手を引いた。指先の輪郭が戻る。だが顔が険しい。
ゼノンが鉄剣を構えた。白銀の光を纏わせて斬りかかる。刃が虚無に触れた瞬間、白銀の光が飲み込まれて消えた。手応えがない。
シャルロットの呪浄の剣も同じだった。斬っても、斬った分だけ自分の存在が薄くなる。
メルティが全属性砲撃を放った。六色の魔法が虚無に殺到し——届く前に、消えた。「存在しない」ものに変えられた。
誰の攻撃も通じない。攻撃そのものの存在を、虚無が消してしまう。
「通常の手段じゃ倒せない」
考えた。虚無は存在を否定する。ならば、その逆は——存在を肯定する力だ。
セラフィナを見た。
暁翼。聖属性は存在を祝福する力。闇属性は存在を破壊する力。両方を併せ持つのは、セラフィナだけだ。
◇
「セラフィナ。お前ならいける」
セラフィナが俺を見た。
「聖属性で存在を肯定しながら、闇属性で虚無の否定を相殺する。理屈は通る。でも——」
言葉を切った。
「虚無の力は強すぎます。私一人では、自分の存在を保ちきれないかもしれません」
「一人じゃない」
手を伸ばした。
「俺が魂の共鳴で支える。お前が消えそうになったら、俺が引き戻す。二人で行こう」
セラフィナがしばらく俺の手を見ていた。それから、握った。
「……はい」
◇
セラフィナが翼を全開にした。
暁の光が白い空間に溢れた。金色と、その奥の黒。夜明けの色。何もない白の中で、その光だけが「存在」を主張していた。
俺はセラフィナの魂と共鳴した。二つの魂が繋がる。セラフィナの存在を、俺が支える。彼女が薄くなりかけたら、俺の魂力で濃くする。
セラフィナが虚無に向かって飛んだ。
虚無が片手を上げた。セラフィナの存在を消そうとする。セラフィナの体が薄くなりかけた。輪郭がぼやける。
共鳴を強めた。「お前はここにいる」。魂を通して、存在を肯定し続ける。
セラフィナの輪郭が戻った。
消えなかった。
虚無が、初めて動きを止めた。
「私は存在しています」
セラフィナの声が、白い空間に響いた。静かな声だった。叫びではない。確信だ。
「天使でも、堕天使でもない。暁天使として。レイドの仲間として。——私がここにいることを、否定できる者はいません」
翼から光が放たれた。聖と闇が同時に。「暁の裁き」。存在を肯定する光と、否定を破壊する闇が、一つになって虚無の核を貫いた。
俺は同時に「魂の解放」を放った。虚無の核——「無」そのものに、魂の光を注ぎ込む。
虚無が、初めて声を出した。
「存在……する……我が……?」
戸惑いの声だった。自分が「ある」ことを、初めて知った者の声。
「お前にも魂がある」
俺は言った。
「冥王に喰われて、空っぽにされていただけだ。解放する」
虚無の体が光に変わった。「無に還る」のではなかった。一つの魂として、解き放たれる消滅だった。白い空間に、最後に小さな光が昇っていった。
第四天王、撃破。
◇
セラフィナが着地した。翼を畳む。暁の光が静かに収まっていく。
「虚無に勝てたのは」
セラフィナが呟いた。
「自分が存在する意味を、信じられたからです」
その意味を、誰が与えてくれたのか。言葉にはしなかった。でも、こちらを見る紫の瞳が、答えを語っていた。
「お前の存在に意味がないわけがない」
俺は言った。
「お前がいなかったら、ここまで来られなかった。それが答えだ」
セラフィナが微笑んだ。天界の裁定者の顔ではない。柔らかい、人間に近い笑み。
「……ありがとうございます。その言葉が、私の一番の力です」
◇
四天王を全て倒した。
白い空間の奥に、道が開いていた。下へ続く道。冥府の最深部、忘却の底へ。
「行こう。最深部だ」
歩き出した。
一歩目で、視界が揺れた。
足がもつれた。膝から力が抜ける。倒れかけた体を、誰かが支えた。
リリスだった。無言で俺の腕を掴んでいる。
覚醒に三割。四天王戦で、さらに削られた。魂力の残量が、もう半分を切っている。
「……大丈夫だ」
「無理をするな、とは言わぬ」
リリスが静かに言った。
「だが——倒れる時は、わらわに寄りかかれ。一人で立とうとするな」
頷いた。
リリスの肩を借りて、一歩を踏み出した。
残り一時間。
最深部で、冥王が目を覚まそうとしている。
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