第75話「第三天王・憎悪——ゼノンの覚醒」
第三の空間は、燃えていた。
赤黒い炎が壁を這い、天井を舐めている。熱い。息をするだけで喉が焼ける。焦げた匂いと、鉄が錆びるような血の匂いが混じっている。
その中央に、黒い甲冑の魔将が立っていた。
「ようこそ」
憎悪が口を開いた。声が低く、粘ついている。
「お前たちの中に、たくさんある。怒り。嫉妬。後悔。……美味そうだ」
空気が変わった。胸の奥から、熱いものが込み上げてくる。理由のない怒り。誰かを殴りたい衝動。
魂の防護を全員に重ねた。負の感情の増幅を抑える。リリス、シャルロット、セラフィナ、メルティ——四人の目から赤みが引いた。
ゼノンだけが、抑えきれていなかった。
◇
ゼノンの目が赤く染まっていた。
防護が効いていないわけではない。外からの増幅は抑えている。だがゼノンの場合、感情が内側から湧き出ている。元々抱えていた嫉妬と後悔。それを憎悪が引きずり出している。
ゼノンの手が震えた。腰に差した鉄剣——王都で拾った、名もないただの剣——の柄を握っている。
「レイド……」
声が歪んでいた。
「お前は……全部持ってる。力も。仲間も。認められる場所も。俺は……何も……」
剣を抜いた。切っ先が俺を向いた。
「お前さえ、いなければ……!」
「ゼノンの目が……!」
シャルロットが剣を構えた。リリスが血の茨を準備する。
「待て」
俺は手で制した。
ゼノンの剣先が、目の前にある。震えている。あと一歩踏み込めば、俺の喉に届く距離だ。
動かなかった。
◇
「殺せ」
憎悪が囁いた。
「それがお前の本心だ。ずっと憎んでいたんだろう。その男を」
ゼノンの腕に力が入った。剣先が近づく。
「ゼノン」
俺は静かに言った。
「お前、なんで冥府まで来た」
ゼノンの動きが、わずかに止まった。
「武器もなく、魂の防護もなく、瘴気の中を歩いてきた。死にかけながら。——なんでだ」
「それは……」
「答えろ」
ゼノンの目の赤が、ちらついた。揺れている。憎悪の支配と、本人の意志が、目の奥でぶつかっている。
「……守る、ため」
絞り出すような声だった。
「世界を……守りたかった。お前みたいに。本物の勇者に……なりたかった」
憎悪が舌打ちした。「余計なことを思い出すな」
ゼノンの剣が震える。憎悪が引き戻そうとしている。
俺は一歩、前に出た。剣先が胸に触れた。布が裂けた。皮膚に冷たい刃が当たる。
「お前の怒りは、俺への怒りじゃない」
ゼノンの目を見た。
「弱い自分への怒りだ。違うか」
ゼノンの顔が歪んだ。図星を突かれた者の顔だ。
◇
ゼノンが、叫んだ。
言葉にならない叫びだった。怒りでも、悲しみでもない。その全部だった。七年間、認めたくなかったもの。自分が一番弱かったという事実。仲間に支えられていたのに気づかなかったという後悔。それを全部叩きつけるような、獣の叫び。
剣を、振り上げた。
俺は動かなかった。
剣が——俺の横を通り過ぎた。
ゼノンが振り返った。憎悪に向かって。
「俺の怒りは、お前のものじゃない」
声が変わっていた。歪みが消えていた。
「俺のものだ。俺の力で使う」
ゼノンの目から赤が消えた。代わりに、涙が落ちた。
手の中の鉄剣に、変化が起きた。
ただの鉄が、白銀に光り始めた。柔らかい光だ。聖剣の、あの死者の魂で濁った光ではない。澄んだ光。ゼノン自身の意志の光。
ゼノンが剣を見つめた。
「……これが、俺の」
「ああ」
俺は言った。それ以上の説明はいらなかった。
あの聖剣は、死者の魂を喰って光っていた。借り物の力だった。今ゼノンが握っているのは、王都の路地で拾った名もない鉄剣だ。なのに、あの聖剣よりずっと美しく光っている。
力じゃない。覚悟だ。
◇
ゼノンが憎悪に走った。
Bランクの脚力。Aランクには届かない速度。憎悪が嘲笑った。
「遅い」
炎の刃がゼノンを襲った。ゼノンが鉄剣で受けた。受け流す。踏み込む。一撃。
白銀の刃が、憎悪の甲冑を斬り裂いた。
憎悪の動きが止まった。
「馬鹿な……B級の剣が……」
ゼノンが二の太刀を振るった。憎悪の核を斬る。黒い甲冑が砕けた。
「数値じゃない」
ゼノンが言った。憎悪に向かって。あるいは、七年間の自分に向かって。
「強さは、数値じゃないんだ」
俺が「魂の解放」を放った。憎悪の残滓が浄化されて消えた。
第三天王、撃破。
◇
ゼノンが鉄剣を見つめていた。白銀の光が、ゆっくりと収まっていく。
「悪くない剣じゃの、勇者殿」
リリスが言った。
「ゼノンさん、かっこよかったです!」
メルティが拍手した。実体化した手で、本当に音を立てて。
シャルロットが腕を組んだまま、ぼそりと言った。
「……ちょっとだけ、認めてあげる」
セラフィナが穏やかに微笑んだ。
「あなたはもう、偽りの勇者ではありません」
ゼノンが俺を見た。何か言おうとして、結局、短く言った。
「……ありがとう」
「お前の力だ」
それだけ言って、前を向いた。
第四の空間への道が、開いている。
「次が虚無だ。存在を消す力を持つ。四天王で一番厄介な相手だ」
残り三時間。
「全員で行く」
六人が、最後の天王に向かって歩き出した。
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