第71話「冥府への降下」
大聖堂の跡地に、裂け目が開いていた。
ヴァルキスが暴走させた冥渦が、地上と冥府の境界を引き裂いた痕だ。紫黒の光が裂け目から吹き上がり、朝の空気を汚している。瘴気の匂いが鼻を焼く。
裂け目の前に、五人が並んだ。
背後に、ヴェルナーが二十人の精鋭を率いて立っている。王国軍の兵士たちが城壁の上から見守っている。
「地上は任せろ」
ヴェルナーが腕を組んだまま言った。
「冥府から溢れてくる連中は、全部俺たちが押し返す。お前たちは下だけを見てろ」
国王アルベルト三世が見送りに来ていた。紫黒の空の下、衛兵に囲まれて裂け目の傍に立っている。
「世界の命運を、お前たちに託す」
声は静かだった。もう震えてはいなかった。覚悟を決めた人間の声だ。
「必ず帰ってきます」
「待っている」
国王が頷いた。それだけで十分だった。
オルガが最後に近づいてきた。杖をつかずに。両手を空けて。
「お前さん」
俺の腕を掴んだ。皺だらけの手が震えている。
「絶対に、帰ってくるんだよ」
「約束する」
オルガが背中を叩いた。小さな手なのに、しっかりした一撃だった。
「行っておいで」
裂け目に向き直った。紫黒の光が目を刺す。この先に、冥府がある。壊れかけた冥府が。
「行くぞ」
五人で、裂け目に飛び込んだ。
◇
落ちた。
紫黒の光の中を、数秒。感覚が歪む。上下がなくなる。左右が消える。視界が回転する。
足が地面に着いた。
冥府の回廊。以前来た時と同じ場所のはずだ。だが、何もかもが違っていた。
壁が崩れていた。石の回廊の壁面に亀裂が走り、破片が散乱している。天井の一部が崩落し、紫黒の光が差し込んでいる。以前はカロンの蒼い灯りが通路を照らしていた。今は瘴気の紫だけだ。
空気が違う。以前の冥府は静謐だった。死者が安らかに眠る場所の、冷たいが穏やかな空気。今は濁っている。魂の叫びが空気中に溶け込んでいて、呼吸するだけで悲鳴が体に入ってくる。
「前に来た時と全然違う……」
メルティが呟いた。
ネクロポリスの方角を見た。煙が上がっている。冥都が燃えている。あの美しい蒼い街並みが。
「こんなに壊れてるなんて」
シャルロットが剣の柄を握り直した。
「瘴気が濃い。レイドの防護がなかったら、ここにいるだけで魂が削られる」
全員に魂の防護を施した。蒼白い光の膜が五人を包む。瘴気が膜に当たって弾かれる。だがこの防護を維持するだけで、魂力を消費し続ける。時間との戦いだ。
◇
回廊を進むと、入口にカロンが立っていた。
以前より——薄い。体の輪郭がぼやけている。蒼い光が弱くなっている。冥府の管理者が、冥府と共に衰弱していた。
「来たか、レイド」
声も掠れている。数千年の重みを持つ声が、今は老人のように弱い。
「急いでくれ。封印は冥府の最深部、『忘却の底』にある」
「道は」
「四つの空間を抜ける必要がある」
カロンが手を振った。蒼い光で、虚空に地図を描いた。光が震えている。描くだけで消耗しているのだ。
「冥王の四天王。封印の弱体化で力を取り戻しつつある。先兵として、最深部への道を塞いでいる」
四つの空間が地図に光っている。忘却の底への一本道に、順番に配置されている。
「第一天王、飢餓。魂を喰らう餓鬼。触れた者の魂を吸い取る」
「第二天王、絶望。心に最も恐れるものを見せる幽鬼」
「第三天王、憎悪。怒りを増幅して同士討ちさせる魔将」
「第四天王、虚無。存在そのものを消す力を持つ」
四体。どれも、普通なら対処不可能な相手だ。
「4体を全て突破しなければ、忘却の底には辿り着けない。残り時間は十時間程度だ」
十時間。一体あたり二時間強。移動時間を考えると余裕はない。
「全員で一体ずつ倒す。確実に。取りこぼしは許されない」
四人が頷いた。
カロンが俺の肩に触れた。手が透けかけている。
「わしはもう——ここから動けぬ。門を維持するだけで精一杯だ」
「わかった。ありがとう、カロン」
「礼はいらん。世界を救え。それだけでいい」
背を向けて歩き出した。カロンの姿が遠ざかる。数千年を冥府で過ごした管理者が、門番として最後の力を振り絞っている。
◇
渦中を進んだ。
空間が歪んでいる。床が傾き、壁が波打ち、天井が消えたかと思えば目の前に現れる。冥渦の影響で、冥府の空間構造そのものが壊れている。
レイドが先頭で魂視を展開し、道を切り開く。暴走した亡者が行く手を塞ぐたびに、魂鎮で沈めていく。
リリスが右翼。血の結界で横からの奇襲を防ぐ。
セラフィナが左翼。暁翼の光が暗闇を照らし、瘴気を浄化する。
シャルロットが前衛。呪浄の剣で道を塞ぐ残骸を斬り払う。
メルティが後衛。全属性魔法で背後からの追撃を封じ、空間の歪みを修正する。
息が合っている。言葉は最小限。視線と呼吸だけで連携が成立する。70話分の積み重ねが、この陣形にある。
三十分。渦中の回廊を突き進んだ。亡者を鎮め、瘴気を弾き、崩壊する空間を駆け抜けた。
広い空間に出た。
虚空だった。天井も壁も床もない。暗闇の中に、紫黒の光だけが漂っている。
空間の中央に——それがいた。
骨だ。巨大な骨。十メートルを超える骸骨が、虚空に浮かんでいる。両手を広げ、口を開け、周囲の魂を吸い込み続けている。蒼白い光の粒が、四方八方から骸骨の口に向かって流れ込んでいく。喰われている。魂が喰われている。
「魂だ……」
声が聞こえた。地の底から響くような、だが渇望に満ちた声。
「魂をくれ……もっと……もっと……」
骸骨の眼窩に、紫黒の光が灯った。俺たちを見つけた。
「5つも……新しい魂が来た……」
歓喜。飢えた者の歓喜。
「美味そうだ……」
第一天王、飢餓。
「来るぞ」
剣を構えた。覚悟を決めた。
「全員、戦闘態勢」
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