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第70話「始まりの死霊術師の遺産」

 目を開けたら、天井が見えた。

 宿舎の部屋だ。窓からの光が橙色に染まっている。夕方か。半日近く眠っていたことになる。

 体を起こすと、椅子でうたた寝しているリリスが目に入った。俺のベッドの横に椅子を引っ張ってきて、手を伸ばせば触れられる距離で眠っている。銀髪が頬にかかっている。

 起きた気配を感じたのだろう。リリスの目が開いた。

「目が覚めたか」

「ああ。どれくらい寝てた?」

「十二時間ほどじゃ。……無茶をしおって」

 声は柔らかいが、目は怒っている。正確に言えば、心配が怒りの形をしている。

「メルティの覚醒は?」

「成功しておる。完全実体化。本人は泣いたり笑ったりで忙しいぞ。シャルロットの手を握って『温かい!』、セラフィナの翼に触って『ふわふわ!』、わらわの髪に触って『さらさら!』と大騒ぎじゃ」

 少し笑った。メルティらしい。

 魂力を確認した。三割程度まで回復している。全盛期には遠いが、動ける。

    ◇

 オルガに連絡を取り、一人で宿舎を出た。

「わらわも行く」

 リリスが追いかけてきた。

「これは俺一人で見るべきものだ」

「なぜ一人で行かねばならん」

「信じてくれ」

 リリスの紅い瞳が俺の目を覗き込んだ。数秒。嘘があるかどうか測っている。嘘はない。まだ嘘はついていない。今の時点では。

「……わかった。じゃが、早く戻れ」

「すぐ戻る」

    ◇

 王城の地下。さらにその下。

 オルガの案内で、通常の地下施設よりもずっと深い場所に降りた。石段が延々と続く。壁の石が古い。大聖堂の地下よりもさらに古い。数千年前の建築だ。

 階段を降りるたびに、空気が変わっていく。地上の匂いが消え、古い石と乾いた空気だけになる。ランプの灯りが壁面の紋様を照らしている。見覚えのある紋様だ。魂魄支配の基礎術式に似ている。

「始まりの死霊術師が造った祭壇だよ」

 オルガが杖をつきながら先を行く。足取りがしっかりしている。この場所には何度か来たことがあるのだろう。

「ここを知っているのは、あたしの一族だけだ。代々、口伝で受け継いできた」

 石段が終わった。小さな空間に出た。

 中央に石の台座がある。台座の上に、一冊の書物が置かれている。ただの書物ではない。表紙が蒼白く光っている。魂の光だ。

「魂の書。始まりの死霊術師が残した、魂のアーカイブ」

 オルガが台座の前で立ち止まった。

「触れると、あの人の記憶と知識が流れ込む。お前さんの魂の色が同じだから、読める」

 手を伸ばした。指先が表紙に触れた。

    ◇

 世界が変わった。

 暗闇の中に立っている。足元に地面がない。浮遊している。四方八方に、星のような光の粒が漂っている。

 目の前に、人影があった。輪郭がぼやけている。顔は見えない。だが、魂の色が見えた。

 蒼白い光。俺と同じ色。

 始まりの死霊術師。名前は魂の書にも記されていなかった。あるいは、名前を持つ前の時代の存在なのかもしれない。

 記憶が流れ込んできた。

 数千年前。世界がまだ若かった頃。冥府と地上の境界は曖昧で、魂は自由に行き来していた。死者と生者が共存していた時代。

 その均衡を壊したのが冥王だった。全ての魂を喰らう者。生と死の境界を破壊し、世界を「魂のない虚無」に変えようとした存在。

 始まりの死霊術師は、冥王と戦った。

 そして、最後に一つの技を使った。

「魂の架け橋」

 記憶の中の声が、その名を告げた。

 生と死の境界そのものを操る最終奥義。冥王の「魂喰」を上回る唯一の力。術者の魂を媒介にして、生と死の境界を再び閉じる。冥王を封印する。

 技の手順が頭に刻まれていく。体が覚えている。魂が覚えている。同じ色の魂だから、そのまま受け取れる。

 そして、代償も。

 発動には術者の魂の大半を消費する。成功しても、術者は「魂の残滓」だけが残る状態になる。

 意識が消える。記憶が消える。自分が自分であった全てが消える。

 事実上の——死。

 始まりの死霊術師は、この技で冥王を封印し、そしてそのまま消えた。

 記憶が途切れた。祭壇の部屋に戻っていた。手が表紙の上にある。汗で湿っている。

    ◇

 オルガが俺の顔を見ていた。

 何も聞かなくてもわかるのだろう。目が赤い。

「使わずに済むならそれに越したことはない」

 オルガの声がかすれていた。

「全員の力を合わせて冥王を倒せれば、魂の架け橋は使わなくていい。最後の手段だ。最後の、最後の」

「……わかった。最後の手段として、覚えておく」

「帰ってきなさいよ」

 オルガの手が俺の腕を掴んだ。皺だらけの手。力が入っている。

「テルミナで、みんなが待ってる。フィーナが。ハンスが。子供たちが。ミレーヌが。——あたしが」

 頷いた。声が出なかった。

 階段を上った。一段ずつ、地上に戻っていく。背中に、始まりの死霊術師の遺産を背負って。

    ◇

 宿舎に戻った。

 四人が食堂にいた。メルティが実体化した手でパンを千切っている。「パンって歯ごたえがあるんですね! すごい!」と感動している。シャルロットが「当たり前でしょ」と言いながら笑っている。セラフィナが穏やかに見守っている。リリスがワインを傾けている。

 日常だ。紫黒の空の下でも、この五人の間には日常がある。

「ししょう! 起きたんですね! 大丈夫ですか!」

 メルティが駆け寄ってきた。袖を掴む。今度は実体の手で。温かい。

「ししょう、地下で何を見てきたんですか?」

「昔の死霊術師が残した戦闘技術だ。冥王に効くかもしれない技を覚えてきた」

「すごい! じゃあ勝てるのね?」

 シャルロットが身を乗り出した。

「ああ。勝てるよ」

 嘘だった。勝てるかどうかはわからない。そして勝てたとしても、その代償を——言えない。

 セラフィナが黙って俺を見ていた。紫の瞳が何かを感じている。天界の裁定者だった直感が、俺の言葉の裏を探っている。でも何も言わなかった。

 リリスが食堂を出た俺を追いかけてきた。廊下で捕まった。

「ぬし」

「ん」

「何か隠しておるな」

 心臓が跳ねた。顔に出さなかったはずだが。

「何も隠してないよ」

「嘘じゃ」

 リリスの声は静かだった。怒ってはいない。

「ぬしの魂が揺れておる。わらわにはわかる。契約者の魂の震えが、わらわに伝わるのを忘れたか」

 忘れていた。共鳴だ。嘘をつくと魂が揺れる。俺がリリスの魂を読めるように、リリスも俺の魂の揺れを感じる。

「……ごめん。でも今は、言えない。全部終わったら話す」

 長い沈黙があった。廊下に二人の影が伸びている。

「嘘が下手じゃの、ぬしは」

 溜息だった。怒りではない。諦めでもない。信頼だ。今は聞かない、という信頼。

「……わかった。今は聞かぬ」

 リリスが背を向けた。歩き出す前に、振り返らずに言った。

「じゃが覚えておけ。ぬしを死なせはせぬぞ。何があっても」

 足音が遠ざかった。

 廊下に一人残った。壁にもたれた。天井を見上げた。

 魂の架け橋。事実上の死。それを使わずに済むかどうか。

 わからない。でも、使わずに済むように戦う。全力で。四人の力を合わせて。

 ——それでもダメだった時は。

 その先を考えるのは、やめた。

    ◇

 翌朝。六日目の夜明け。

 カロンの通信が入った。声が切迫していた。

「封印の崩壊が予想より早まっている。残り二日と言ったが、あと一日しかない。今日中に冥府に降りなければ間に合わない」

「今日、降りる」

 五人が集まった。全員が覚醒済み。装備を整え、情報を共有し、作戦を確認した。

「王都の地下から冥府に降りるルートがある。カロンが案内してくれる。降りた先は冥府の最深部、『忘却の底』。封印がある場所だ」

 四人の顔を見た。

「帰ってくる。全員で」

 全員が頷いた。

「いつでも」

 声が重なった。四人分の覚悟が、一つの声になった。


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