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第69話「覚醒——メルティの全盛」

「ししょう。メルティのために無理しないでください」

 メルティの顔から、いつもの無邪気さが消えていた。

 訓練場で向かい合っている。セラフィナの覚醒から数時間。俺の体は立っているだけで精一杯だ。視界の端がちらつく。手の震えが止まらない。

 メルティは全部わかっている。315歳の魔術師だ。魂力の残量が一割しかないことも、この覚醒に足りない可能性が高いことも。

「メルティは今のままでも戦えます。半透明でも魔法は使えます。だから——」

「ダメだ」

「ししょう……」

「お前を完全にする。300年間、幽霊のまま苦しんできた分を、全部取り返す」

 メルティの目が潤んだ。唇を噛んだ。何か言おうとして、やめた。代わりに、小さく頷いた。

 リリスが後ろで腕を組んでいる。表情は読めない。だが紅い瞳が、俺の顔色を測っている。止めるべきか見極めている。

 止めなかった。

    ◇

 メルティの魂に触れた。

 半透明の体。魂だけの存在。300年前に殺されて、魂が現世に繋ぎ止められた。ゼルクの刃が背中に刺さった瞬間の絶望が、魂を縛っている。

 記憶が流れ込んできた。断片。ep27で見た記憶の続きではなく、見えなかった部分。

 300年間の、その後。

 誰にも見えなかった。声を出しても届かなかった。人の間を通り抜けた。触ろうとした手が、相手の体をすり抜けた。

 最初は助けを求めた。町を歩いて、すれ違う人に声をかけた。「メルティはここにいます」「見えますか」「お願い、こっちを見て」。誰も振り向かなかった。

 五十年経った頃、声を出すのをやめた。

 百年経った頃、町から離れた。人がいる場所にいると、余計に辛かった。

 二百年経った頃、自分の顔を忘れた。鏡に映らないから。

 三百年。洞窟の暗闇で、壁に背をつけていた。冷たさを感じない。何も感じない。ただ存在しているだけ。

 ——メルティはここにいるのに。

 記憶が途切れた。

 泣いていた。また泣いている。リリスの時も、セラフィナの時も。俺は弱い。人の痛みを見ると泣く。死霊術師なのに。

    ◇

 実体の再構築を始めた。

 魂に、肉体の情報を書き込んでいく。骨格。筋肉。血管。皮膚。髪。爪。心臓。肺。五感の全て。

 人間の体は複雑だ。一つ一つの細胞に魂力を注いで形にしていく。設計図はメルティの魂の記憶の中にある。300年前の体の情報が、ぼんやりと残っている。それを読み取って、再現する。

 魂力が減っていく。

 指先が冷たくなった。足の感覚が遠い。腕の力が抜けていく。

 七割完成。あと三割。

 視界が暗くなった。

「レイドッ! 魂が消耗しすぎておる!」

 リリスの声が遠い。

「やめて! これ以上は死ぬわよ!」

 シャルロットの声。近いのに遠く聞こえる。

「あと……少し……」

 手が震えている。メルティの魂を握っている手。離したら、中途半端な実体化で終わる。それはメルティを半端な存在にするということだ。幽霊でも人間でもない、中間の苦しみを味わわせるということだ。

 それだけは——ダメだ。

 力を絞った。残り一割を切った。魂の底の底から、最後の力を引きずり出す。

 メルティの手が、俺の手を握り返した。

「ししょう。もういいです」

 声が震えていた。

「メルティは——ししょうが生きてる方が大事です。覚醒なんかより、ししょうが——」

「よくない」

 目を開けた。霞んだ視界の中に、メルティの泣き顔がある。

「お前を完全にする。300年分の孤独を、俺が終わらせる」

 最後の力を注ぎ込んだ。

    ◇

 光が弾けた。

 メルティの体が白い光に包まれた。半透明だった輪郭が実体化していく。透けていた手が不透明になる。浮いていた足が石の床に着く。

 光が収まった。

 メルティが立っていた。

 半透明ではない。完全に実体のある、十五歳の少女。銀色の髪。紫の大きな瞳。白い肌。小柄な体。

 メルティが自分の手を見つめた。震えている。

 壁に手を伸ばした。指先が石に触れた。

「……つめたい」

 呟いた。

「壁って、つめたいんだ」

 300年間、何にも触れられなかった。通り抜けるだけだった。壁の冷たさを知らなかった。

 自分の髪に触れた。銀色の髪を指で梳いた。

「やわらかい。メルティの髪、こんなにやわらかかったんだ」

 声が震えている。一つ一つの感覚が、300年ぶりに戻ってきている。

 床を踏んだ。石の硬さが足の裏に伝わる。空気を吸った。訓練場の古い石の匂いが鼻に入ってきた。

「匂いがする。空気の匂い。石の匂い。こんな匂いだったんだ」

 そして、俺の手を両手で握った。

「……あったかい」

 涙が落ちた。

 実体化した目から。本物の涙腺から。300年ぶりの涙が、頬を伝って、顎から落ちて、石の床に落ちた。

 染みができた。涙の染み。300年間、泣いても涙が出なかった。泣いても誰にも見えなかった。泣いた跡が残らなかった。

 今、石の床に染みが残っている。メルティが泣いた証拠が、世界に刻まれている。

「ししょう」

 両手で俺の手を握ったまま、泣きながら笑った。

「メルティ、もう消えません。ずっと。ずっとししょうの傍にいます」

「ああ。消えさせない」

 声がかすれた。力が入らない。でも、ここだけは、はっきり言った。

「絶対に」

 メルティが飛びついてきた。今までは半透明の体がすり抜けることもあった。今度は、違う。腕が俺の体に回された。体重がかかった。温度がある。心臓の鼓動が伝わってくる。生きている。

「えへへ。ししょうだいすき」

 顔を俺の胸に埋めたまま。

「だいすき。だいすき」

 頭を撫でた。銀色の髪が、手のひらの下で柔らかい。

「俺もだ」

 小声で言った。メルティにだけ聞こえるように。

    ◇

 リリスがメルティの頭を撫でた。

 メルティが顔を上げた。泣いた跡で顔がぐしゃぐしゃだ。リリスが優しい目で見下ろしている。

「よかったの、メルティ。もう一人ではないぞ」

「リリスさんも」

 メルティが笑った。

「リリスさんも、もう一人じゃないです」

 リリスの紅い瞳が揺れた。800年と300年。孤独の形は違う。暗闇に閉じ込められた者と、誰にも見えなかった者。でも「一人だった」ことは同じだ。

「……そうじゃな。もう一人ではないの」

 二人が微笑み合った。それ以上の言葉はいらなかった。

    ◇

 立ち上がろうとした。

 膝が折れた。

「レイドッ!」

 リリスが駆け寄った。シャルロットが肩を支えた。セラフィナが翼で風を送った。メルティが慌てて手を握った。

「大丈夫……ちょっと休めば……」

 視界が暗い。体が冷たい。魂力が空だ。一割を切った状態から、さらに絞り出した。もう何も残っていない。

「休ませろ。今すぐ横にしろ」

 リリスの声は冷静だった。だが手が震えていた。

「死んではおらぬ。魂が疲弊しておるだけじゃ。休ませれば回復する。じゃが——」

 言葉を切った。窓の外を見た。紫黒の空の渦が、脈動している。

 残り二日。

「……時間がない、のう」

 意識が遠のいていく。四人の声が混ざり合って聞こえる。心配している。怒っている。泣いている。

 大丈夫だ。みんなの声が聞こえる。一人じゃない。

 暗闇に落ちた。


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