第68話「覚醒——セラフィナの暁翼」
五日目の朝。セラフィナの番が来た。
訓練場に入る前に、セラフィナが俺の腕を掴んだ。
「レイド。一つだけ聞かせてください」
「何だ」
「昨日のシャルロットの覚醒で、どれくらい魂力を使いましたか」
答えなかった。答えると心配させる。
「正直に言ってください」
セラフィナの紫の瞳は嘘を許さない。天界の裁定者だった者の目だ。
「三割」
「リリスの分と合わせて六割。残りは四割」
「ああ」
「私の封印は四層同時解除です。四割で足りますか」
「やってみないとわからない」
「嘘をつかないでください」
少し間があった。
「……ギリギリだ」
セラフィナが頷いた。何か言いたそうにして、飲み込んだ。それから訓練場に入った。
◇
セラフィナの封印は天界が施したもの。第3段階までは解除済みだ。聖闘融合の翼を手にしたのが二週間前。残りは第4から第7。四つの封印を、一気に解く。
「お前の封印には、他のものと違う特徴がある」
「はい。知っています。各封印に私の『罪』が刻まれています」
声に動揺はなかった。自分の罪を、とっくに直視している。
魂視で第4封印に触れた。金色の鎖の中に、文字が光っている。天界の古代文字だ。
「第4封印——『天界の掟を破った罪』。第5——『人間を庇った罪』。第6——『天使の力を私的に使った罪』。第7——『天界に背いた罪』」
読み上げた。一つ一つが、セラフィナの「犯した罪」。
「全部、人を助けたことだな」
セラフィナは目を伏せた。
「天界では、人間界への介入は禁止されています。見るだけ。裁定するだけ。手を差し伸べてはいけない。それが天使の掟です」
「だがお前は手を差し伸べた」
「……はい」
声が小さくなった。
「人間の子供が死にかけていたんです。目の前で。手を伸ばせば届く距離で」
「助けたのか」
「助けました。掟を破って。天使の力を使って。子供の傷を治して、逃がしました」
それが、罪。天界では。
「始めるぞ。四つ同時に行く」
「はい。お願いします」
◇
第4封印の鎖に触れた瞬間、記憶が流れ込んできた。
白い空間。天界の法廷。円形の議場に、無数の天使が並んでいる。全員が白い翼を持っている。中央にセラフィナが立っている。翼はまだ白い。まだ何も失っていない頃。
高い壇上から、天使の長が見下ろしている。
「セラフィナ。お前は人間を庇い、天界の掟を破った。弁明はあるか」
記憶の中のセラフィナが、顔を上げた。
「人間の子供が死にかけていました」
声は震えていなかった。
「助けることが罪だと言うなら、私は罪を犯します」
天使たちの目が冷たい。同情はない。規律だけがある。秩序だけがある。正しさは天界が決める。個人の感情は意味を持たない。
「堕天を宣告する」
セラフィナの翼が黒く染まっていく。白い羽根が一枚ずつ黒に変わっていく。痛みはない。だがそれよりもずっと辛いものがある。自分が信じていた場所に、否定されること。
記憶が消えた。
俺の頬が濡れていた。またか。リリスの時と同じだ。
◇
第5、第6封印を連続で砕いた。
セラフィナの体から光と闇が交互に噴き出す。翼が激しく明滅している。訓練場の壁に光の模様が踊る。
セラフィナの顔が歪んだ。封印と共に刻まれた罪悪感が蘇っている。天界に裏切られた痛みではない。自分が正しかったのかという疑問だ。
「私は……間違っていたのだろうか」
苦しみの中から、声が漏れた。
「天に背いてまで人を助けることは。掟を破って。仲間を裏切って。追放されて。それでも……正しかったと……言えるのか……」
手を握った。
「間違ってない」
「でも天界は……」
「天界のことは知らない。だが、お前が助けた子供は生きている。それが答えだ」
セラフィナの目が見開かれた。涙が溢れた。
そうだ。あの子供は生きている。セラフィナが掟を破ったから。罰を受けたから。翼を黒く染められたから。それと引き換えに、一人の子供が今も息をしている。
「……ありがとう」
声が裂けた。
「あなたがそう言ってくれて。ずっと……ずっと聞きたかった。誰かに。正しかったと……」
第7封印に手をかけた。最後の罪。「天界に背いた罪」。
砕けた。
静かに。音もなく。最後の鎖が光の粒子になって消えた。
◇
セラフィナの翼が変わった。
黒と白のグラデーションだった翼に、金色の光が混じり始めた。根元の黒。中ほどの白。そして先端に流れる金色。三色が一枚の翼の中で溶け合っている。
夜の闇と、朝の光と、その間に差す最初の光。夜明けの色。
「暁翼」
セラフィナが自分の翼を見た。訓練場の暗い空間の中で、金色の光が柔らかく溢れている。暖かい光だ。聖属性の眩しさとも、闇属性の深さとも違う。その両方を含んで、なお優しい光。
生と死の境界を照らす力。天使でも堕天使でもない、セラフィナだけの属性。
翼を広げた。訓練場全体が暁の色に染まった。紫黒の空の向こうに、朝焼けが見えるような錯覚。
「天界は私を捨てました」
セラフィナの声は穏やかだった。泣いた後の、洗われたような声。
「でもあなたが翼を返してくれた。天界のものとは違う翼を。もっと……温かい翼を」
俺を見た。
「レイド。私は天使でも堕天使でもない。あなたの傍にいる者。それが私です」
「ああ。お前はお前だ。翼が何色でも」
セラフィナが微笑んだ。天界にいた頃の冷静な笑みではない。もっと柔らかくて、不器用で、人間に近い笑顔だった。
「一つだけ聞いてもいいですか」
「何だ」
「この戦いが終わったら。私はまだ、あなたの傍にいてもいいですか」
「当然だ。いなくなったら困る」
セラフィナの頬が赤くなった。翼がぱたぱたと小さく動いた。感情が翼に出る癖は、治っていないらしい。
「……そうですか。よかった」
静かな声だった。でもその静かさの中に、どれだけの安堵が詰まっているか。天界を追放されて以来、ずっと「居場所がない」と感じていた存在が、ようやく「いていい」と言われた。
◇
セラフィナの覚醒が終わった。
壁にもたれた。足が動かない。手の指先が冷たい。視界の端がちらちらと明滅している。
魂力が、ほとんど残っていない。
リリスで三割。シャルロットで三割。セラフィナで……三割近く持っていかれた。残りは一割をわずかに超える程度。
メルティの覚醒に、足りるか。
足りない可能性が高い。わかっている。わかっていてセラフィナの覚醒に全力を注いだ。手を抜いたら、不完全な覚醒になる。冥王との戦いに不完全な力で臨めば、全員が死ぬ。
鼻血を袖で拭った。赤い筋が白い袖に染みる。
「ししょう」
メルティが駆け寄ってきた。顔が蒼い。俺の顔を見て、さらに蒼くなった。
「大丈夫ですか? 顔、真っ白です」
「大丈夫だ」
嘘だった。大丈夫じゃない。
「メルティ。お前の番だ」
メルティの目が揺れた。俺の顔と、鼻血の跡と、震えている手を見ている。
「ししょう。無理しないで。メルティは覚醒しなくても……」
「する。お前の力がないと、冥王は倒せない」
立ち上がった。膝が笑っている。
メルティが袖を掴んだ。いつもの癖だ。でも今は、支えるように掴んでいた。
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