第66話「覚醒——リリスの真祖覚醒」
覚醒訓練三日目の朝。
最初の二日間で王都周辺の冥渦を安定化させた。広域魂鎮を一日中展開し続けて、渦の拡大速度を半分以下に抑えた。体は疲弊しているが——立ち止まる余裕はない。
王城の地下訓練場。壁に防護魔法が何重にも施された広大な空間だ。天井が高く、石の壁には古代の紋様が刻まれている。ここなら多少の暴走が起きても城に影響はない。
リリスと向かい合った。
「最初はお前からだ、リリス」
「望むところじゃ」
リリスが腕を組んだまま微笑んだ。銀髪が地下の灯りを反射して、紅い光を帯びている。
「お前の体には、800年前に教会が刻んだ七重の封印がある。俺がこれまでに五つを解除した。残り二つ——『血の源泉』と『真祖の王冠』」
「血の源泉は、わらわの吸血鬼としての根源。真祖の王冠は——王としての力。800年前、教会が最も恐れたものじゃ」
「カロンの助言では、この二つは一気に解くしかない。一つずつ解けば、バランスが崩れて暴走する」
リリスの紅い瞳が俺を見た。恐怖はなかった。迷いもなかった。
「800年待ったのじゃ。覚悟などとうに決まっておる」
「——行くぞ」
◇
魂魄支配を全力展開した。魂の強化と魂の修復を同時に最大出力で投入する。
リリスの魂に潜った。五つの封印の残骸を通り過ぎ、最深部に至る。そこに——二つの光の環があった。
第6封印「血の源泉」。深紅の鎖が、リリスの魂の血脈に食い込んでいる。800年間、吸血鬼としての根源の力を封じ続けてきた鎖。
第7封印「真祖の王冠」。金色の鎖が、リリスの魂の頂点に巻きついている。王の力。真祖としての支配力。これが最も深く、最も硬い。
両方に同時に手をかけた。
——反発。凄まじい。教会が千年の技術を結集して作った封印だ。第1から第5とは比較にならない抵抗がある。
歯を食いしばった。力を注ぎ込む。
第6封印の結び目がほどけ始めた。
リリスの体から血色の魔力が噴き出した。紅い光が訓練場全体を染めた。壁が軋む。防護魔法の層が一つ砕けた。
「く……っ……! 800年分の力が、一気に……!」
リリスの声が歪んだ。体が震えている。800年間封じ込められていた力が、檻を破って溢れ出している。
「堪えろ、リリス。もう一つ——行くぞ!」
第7封印に全力を叩き込んだ。金色の鎖が軋む。罅が入る。——砕ける直前。
リリスの記憶が——俺に流れ込んできた。
◇
暗い。
何も見えない。何も聞こえない。
石の壁に囲まれた空間。棺のような狭さ。体は動かない。声も出ない。ただ——意識だけがある。
800年。
暗闇の中で、意識だけが存在し続けた。
一日が過ぎる。一月が過ぎる。一年が過ぎる。十年。百年。何百年。
時間の感覚が消えた。朝も夜もない。季節もない。あるのはただ——暗闇と、沈黙と、自分の意識だけ。
最初の百年は叫んでいた。声にならない声で。次の百年は泣いていた。涙も出ない体で。その次の百年は怒っていた。自分を封じた教会に。裏切った人間に。
四百年目に、怒りが消えた。何も感じなくなった。
六百年目に——ルシアの声を思い出した。最後に聞いた声。「いつか、あなたを救ってくれる人が現れる」。その言葉だけが、暗闇の中で小さな灯のように残っていた。
七百年。八百年。灯は消えなかった。
——誰か来て。
——誰か見つけて。
——誰か、わらわを人として見て。
化け物として封印され、忘れられた。リリスという名前を覚えている者は——誰もいなくなった。
◇
記憶が途切れた。
俺の頬を、涙が伝っていた。
「……見つけた」
声が震えた。抑えきれなかった。
「俺が見つけたよ、リリス。もう——一人じゃない」
最後の封印が——砕けた。
金色の破片が舞った。800年分の鎖が、一斉に消滅した。
◇
リリスの体が——変貌した。
銀髪が伸びた。肩まであった髪が、腰まで流れ落ちていく。色が深紅に染まり——いや、銀と深紅が混ざり合った、月光と血の色。
瞳が輝きを増した。紅い光が瞳孔の奥から放射されている。肌が月光のように白く発光する。800年前の全盛期——それを超える姿。
紅い光が訓練場を満たした。だがこの光は暴力ではなかった。壁を壊さない。人を傷つけない。——支配する光だ。この空間の全てが、リリスの意志の下にある。
リリスが片手を上げた。
地面から紅い茨が——いや、薔薇が咲いた。血でできた薔薇。石の床を突き破って、無数の紅い薔薇が訓練場全体に広がっていく。美しく、だが一枚一枚の花弁が鋼鉄よりも硬い。
「紅蓮の薔薇園」
リリスが呟いた。声が変わっていた。深く、豊かで、揺るぎのない声。女王の声。
もう一つの手を上げた。金色の光が訓練場に広がった。温かい光。触れた者の傷が瞬時に塞がる。
「不死の王冠」
俺の体の疲労が消えた。封印解除で消耗した体力が、一瞬で回復した。
味方全員に一時的な不死再生を付与する力。真祖の王の力だ。
「す……すごい」
メルティが目を見開いていた。
「リリスさん、きれい……」
「……圧倒される」
シャルロットが一歩退いていた。無意識に。力の桁が違う。
「これが——真祖の力」
セラフィナが翼を畳んだまま、静かに見上げていた。紫の瞳に、畏敬が浮かんでいた。
SSS級。世界最強クラスの吸血鬼の始祖。——800年間の封印が、今、完全に解かれた。
◇
リリスが俺の前に立った。
涙の跡があった。記憶が流れ込んだ時に——一緒に泣いていたのだ。
「この力はぬしがくれたものじゃ」
声が震えた。女王の威厳が、一瞬だけ揺らいだ。
「ぬしのために使う——それがわらわの存在意義じゃ」
「俺のためじゃなく、お前自身のために使え」
俺の声も震えていた。800年の孤独を、見てしまった。あの暗闇を。あの沈黙を。あの、届かない声を。
「お前は俺の道具じゃない。——大切な仲間だ」
リリスの目が見開かれた。
800年間——誰かに「大切だ」と言われたことがなかった。化け物として封印され、忘れられた存在。誰の記憶にも残らなかった存在。
「……ぬしは本当に、ずるいのう」
涙がこぼれた。真祖の王が——泣いた。
「そんなことを言われたら——わらわは、どうすれば……」
俺が手を差し出した。
「一緒に戦おう。世界を救ったら、テルミナに帰ろう」
リリスの手が——俺の手を取った。小さな手だった。王の力を持つ手が、震えていた。
「……約束じゃぞ」
声が裂けた。
「絶対に——帰るのじゃ」
「約束する」
◇
リリスの覚醒が完了した。
残りはシャルロット、セラフィナ、メルティの三人。
だが——体が重い。
リリスの覚醒だけで、魂力の三割を消費した。残り七割で三人を覚醒させなければならない。一人あたりの配分を考えると——ギリギリだ。
顔には出さなかった。
「次はシャルロットだ。準備はいいか?」
「いつでも」
シャルロットが剣を握り直した。金色の瞳が真っ直ぐ俺を見ている。
——大丈夫。やれる。
自分にそう言い聞かせた。体の奥で——魂力の残量計が、静かに減り続けていた。
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