第62話「王都の混乱」
王都ヴァルハイムの城門を抜けた瞬間、瘴気が体を包んだ。
紫色の霧だ。視界が薄暗くなる。甘ったるい腐臭が鼻を突いた。生ゴミの匂いではない。もっと深い——魂そのものが腐敗していく匂い。冥渦の瘴気。普通の人間なら数分で意識が朦朧とする濃度だ。
城門の内側で、冒険者たちが蹲っていた。顔色が蒼白で、息が荒い。瘴気に中てられている。Aランクの戦士でさえ、まともに立っていられない。
「魂の強化——全員に」
魂魄支配を展開した。四人に防護の層を纏わせる。瘴気は魂に作用する毒だ。魂の強化で魂の密度を上げれば、瘴気を弾ける。死霊術師だからこそできる防護。
五人が瘴気の中を歩いた。誰一人、足を止めなかった。
蹲っていた冒険者たちが顔を上げた。
「あいつら……瘴気が効いてないのか……?」
「五人で歩いてるぞ。平然と」
「あれが——テルミナの死霊術師か」
視線が集まった。驚き。畏怖。そして——希望。瘴気に苦しむ冒険者たちの目に、小さな光が灯った。
◇
王城に向かった。途中の通りは荒れていた。逃げ遅れた住民の荷物が散乱し、壁にひび割れが走っている。遠くで戦闘音がする。王都の防衛隊が、城壁内に侵入したアンデッドと戦っている。
城門からギルド総本部までの道のりで、三度アンデッドの群れに遭遇した。いずれも五人の連携で一分以内に殲滅。瘴気の中で全力戦闘ができるのは、この五人だけだ。
ギルド総本部。石造りの巨大な建物。壁面にギルドの紋章が刻まれている。ここが全国のギルドを統括する本部だ。入口に武装した冒険者が並んでいる。精鋭部隊だが、瘴気で顔が白い。
中に入った。広い会議室に通された。
待っていたのは——巨漢だった。
身の丈百九十センチ超。筋肉が服の上からでもわかる。白髪を短く刈り込み、顔に古い傷が三本。五十代半ばだが、目に衰えはない。——ギルド総長ヴェルナー。元SSランク冒険者。大陸全土の冒険者を束ねる最高責任者。
「レイド・ノクターン」
低い声だった。圧がある。だがバルドルの威圧とは質が違う。戦場を知る者の声だ。
「お前の名前は全国に届いている。テルミナの審問も、Sランク認定も、全部聞いた」
ヴェルナーが俺を見つめた。数秒の沈黙。品定めではない。——確認だ。この男に世界を託せるかどうかの確認。
「死霊術師に頭を下げる日が来るとはな」
「頭は下げなくていいです。状況を教えてください」
「……いい度胸だ」
ヴェルナーが地図を広げた。王都の全図。大聖堂の位置が赤く囲まれている。
「最悪だ。教会の地下聖堂に魂搾取装置がある。それが暴走して冥渦を引き起こしている。だが教会は『これは神の試練だ。信じる者は恐れるな』と言い張って聖堂を封鎖。聖騎士団の残党——バルドルに従わなかった十人と、教会に残った狂信者たち——が防衛線を敷いて、誰も中に入れない」
「搾取装置を止めなければ冥渦は拡大し続ける」
「わかっている。だが聖堂周辺の瘴気が濃すぎて、通常の冒険者では近づけない。Aランクでも瘴気に中てられて撤退した」
ヴェルナーが俺を見た。
「瘴気の中を進めるのは——死霊術師だけだ。だからお前を呼んだ」
「行きます」
即答した。ヴェルナーが頷いた。
◇
ヴェルナーの案内で、王城の奥に通された。
謁見の間。高い天井。石柱が左右に並び、奥に玉座がある。だが普段の荘厳さはない。窓から差し込む光が紫色に染まっている。瘴気が城の中にも浸透し始めていた。
玉座に——一人の男が座っていた。
国王アルベルト三世。五十代。本来は温厚な顔立ちだろうが、今は目の下に深い隈があり、頬がこけている。王冠を被る手が僅かに震えている。憔悴している。教会の横暴にも、冥渦にも対処できず、国民を守れないことに——この王は、苦しんでいた。
俺が膝をつこうとした。
「やめてくれ」
国王が手を振った。
「跪く必要はない。……余にその資格がない」
声が枯れていた。
「余は教会の言うまま、死霊術を禁忌としてきた。お前のような者を異端と呼び、迫害を許してきた。それが——間違いだったのだな」
「過去のことは今はいい。問題は今、何をするかです」
「……そうだな」
国王が立ち上がった。玉座から降りた。俺の前に立った。
そして——頭を下げた。
王が。この国の最高権力者が。死霊術師に。頭を下げた。
謁見の間を、沈黙が満たした。臣下たちが息を呑んだ。ある者は目を見開き、ある者は涙を浮かべた。千年の歴史の中で——王が死霊術師に頭を下げたことは、一度もなかった。禁忌とされた術の使い手に、国の命運を託す。それは教会が作り上げた千年の秩序が、今日この瞬間に終わることを意味していた。
「頼む」
声が震えていた。
「王国の全ての力を預ける。——世界を救ってくれ」
七年間。影で戦い続けて、誰にも認められなかった。追放されて、辺境に流れ着いて、一人で歩き始めて。テルミナの子供たちが名前を呼んでくれた。町の人々がおかえりと言ってくれた。オルガが手を握ってくれた。
そして今——この国の王が、頭を下げている。
Dランクの冒険者として始まった三ヶ月前。あの酒場のカウンターで、安い麦酒を一人で飲んでいた夜。誰にも見えなかった男が——今、王の前に立っている。
目を伏せた。一秒。息を吸った。
「……お引き受けします」
声が震えなかったのは、奇跡だったかもしれない。
◇
謁見の間を出た。廊下を歩きながら、四人が隣にいた。
「レイド」
リリスが声をかけた。
「嬉しいか? 王に認められて」
「……正直に言うと、嬉しいよ。でもそれより——やるべきことがある」
リリスが微笑んだ。
「あなたらしいです」
セラフィナが穏やかに言った。
「……バカ。嬉しい時くらい、素直に喜びなさいよ」
シャルロットが腕を組んだ。だが目が赤かった。謁見の間で——泣いていたのだ。俺が認められた瞬間に。
「七年間、あんたは誰にも認めてもらえなかった。ずっと影にいた。それが今——この国の王に認められた。泣いてもいいのよ、こういう時くらい」
「泣いてるのはお前だろ」
「泣いてない! 瘴気が目に染みただけ!」
シャルロットが袖で目元を拭った。瘴気は俺の防護で遮っているから、染みるはずがない。
「ししょうは王様よりすごいです。メルティが保証します」
「それはどんな保証だ」
「315歳の大魔術師の保証です! 最強の保証ですよ!」
少し笑った。——嬉しかった。認められたことが。でもそれ以上に——この四人が隣にいることが。
七年間、一人で背負っていた。認められたいなんて思ったことはなかった。ただ、自分にできることをやっていただけだ。それでも——認められるというのは、こんなにも温かいものなのか。
◇
王城の窓から、大聖堂の方角を見た。
紫黒の光の柱が天を貫いている。大聖堂の尖塔から空に伸びる光が、渦の中心に吸い込まれている。搾取装置が全力で稼働しているのだ。瘴気は時間とともに濃くなっている。
突如——衝撃波が走った。
大聖堂から巨大な魂のエネルギーが放出された。窓が震えた。城の壁にひびが入った。街路に立っていた冒険者が何人も吹き飛ばされた。
「何が——」
魂視を展開した。大聖堂の地下から——凄まじい量の魂のエネルギーが噴き上がっている。搾取装置の出力がさらに上がったのだ。
その瞬間——カロンの声が、脳裏に響いた。
「レイドよ……!」
切迫した声だった。前回の通信よりも近い。冥渦が開いたことで、冥府との距離が縮まっている。
「急いでくれ……! 冥府の側でも限界が近い。このままでは——冥府と地上の境界が完全に崩壊する。もう数日しか持たない……!」
声が途切れた。
俺は窓辺で拳を握った。
「明朝、突入する」
振り返った。四人が立っている。
「作戦を立てよう」
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