第61話「冥渦、発動」
メルティが歌っていた。
テルミナを出て三日目。街道は穏やかだった。午後の日差しが木漏れ日を落とし、鳥の声が聞こえる。街道脇の草原に野の花が咲いていて、甘い花粉の匂いが風に乗ってくる。草原の向こうに丘陵が連なり、その先に王都ヴァルハイムの影が見え始めている。あと二日で着く。
「♪ りんごころころ、ししょうの袖を掴んで~♪」
「何の歌だそれ」
「メルティの自作曲です! タイトルは『ししょうの袖は離さない』!」
「歌詞がまんまタイトルじゃないか」
シャルロットが呆れた顔をしていたが、口元が緩んでいた。リリスが木陰で日除けの外套を整えている。セラフィナが前方の街道を黙々と歩いている。
穏やかだった。世界が壊れかけているのに、この五人の間にある空気だけは——温かかった。
——その時。
空が暗転した。
太陽が消えたわけではない。雲が出たわけでもない。空の色が——変わったのだ。東から西へ、紫黒の波が空を塗り潰していく。水面に墨汁を落としたように、青空が一瞬で消えた。
地面が揺れた。
街道の石畳に——亀裂が走った。紫色の亀裂だ。亀裂から瘴気が噴き出す。腐った肉のような、だがそれよりも根源的な——死の匂いだ。魂が腐る匂い。生者の鼻にも届くほどの、濃い瘴気。
メルティの歌が止まった。
「……ししょう?」
魂視を展開した。
——悲鳴を上げた。目ではなく、魂が。
視界に映る魂の流れが——全て同じ方向に歪んでいる。地上の魂、冥府の魂、空気中を漂う魂の欠片、全てが一つの方向に引きずり込まれていく。巨大な渦に吸い込まれる水のように。
「……冥渦が、始まった」
声が掠れた。
「この規模は——教会の搾取装置が暴走したのじゃな」
リリスの声が低かった。紅い瞳が東の空を見ている。紫黒の渦が空に回り始めていた。遠い——だが巨大な渦。王都の方角だ。
◇
ミレーヌの緊急通信が入った。テルミナのギルドから。声が震えている。
「レイドさん! 各地から同時多発で緊急報告が——!」
「落ち着け。読み上げてくれ」
「東のヴァレンティスから追加報告。海竜の怨霊に加えて、海底から無数のアンデッドが上陸。港町が完全に陥落しました」
昨日の時点で壊滅的被害だった港町が——陥落。
「北のガルディア。アンデッド軍団が一千体から五千体に膨張。Aランクパーティ二組が撤退。街の住民が山岳路に避難中」
「南のライゼン。瘴気の範囲が半径十キロから五十キロに拡大。穀倉地帯の三分の一が枯死」
「王都近郊。冥府の門が三箇所から——八箇所に増加。Sランクモンスター級のアンデッドが続々と出現。王都防衛隊が城壁内に後退」
「ギルド総本部がAランク以上の全パーティに緊急召集を発令しました。——レイドさん、世界中で同時に……」
「わかった。ミレーヌ、テルミナを頼む。情報は随時送ってくれ」
「はい……気をつけて……!」
通信が切れた。
五人の顔を見渡した。全員が——覚悟の目をしていた。
「冥渦の加速は自然現象じゃない。ヴァルキスが意図的に装置の出力を上げた。搾取装置を暴走させて——世界の境界を壊しにかかっている」
「数千年分の魂のエネルギーが一気に放出されたんですね」
セラフィナが静かに分析した。
「冥府と地上の境界が薄くなって、死者の魂が地上に溢れ出している。このまま進めば——」
「世界が、生きることも死ぬこともできない場所になっちゃう」
メルティの声が震えていた。だが袖を掴む手は離さなかった。
「つまり全部——あの大司教のせいってこと」
シャルロットが剣の柄を握った。呪力の黒い光が刃に走った。
「王都に急ぐ。搾取装置を止めないと——世界が壊れる」
◇
走った。
街道を全速力で。だが——道が塞がれた。
蘇りモンスターが街道に溢れていた。地面の亀裂から、次々と湧き出してくる。スケルトン。ゾンビ。ワイト。レブナント。古代の戦士の怨霊。動物の亡骸が蘇ったもの。種類も時代もバラバラだ。冥府から噴き出した魂が、手当たり次第に死体に取り憑いている。
数が——多すぎる。視界の端まで蘇りモンスターで埋まっている。百体。二百体。数えるのをやめた。
広域魂鎮を展開した。蒼白い光が俺を中心に広がり、半径三十メートル以内のアンデッドが一斉に沈む。だが——沈めた端から新しい個体が湧いてくる。蛇口を閉めずに水を汲んでいるようなものだ。
「レイド、無理しないで。全部一人でやろうとしないで」
シャルロットの声だ。背中から。
「わかってる。——みんなの力を借りる」
魂の強化を展開した。五人全員——いや、四人に。自分にはかけない。
リリスの血の魔法が前方を薙ぎ払った。紅い茨の壁が街道を横断し、押し寄せるアンデッドの第一波を一掃する。
セラフィナが空に跳んだ。聖闘融合の翼が展開する。光と闇のグラデーションの翼から——白黒の光弾が雨のように降り注いだ。聖属性でアンデッドを浄化し、闇属性で魂の残滓を分解する。一撃で数十体が消滅した。
シャルロットが地を駆けた。呪力の黒い光が剣身に纏わりつき、一振りで五体を両断する。呪いの防壁が体を覆い、アンデッドの爪を弾く。攻防一体の呪力制御。
メルティが両手を掲げた。全属性魔法——炎と氷と雷が同時に展開し、三方向から群れを挟撃する。300年前の大陸最強の魔術師の力が、半透明の体から炸裂する。
「道を切り開け! 止まるな! 王都まで走り抜ける!」
五人が、アンデッドの海を切り裂きながら前進する。倒しても倒しても湧いてくる。だが足は止まらない。止まったら——世界が終わる。
◇
街道を抜けた。
丘の上に出た。王都を一望できる丘。
そこで——五人全員が、足を止めた。
王都ヴァルハイムの上空に——巨大な紫黒の渦が開いていた。
直径は王都全体を覆うほどだ。渦の中心が脈動している。心臓のように。渦の縁から瘴気が滝のように流れ落ち、王都の建物を覆い尽くしている。昼なのに——夜のように暗い。渦が太陽の光を遮っている。
渦の中心は——大聖堂の真上だった。白い尖塔が紫黒の光に照らされ、不気味に輝いている。尖塔の先端から、光の柱が渦の中心に伸びている。搾取装置のエネルギーが、空へ向かって放出されているのだ。
城壁の外に——人が溢れていた。住民たちが逃げ出してきたのだ。子供の泣き声が風に乗って聞こえる。荷物を抱えた家族が、街道にひしめいている。老人が座り込んでいる。母親が泣く子供を抱きしめている。兵士が秩序を保とうとしているが、混乱が勝っている。
城壁の中からは——戦闘音が聞こえた。金属がぶつかる音。魔法の炸裂音。そして——人間ではないものの咆哮。城壁の上を走る兵士の影が見えた。城壁の内側で、何かと戦っている。
王都に残って戦っている者たちがいる。逃げずに。
冥府の門が——王都の中央に開いている。世界の終わりが、目の前に広がっている。
「……間に合うか」
呟いた。声に自信がなかった。この規模の冥渦を——止められるのか。
隣に——リリスが立った。腕を組み、紅い瞳で渦を見上げている。
「間に合わせるのじゃ」
声は静かだった。だが揺るぎがなかった。
「わらわたちなら——できる」
シャルロットが剣を握り直した。セラフィナが翼を広げた。メルティが俺の袖を強く掴んだ。
五人で、丘を駆け下りた。
王都に向かって。渦に向かって。世界の終わりに、立ち向かうために。
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