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第60話「旅立ちの朝——王都へ」

 テルミナの朝は快晴だった。

 ただし——空の東半分が、紫色に染まっていた。

 昨夜まで染みだったものが、今朝には帯になっている。紫色の雲のような、だが雲ではないもの。脈動している。ゆっくりと、心臓のように。冥渦が空にまで浸食し始めた証拠だ。

 テルミナの住民たちは、朝からその空を見上げていた。不安な顔。子供が母親の手を握っている。老人が杖をつきながら空を指さしている。「あれは何だ」「冥渦の影響じゃないか」「教会がやったって本当か」。

 その不安の中で——南門に、人が集まり始めていた。

    ◇

 出発の準備を終えて南門に向かうと、門の前が埋まっていた。

 テルミナの住民が——ほぼ全員。三ヶ月前の名誉市民授与式の時と同じ人数。だが空気が違う。あの時は祝賀だった。今は——紫色の空の下で、恐怖と覚悟が入り混じった空気だ。

 花屋の女主人が花束を差し出した。前回とは違う花だ。白い花。テルミナに自生する野の花で、花言葉は「必ず帰る」。

「帰ってきてね。約束よ」

 声が震えていた。目が赤い。昨夜泣いたのだろう。紫色の空を見て、世界がどうなるのかわからなくて。

「帰ってくる。約束する」

 花束を受け取った。白い花の、青い朝の空気に混じった甘い匂い。この匂いを——覚えておく。

 酒場の主人が携帯食料の包みを押しつけてきた。ずっしり重い。

「道中の飯だ。俺の自信作——干し肉のスパイス漬け。五日間持つ」

「これ、五人分にしては多くないか」

「いいんだよ。足りなくなるよりマシだろ」

 声が太かった。だが目が——潤んでいた。

 子供たちが駆け寄ってきた。一枚の紙を差し出した。手紙だ。色鉛筆で書かれた、たどたどしい字。

「しにがみじゅつしのおにいちゃんへ。せかいをたすけてください。ぼくたちはここでまっています」

「……死霊術師な」

 苦笑した。だが手紙を大事に折りたたんで、胸のポケットに入れた。心臓の上に。

 フィーナがカウンターから飛び出してきていた。泣いている。

「レイドさん……絶対に……帰ってきてくださいね……! ギルドの書類、全部やっときますから……!」

「頼りにしてるよ」

 フィーナの涙が止まらなかった。ミレーヌが隣でフィーナの肩を支えている。昨日から同僚になった二人は、もう戦友のような顔をしていた。

    ◇

 ミレーヌが俺の前に来た。

「レイドさん。テルミナは私が守ります。情報は毎日送ります。各地のギルドとの連携も——任せてください」

「頼んだ」

「はい」

 頷いた。それから、少しだけ躊躇して——言った。

「元気でやれよ」

 ミレーヌの目が潤んだ。涙はこぼさなかった。代わりに——笑った。七年間、パーティにいた時には一度も見せなかった、力のある笑顔だった。

「……はい。レイドさんも」

    ◇

 オルガが門の前に立っていた。

 正装の白い杖。背筋が伸びている。小さな老婆が、テルミナの門を背にして立つと——砦のように見えた。

「レイド」

「はい」

「三ヶ月前、あんたはこの門を一人でくぐった。誰にも見えなかった。死霊術師という名前しか持ってなかった」

 オルガの声が広場に通った。住民たちが耳を傾けている。

「今日——あんたはこの門を五人でくぐる。Sランクの英雄として。テルミナの名誉市民として。そして——この町の家族として」

 オルガが手を差し出した。

「行っておいで。世界を救ってきな」

「大げさだな。ただ——やるべきことをやるだけだ」

「それが世界を救うことなんだよ、お前さんの場合は」

 手を握った。小さくて、骨ばっていて、だが温かい手。50年間、テルミナのギルドを守り続けてきた手だ。

 オルガの目が潤んでいた。前回の出発の時よりも——深く。

「……帰っておいで」

「必ず」

    ◇

 門をくぐった。

 五人が街道に出た。背後から歓声が聞こえた。

「レイドさーん! 頑張ってー!」

「帰ってこいよー!」

「月下の棺、最強ー!」

 メルティが振り返って大きく手を振った。

「行ってきまーす!! みんな待っててねー!!」

 リリスが片手を優雅に上げた。「留守を頼むぞ。わらわの酒を飲むでないぞ」

 シャルロットが小さく手を振った。前回は振り返らなかったが——今回は振った。

 セラフィナが深くお辞儀した。光と闇のグラデーションの翼が、朝日に輝いた。住民たちから感嘆の声が上がった。

 俺は最後に振り返った。

 テルミナの門。その向こうに、石畳の通りと、花壇と、パン屋の煙突と、ギルドの看板と、宿屋の屋根が見える。三ヶ月前に追放されて辿り着いた辺境の町が——今は故郷になっている。

 前を向いた。

 街道が王都に向かって伸びている。空の東半分が紫色に染まっている。世界が壊れかけている。

 だが足は前に出る。隣に仲間がいる。背中に故郷がある。

    ◇

 街道を歩きながら、五人で話した。

「王都までは街道で五日」

「五日か。その間にも冥渦は進行する」

「急いだ方がいいかも。メルティの空間魔法で短縮できませんか?」

「長距離の空間跳躍は、今のメルティの実体では——」

「やってみます。ししょうの魂の強化があれば、三日に短縮できるかも」

「無理はするな。到着した時に全員が万全でなければ意味がない」

 シャルロットが空を見上げた。紫色の帯が、少しずつ西にも広がっている。

「……王都には、アイアンメイデン家がある。母上が——まだ軟禁されているかもしれない」

「家のことも忘れていない。全部、やる」

「全部って——欲張りね」

「欲張りだよ。全員を守って、教会を止めて、冥渦を止めて、お前の家を取り戻す。——全部だ」

 シャルロットが少し笑った。「……ばか。でも、嫌いじゃない」

 リリスが空を見上げた。

「800年ぶりの王都か。街並みはどれくらい変わったかの」

「800年前と全然違うと思うぞ」

「そうかの。石の壁は変わらんのじゃろ?」

「石は変わらないな」

「なら大丈夫じゃ。石が同じなら、土地の匂いも同じじゃろう。800年前のわらわが歩いた道を、今度はぬしと歩く。——悪くない」

 セラフィナが静かに歩いていた。翼を畳み、外套で隠している。王都に入る時は目立たない方がいい。

「教会の本部——大聖堂の構造は把握しています。天界にいた頃の記録と、ラーゼル村の商人の図面を照合しました。地下への入口は三箇所。正面、東翼、そして——」

「下水道」

「はい。下水道からのアクセスが最も隠密性が高いです」

 五人の足が、一定のリズムで石畳を踏んでいる。テルミナを出て、街道を南へ。

 空の紫が、少しずつ近づいてくる。

    ◇

 同じ頃。王都。教会本部・大聖堂。

 地下三階。

 光のない空間に、巨大な装置が脈動していた。水晶が円形に配置され、その一つ一つに閉じ込められた魂が蒼白い光を放っている。何千もの光が苦しみながら揺れている。装置の中心に魔法陣が刻まれ、そこから管が大聖堂の各所に伸びている。聖水を精製する管。聖具にエネルギーを送る管。聖騎士の強化術式に力を供給する管。

 教会の千年の力の源。死者の搾取装置。

 その前に——一人の老人が立っていた。

 白い法衣。金糸の刺繍が施された豪奢な祭服。胸元に三日月と蛇が絡み合う紋章。背は低いが、姿勢はまっすぐだ。白髪を短く刈り込み、顔には深い皺が刻まれている。目は——閉じていた。

 大司教ヴァルキス。教会の最高権力者。

「大司教様」

 部下が暗闇の中から声をかけた。

「バルドル聖騎士長、テルミナの審問にて敗北。逮捕されました。聖騎士団の半数が離反。教会への信頼は——各地で急速に低下しています」

 沈黙。

 ヴァルキスの目が——開いた。

 灰色の瞳だった。だが灰色の奥に、暗い光が宿っている。狂信の光だ。自分が正しいと信じ切った者だけが持つ、揺るぎのない暗い炎。

「……やむを得ん。予定を繰り上げる」

 声は穏やかだった。だがその穏やかさが——何よりも恐ろしかった。

「最終手段を使おう。冥渦を——完全に開放する」

 部下の顔色が蒼白になった。

「大司教様……! それでは魔王が——」

「構わない」

 ヴァルキスが装置に手を触れた。水晶が脈動を速めた。閉じ込められた魂の悲鳴が大きくなる。

「魔王が復活すれば、世界は教会を必要とする。そして——魔王を倒した者が、次の世界の王になる」

 口元が——笑みの形を作った。穏やかな、聖職者の笑みだ。だがその中身は空洞だった。千年の権威と狂信で中身が腐り果てた、空洞の笑み。

「全ては——神の御心のままに」

 装置の出力が上がった。

 水晶の光が赤く変わった。魂の悲鳴が——叫びに変わった。

 世界の空が——ほんの少しだけ、暗くなった。


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教会の信頼が下がっているのに、世界が教会を必要とする?そんな事は、ありえない。あそこまで完膚なきまでに叩きのめされて、まだ教会が必要とされている、と考える方がおかしい。 あの審問で、教会側は大多数の…
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