第59話「冥渦の加速」
出発前日の夜。眠りに落ちかけた瞬間——魂が揺れた。
目を開けた。天井が見える。宿屋の自室。だが空気が違う。冥府の方角から、強い魂の波動が送られてきている。前回よりも切迫した周波数だ。
カロンの通信だ。
目を閉じ、意識を集中させた。波動に周波数を合わせる。ノイズが走る。前回の通信より接続が不安定だ。冥府自体が揺れているのか。
「——レイド。聞こえるか」
カロンの声が脳裏に響いた。いつもの穏やかさが消えていた。焦りが滲んでいる。数千年を冥府で過ごした管理者が、焦りを隠せていない。
「聞こえてる。何があった」
「冥渦の進行が——急激に加速した」
背筋が凍った。
「予想より遥かに早い。半年の猶予と言ったが——あと二ヶ月がいいところだ」
「二ヶ月? 四ヶ月を切ったばかりのはずだ。なぜ——」
「教会だ」
カロンの声が低くなった。怒りが混じっている。数千年を生きた存在が、滅多に見せない感情。
「教会の本部が魂搾取装置の出力を上げている。意図的に。冥府に流れ込む搾取の力が、この一週間で三倍になった。まるで——わざと冥渦を加速させているかのように」
「わざと……? なぜそんなことを」
「わからん。だが一つだけ言えることがある」
カロンの声が重くなった。
「このまま冥渦が進めば——冥府の門が世界中で開く。死者の軍勢が地上に溢れ出す。魂の秩序が完全に崩壊する。そしてその先に待つのは——」
沈黙が一秒。
「魔王の復活だ」
◇
通信が途切れた。カロンの魂力も限界だったのだろう。
ベッドに座ったまま、しばらく動けなかった。
魔王の復活。世界を滅ぼしかけた存在が、冥渦の果てに蘇る。——教会が千年間「脅威」として語り続けてきた存在。その教会自身が、魔王の復活を引き起こそうとしている。
部屋の窓ガラスに、夜空が映っていた。星が瞬いている。だがその一角——東の空に、薄い紫色の染みが見えた。オーロラのような、だがもっと不吉な色。冥渦の影響が空にまで現れ始めている。
宿屋を出た。ギルドに走った。
◇
ギルドに着くと、フィーナが真っ青な顔でカウンターに立っていた。
通信魔法の受信機が鳴り続けている。赤い光が点滅している。緊急通信だ。一つではない。四つ、五つ——同時に。
「レイドさん……各地から緊急報告が……」
フィーナの声が震えている。俺がカウンターに入った時には、ミレーヌが既に来ていた。昨日から勤務を始めたばかりなのに、緊急事態を察知して駆けつけたのだろう。通信魔法の受信を手際よく処理している。さすが元Sランクパーティの連絡係だ。
「各地の報告を整理します」
ミレーヌが書き取った内容を読み上げた。声は落ち着いている。緊急時に冷静になれるのは、七年間の経験が活きている。
「東の港町ヴァレンティス。海底ダンジョンから海竜の怨霊が出現。港が壊滅的被害。住民の避難が開始。——漁船三十隻が沈没。死者は未確認」
一つ目の報告だけで、胃が重くなった。
「北の山岳都市ガルディア。古代の戦場跡からアンデッドの軍団が蘇り、街を包囲中。Aランクパーティ二組が対応しているが劣勢。推定数——一千体以上」
「一千……」
シャルロットが息を呑んだ。いつの間にか四人も起きてきていた。フィーナの緊急通信の音が宿屋にまで聞こえたのだろう。
「南の穀倉地帯ライゼン。地下から瘴気が噴き出し、半径十キロの作物が枯死。拡大中。農民の避難勧告が出ている。——このまま拡大すれば、王国の食料の二割が失われます」
「王都近郊。Aランクダンジョン『黒鉄の穴蔵』が暴走。内部からSランクモンスターが出現。王都の防衛隊が出動。現在交戦中」
ミレーヌが書簡を置いた。手が僅かに震えていたが、声は最後まで安定していた。
四方から同時に。全国規模の異変。
「全部、冥渦の前兆か」
拳を握った。これが——ヴァルキスの「最終手段」の正体なのか。搾取装置の出力を上げ、冥渦を故意に加速させ、世界中に災厄を撒き散らす。
だが——なぜ? 教会は千年間、世界を「守る」側だったはずだ。なぜ自らが世界を壊そうとする。
答えは——一つしかない。
◇
全員を起こした。宿屋の食堂に五人が集まった。深夜だ。窓の外は暗い。だが東の空の紫色の染みが、食堂の窓からも見えていた。
「状況を説明する」
カロンの通信の内容。各地の緊急報告。タイムリミットの短縮。——全てを伝えた。
食堂に重い沈黙が落ちた。
「魔王の復活……」
セラフィナが呟いた。紫の瞳が暗くなっている。
「天界の伝承にもありました。冥渦が極限に達した時、生と死の境界から最悪の存在が現れると。魔王は死者の王——冥渦そのものが生み出す災厄です」
「800年前にもその兆候があった」
リリスが腕を組んだ。紅い瞳が遠くを見ている。
「あの時は教会が無理やり封じた。じゃが——その『封じ方』が魂搾取の始まりじゃった。魔王を封じるために死者の魂を利用し、それが常態化して今に至る。根本的な解決ではなく、問題の先送りだったのじゃ」
「300年前にも瘴気の噴出がありました」
メルティが言った。声が硬い。いつもの天真爛漫さが消えている。
「あの時は小規模で済みました。でも今回は——桁が違います。ししょう、世界中で同時にこれが起きてるなら……」
「教会がわざと冥渦を加速させてる」
シャルロットが切り込んだ。金色の瞳が鋭い。
「なら、狙いは何? わざと世界を壊して、何がしたいの?」
全員の視線が俺に集まった。
「考えられるのは二つ。一つ——冥渦を加速させて世界を危機に陥れ、教会の存在価値を取り戻す。『教会がなければ世界は滅びる』と思わせて、審問で失った権威を回復する」
「それだけなら、まだマシじゃな」
リリスが呟いた。「二つ目は?」
「二つ目——」
言葉を選んだ。口に出すと、現実になる気がした。
「魔王を利用するつもりだ。魔王を意図的に復活させ、それを教会の力で倒す。千年前に教会が権威を築いた原点は『魔王を封じた実績』だ。それを——もう一度再現しようとしている」
「世界を危機に陥れてから、自分たちで救ってみせる、と?」
セラフィナの声が低かった。
「はい。世界の救世主として復権する。審問で失った信頼を、一気に取り戻す。——そのために世界中が犠牲になっても構わない、と」
「狂ってる」
シャルロットが吐き捨てた。
「世界中の人間を犠牲にしてまで権威を守りたいのか。あの連中は——」
「狂っているのではないのじゃ」
リリスが静かに言った。
「信じ切っておるのじゃよ。自分たちが正しいと。教会の存在こそが世界に必要だと。——その確信が、あの連中を動かしておる。悪意ではない。歪んだ信念じゃ。だからこそ——止められぬのじゃ。外からは」
食堂が沈黙した。
窓の外で、東の空の紫が僅かに濃くなった。
◇
「王都に行く」
俺が立ち上がった。
「教会の魂搾取装置を破壊し、冥渦を止める。これが最優先だ。各地の異変は——装置を止めれば収まるはずだ。根を断てば枝は枯れる」
「行くに決まっておろう」
リリスが立ち上がった。
「行きましょう」
セラフィナが翼を僅かに広げた。光と闇のグラデーションが食堂の灯りに揺れた。
「教会の連中、今度こそ——逃がさない」
シャルロットが拳を握った。呪力が黒い光となって指先に灯っている。
「ししょうと一緒なら、どこにでも行きます」
メルティが俺の袖を掴んだ。目に涙はなかった。代わりに——覚悟があった。
「……ありがとう。明日、出発する」
食堂を出た。廊下の窓から空を見た。
東の空——紫色の染みが、確実に広がっている。目を凝らすと、染みの中心が脈動しているのがわかる。冥渦だ。生と死の境界が、ゆっくりと——だが確実に、裂け始めている。
急がなければ。世界が——壊れ始めている。
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