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第57話「セラフィナの翼」

 王都への出発は三日後と決まった。その間に、できる限りの準備を整える。

 最優先はセラフィナの封印解除だ。

 宿屋の部屋。窓を開け放ってある。朝の空気が流れ込んでいる。テルミナの朝は草と土の匂いがする。王都の石と煤の匂いとは違う。

 セラフィナが椅子に座った。黒と白の翼が背中に畳まれている。灰色の筋が混じった、三色の翼。第1封印と第2封印を解除した現在の姿だ。

「第3段階——属性の封印。聖属性そのものを閉じ込めている層だ。これが解ければ、聖属性と闇属性の完全融合が起きる」

「完全融合……」

 セラフィナの声が僅かに揺れた。天界を追放されて闇に堕ちた翼。聖属性の力はまだ封じられている。闇堕ちの黒と、封印越しに漏れ出す白が、今は不完全に共存しているだけだ。

「怖いか」

「……少し」

 正直だった。セラフィナは嘘をつかない。

「聖属性が戻れば、天使としての力が蘇ります。でも同時に——闇の力も完全に定着する。もう天使には戻れなくなるかもしれません」

「天使に戻りたいのか」

 長い沈黙があった。

「……いいえ。もう決めました。あの屋上で。ここにいたいと」

 紫の瞳が俺を見た。迷いがない。

「始めてください」

    ◇

 魂魄支配を展開した。「魂の解放」をセラフィナの魂に向ける。

 第3層の封印に触れた。

 金色の光の環——天界の鎖。第1・第2層と同じ構造だが、密度が桁違いだ。属性そのものを封じる鎖は、力の根源を直接握り潰している。

 だがこの鎖には——矛盾があった。

 光で闇を縛ろうとしている。聖属性の鎖で闇属性を封じている。だがセラフィナの闇は「堕ちた」のではなく「混ざった」のだ。天界の裁定で人間を守った行為が「規律違反」とされ、罰として翼が黒く染められた。闇堕ちではなく——闇を「与えられた」。

 つまりセラフィナの闇は、天界自身が作ったものだ。天界が作った闇を、天界の光で封じている。矛盾だ。

「セラフィナ。お前の中には光と闇の両方がある。でも、それは争っていない。お前が争わせているだけだ」

「争わせている……?」

「光が正しくて闇が間違いだと——天界がそう教えたから、お前はそう信じている。でも実際は、お前の中で両方が自然に存在している。争っているのは属性じゃない。お前の中の『天界のルール』が、自分自身を否定しているんだ」

 セラフィナの呼吸が変わった。

「両方を認めろ。天使だった自分も、堕天使になった自分も——どちらも、お前だ」

 セラフィナの瞳が閉じた。

 長い沈黙。

 その間に、俺は鎖の結び目に手をかけていた。前回と同じ——光と闇を調和させ、鎖自身に「開く」よう促す。だが今回は、セラフィナ自身の意志が必要だ。外からほどくのではなく、内側から受け入れなければ。

 セラフィナの魂が——震えた。

 光と闇が、魂の中でぶつかっている。反発し合っている。それが——止まった。

 セラフィナが、自分の闇を受け入れた。

 天使としての誇りを捨てるのではなく。闇に堕ちた恥を否定するのでもなく。両方を——ただ、認めた。「これが私だ」と。

 鎖が砕けた。

 音がなかった。光の環がほどけ、金色の粒子になって散った。粒子がセラフィナの体に吸収されていく。封じられていた聖属性が、闇属性と出会い——融合した。

    ◇

 セラフィナの翼が光った。

 黒と白と灰色が入り混じっていた翼が——変わっていく。色が動いている。黒が白に溶け、白が黒に混ざり、灰色が消え、新しい色が生まれていく。

 一枚一枚の羽根が変化した。根元は深い黒。先端に向かって白に変わっていく。だが境界線がない。黒から白へ、滑らかなグラデーションが一枚の羽根の中に流れている。

 翼全体が——光と闇のグラデーションになった。

 見たことのない色だった。天界の白でも、冥府の黒でもない。両方が争わずに混ざり合った、セラフィナだけの色。朝日が翼を透かすと、虹のような光彩が空中に散った。

 部屋全体が光に包まれた。柔らかい光。温かいが眩しくない。聖属性の清浄さと、闇属性の深さが同居した——矛盾のない光。

「……これが」

 セラフィナが自分の翼を見た。手を伸ばして、羽根の一枚に触れた。

「私の翼……」

 右手に光を灯した。白い光——聖属性。だがその輪郭に黒い影が纏わりついている。影は光を侵食していない。光が影を排除していない。共存している。

「聖闘融合……」

 セラフィナの紫の瞳が見開かれた。手の中で光と闇が渦巻いている。

「聖属性の浄化力と闇属性の浸透力が——同時に使える。どちらの弱点も持たない。どちらの長所も——」

 目を閉じた。体が震えている。感動で。

 ドアの隙間から三人が覗いていた。全員が目を丸くしている。

「美しい翼じゃの」

 リリスが部屋に入ってきた。セラフィナの翼を見上げている。紅い瞳に、純粋な感嘆が浮かんでいた。

「天界にも冥府にもない、ぬしだけの色じゃ」

「きれー! セラフィナさん、すっごくきれい!」

 メルティが飛び込んできた。翼の周りをぐるぐる回って、あらゆる角度から見ている。

「……正直」

 シャルロットが入口にもたれて、翼を見つめていた。

「見惚れた」

 その一言に、セラフィナの頬が赤くなった。

    ◇

「レイド」

 セラフィナが俺に向き直った。翼がゆっくりと畳まれていく。光と闇のグラデーションが、背中に収まる。

「あなたは私に翼を返してくれました。でも——それだけではありません」

 紫の瞳がまっすぐ俺を見ている。

「天使でも堕天使でもない——『両方を持つ者』として生きる道を、あなたが示してくれました。天界は光だけが正しいと教えました。でもあなたは——闇の中にも正しさがあると、身をもって証明してくれた」

 声が震えかけた。だが最後まで言った。

「ありがとうございます」

 そして——セラフィナが一歩踏み出した。

 手が俺の肩に触れた。顔が近づいた。

 唇が——頬に触れた。

 軽く。だが確かに。

 数秒。それだけだった。セラフィナが離れた。

 直後——セラフィナの顔が耳まで赤くなった。

「す——すみません。体が勝手に——いえ、これは——感謝の表現で——天界では——」

 弁明が支離滅裂になっていく。セラフィナが走り去った。部屋から飛び出して、廊下の角に消えた。黒と白のグラデーションの翼が、最後にちらりと見えた。

 俺は頬に手を当てたまま、立ち尽くしていた。

「おや。セラフィナも大胆じゃの」

 リリスがにやにやしていた。紅い瞳が愉快そうに光っている。

「ちょっ……!」

 シャルロットが爆発した。顔が真っ赤だ。

「なんで……! なんでそういうこと先に——いや別に私は別に! 別になんとも思ってないし!」

「思ってるの丸わかりじゃの」

「うるさい!!」

「メルティもほっぺにちゅーする!」

 メルティが俺に向かって飛んできた。

「やめろ」

「えー! セラフィナさんはよくてメルティはダメなんですかー!」

「セラフィナも許可した覚えはない」

「ししょうのけちー!」

 騒がしい。実に騒がしい。頬がまだ温かい。

    ◇

 夜。宿の廊下。

 水を取りに出ると——セラフィナが廊下の窓辺に立っていた。月明かりに照らされた横顔。翼が僅かに広がって、月光を受けている。光の部分が白く光り、闇の部分が深い藍色に沈む。

「あ」

 セラフィナが俺に気づいた。顔が赤くなった。まだ引きずっている。

「さ、先ほどは失礼しました……」

「気にするな」

「気にします……天界では、あのような行為は——えっと——その——」

 言葉が見つからないようだ。天界の裁定者だった冷静さは、どこかに飛んでいっている。

「ありがとう、セラフィナ」

 セラフィナの動きが止まった。

「お前が強くなってくれて、嬉しいんだ。俺一人で全部を背負わなくて済む」

「……え?」

「教会との最終決戦。大聖堂の地下。俺一人では無理だ。お前の聖闘融合の力が必要だ。——頼りにしてる」

 セラフィナの目が揺れた。赤面が消え、代わりに——別の感情が浮かんだ。頼りにされている。必要とされている。天界では一人で全てをこなすことが求められた。必要とされるのではなく、義務を果たすことだけが求められた。

「レイド」

 声が穏やかになった。落ち着いた声。裁定者の声ではなく、仲間の声。

「あなたはもう一人じゃありませんよ」

 廊下に月明かりが差し込んでいた。二人の間に、言葉にならない信頼が流れていた。

「……ああ。知ってる」

 窓の外で、テルミナの夜が静かに更けていく。三日後——王都へ向かう。大聖堂の地下へ。搾取装置を止めに。

 だが今夜は、この静かな廊下の時間を——少しだけ、味わっていたかった。


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