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第53話「今更もう遅い」

「中で話そう。……ここだと目立つ」

 通りでは既に人だかりができかけていた。テルミナの住民は好奇心が強い。汚れたローブの女が英雄レイドの前に立っている——それだけで噂の種になる。

 宿屋の談話室に移動した。

 小さな部屋だ。テーブルが一つ。椅子が向かい合わせに二脚。壁には窓が一つ。午後の日差しが斜めに差し込んでいる。

 俺が座った。エリーゼが向かいに座った。

 四人は壁際に立っていた。リリスが腕を組んでいる。シャルロットが剣の柄に手をかけている。セラフィナが翼を僅かに広げている。メルティが俺の椅子の後ろに立ち、袖を掴んでいる。

 エリーゼがその四人を見た。一人ずつ。それから——俺に視線を戻した。

 沈黙が長かった。

 エリーゼの手がテーブルの上で握られている。白くなるほどの力。唇が動いている。何かを言おうとして、言葉が出てこない。

    ◇

 エリーゼが——椅子から滑り落ちた。

 膝をついた。床の上で。

「レイドさん……お願いです。聞いてください」

 声が震えていた。顔を上げた目は、泣きすぎて腫れている。

「あの日——あなたを追放した日。私は言いました。『あなたがいると、パーティの雰囲気が暗くなるの。わかるでしょう?』と」

 自分の言葉を自分で引用する。その声が——もう一度、自分を刺している。

「最低でした。あなたが何をしてくれていたかも知らないで。知ろうともしないで。七年間——あなたの名前すら呼ばなかった。ありがとうも言わなかった。顔も見なかった。存在を——ないものとして扱った」

 涙が床に落ちた。染みが広がる。

「追放してから、全てがおかしくなりました。治癒力は消え、パーティは崩壊し、教会にも見捨てられました」

 手が震えている。床に爪が食い込みそうなほど、力が入っている。

「やっと——やっとわかったんです。あなたがどれだけ大切な存在だったか。あなたがいなくなって初めて——あなたがいたから、全部うまくいっていたんだって」

 顔を上げた。涙で顔がぐしゃぐしゃだった。

「お願いです……戻ってきてください。パーティは……私の力は……あなたがいないと……」

 懇願だった。膝をつき、涙を流し、全てを投げ出して。かつて聖女と呼ばれた女性が、汚れたローブで床に這いつくばっている。

    ◇

 俺は何も言わなかった。

 エリーゼの泣き声が、小さな部屋に響いていた。嗚咽が壁に跳ね返って戻ってくる。

 黙って聞いていた。

 エリーゼの言葉は——本物だった。魂視を使うまでもない。嘘を言っていないことは、声でわかる。震え方でわかる。涙の温度でわかる。

 だから——次に言うことが、より重くなる。

「エリーゼ」

 泣き声が止まった。顔が上がる。

「謝ってくれたことには、感謝する」

 エリーゼの目に、一瞬だけ希望が灯った。

「でも——」

 希望が消える前に、言った。

「今更もう遅い」

 部屋の空気が凍った。

 エリーゼの目が見開かれた。唇が動いた。声が出なかった。

「俺にはもう、ここに居場所がある。俺を見てくれる仲間がいる。俺を必要としてくれる人たちがいる」

 声は穏やかだった。怒りはない。憎しみもない。ただ事実を述べている。

「お前たちのパーティに戻る理由が、俺にはもうない」

「そんな……レイドさん……」

「恨んでるわけじゃない。もう怒ってもいない。ただ——俺の人生は、もうそこにはないんだ」

    ◇

 四人が動いた。

 誰かが合図したわけではない。自然に。息を合わせたわけでもない。ただ、今この瞬間にそうすべきだと——全員が同時に感じた。

 リリスが俺の右に立った。腕を組んだまま。銀髪が窓からの光に透けている。

「わらわの傍にレイドはおる。それは永遠に変わらぬ」

 声に力がこもっていた。800年分の重みがあった。

 セラフィナが俺の左に立った。黒と白の翼が僅かに広がった。

「彼は私たちの仲間です。あなたに返す理由がありません」

 静かな声だった。だが反論を許さない強さがあった。

 シャルロットが俺の後ろに立った。背中を守るように。

「アンタが捨てた人を、私たちが拾った。——もう遅いのよ」

 声が硬い。だがその硬さは——レイドを守るための硬さだった。

 メルティが俺の前に出た。エリーゼに向かって立った。小さな体で、半透明の体で。だが一歩も退かない。

「ししょうはメルティたちのししょうです。誰にも渡しません」

 声がまっすぐだった。300年間裏切りに怯えていた少女が、今は誰かを守るために立っている。

 四人が——俺を囲むように立っていた。右にリリス。左にセラフィナ。後ろにシャルロット。前にメルティ。

 全員が、俺を守っている。

    ◇

 エリーゼは、四人を見ていた。

 リリスの揺るぎない信頼。紅い瞳に迷いがない。この人は——800年をかけて、信じる相手を見つけた。もう揺らがない。

 セラフィナの静かな決意。紫の瞳が穏やかだが、鋼のように硬い。天界を追われ、闇に堕ちてもなお正しさを捨てなかった人。レイドがその正しさを肯定してくれた。

 シャルロットの強い意志。金色の瞳が真っ直ぐ前を向いている。呪いに蝕まれ、家族に捨てられ、それでもなお剣を握って立っている。レイドが居場所をくれたから。

 メルティの無邪気な愛情。紫の瞳がまっすぐエリーゼを見ている。300年間の孤独を超えて、今ここにいる。レイドが手を握ってくれたから。

 そして——レイドの表情を見た。

 穏やかで、優しくて——幸せそうな顔。

 パーティにいた七年間で、一度も見たことがなかった表情だった。

 ——ああ。

 ——この人は、もう戻ってこない。

 ——この場所が。この人たちが。レイドさんの——本当の居場所なんだ。

「……そう、ですよね」

 声がかすれた。

「今更……ですよね……」

 涙が落ちた。さっきまでの懇願の涙とは違っていた。諦めと、自責と、そしてほんの僅かな——安堵の涙。レイドが幸せであることへの、身勝手な安堵。

 エリーゼが泣いていた。膝をついたまま、顔を覆って。小さくなった聖女の背中が震えていた。

    ◇

「エリーゼ」

 俺が名前を呼んだ。エリーゼが顔を上げた。涙で顔が濡れている。

「お前はお前の道を歩け」

「……え?」

「聖女の力がなくなっても、お前自身の価値がなくなるわけじゃない」

 エリーゼの目が見開かれた。この期に及んで、まだ優しさを向けられると思わなかったのだろう。

「俺を頼るな。自分の足で立て。それができたら——その時は、一人の人間として、また話をしよう」

 完全に切り捨てたのではなかった。道は閉ざしていない。だが——条件をつけた。「自分の足で立ったら」。それは甘やかしではなく、エリーゼに残された最後の希望であり、同時に最も厳しい要求だ。聖女の力でも、教会の後ろ盾でも、パーティの仲間でもなく——自分自身の足で。

 エリーゼの唇が震えた。涙が頬を伝った。だが——目の奥に、何かが灯った。絶望とは違う。折れかけた心の中に、種のように埋め込まれた——小さな、だが確かな芽。

「……ありがとう、ございます」

 声が途切れた。

「……さようなら、レイドさん」

 立ち上がった。涙を袖で拭った。背筋を伸ばした。ぐしゃぐしゃの顔のまま、だが——立っていた。自分の足で。

 部屋を出た。扉が閉まった。足音が廊下に遠ざかっていく。

    ◇

 部屋に五人が残された。

「ししょう……大丈夫ですか?」

 メルティが俺の袖を掴んだまま聞いた。

「ああ。大丈夫だ」

「……優しすぎるのう、ぬしは。あのような女に、まだ道を示してやるとは」

 リリスが腕を解いた。声に呆れと、敬意が混じっていた。

「恨んでも何も始まらない。それに——俺は今、十分幸せだからな」

 シャルロットが小さく笑った。腕を組んだまま、窓の外を見ている。

「……そういうとこよ。そういうとこが……」

 何かを言いかけて、飲み込んだ。耳が赤い。

「レイドさんらしいです」

 セラフィナが穏やかに微笑んだ。翼を畳み、窓辺に寄りかかっている。

 部屋に柔らかい沈黙が降りた。午後の日差しが斜めに差し込んでいる。五人の影が床に伸びている。

 これでいい。これが、俺の答えだ。

    ◇

 テルミナの南門。

 エリーゼが門をくぐった。振り返らなかった。

 街道が南に伸びている。来た道と同じ道。だが——来た時とは、違う足取りだった。八日前は足を引きずっていた。今は——重くても、前を向いている。

 ——自分の足で立て。

 レイドが最後にくれた言葉。

 七年間、何一つ与えなかった男が——最後に、道を示してくれた。もう頼るなと言いながら、道を閉ざさなかった。

 涙が乾いた頬に新しい筋を作った。

 ——今度こそ。自分の力で。

 エリーゼは歩き続けた。テルミナの門が背中の向こうに小さくなっていく。

 振り返らなかった。


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