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第51話「嵐の後」

 テルミナの門をくぐった時、街道の疲れが一瞬で消えた。

 門番が手を振っていた。通りを歩く人々が足を止めて、こちらを見ている。笑顔だ。王都の審問の結果は、ギルドの通信魔法で既にテルミナに届いている。

「おかえり、レイドさん!」

 花屋の女主人が花束を押しつけてきた。

「審問、勝ったんでしょう! 王都で教会をやっつけたって!」

「やっつけたっていうか——」

「かっこよかったんでしょう! 近隣の町のギルドからも噂が来てるのよ!」

 断る隙もなく花束を抱えさせられた。腕いっぱいの花。テルミナの春の花だ。

 子供たちが駆けてきた。

「死霊術師のおにいちゃん! おかえりー!」

「おにいちゃん、教会の偉い人にも勝ったの?」

「おにいちゃんすごーい!」

 足元に子供が群がって動けない。メルティが「メルティもすごかったんですよー!」と両手を振っている。子供たちが「メルティちゃんもすごーい!」と応じた。メルティが嬉しそうに飛び跳ねている。

 酒場の主人が戸口から顔を出した。

「レイドさん! 今夜は全員分おごるぞ! うちの看板メニュー、全種類出す!」

「ありがとう。……でも五人だから結構な量になるぞ」

「構わねえ! テルミナの英雄に飯を食わせるのは、この町の誇りだ!」

 七年間、誰にも見えなかった男が——町中の人に見えている。名前を呼ばれる。手を振られる。おかえりと言われる。

 帰る場所がある。それだけのことが——どれだけ温かいか。

    ◇

 翌朝。宿屋の台所。

 煙が充満していた。

「リリス! また!?」

「今度こそいけると思ったのじゃが!」

 フライパンの上に、黒い物体が鎮座している。卵焼きの予定だったものだ。第二の犠牲者。テルミナに帰ってきた翌朝に、またこれだ。

 メルティが氷魔法で消火した。慣れた手つきだった。

「リリスさん、火の魔法の出力を料理用に絞ってないでしょ」

「絞っておるが……火の精霊が元気すぎるのじゃ」

「それは絞ってないって言うの」

 シャルロットが溜息をついてフライパンを取り上げた。

「……なんで800年も生きてて料理ができないのよ」

「わらわは女王じゃ。料理は下々の仕事じゃったのじゃ」

「メルティも作れませーん。300年間幽霊だったので!」

「……私は天界の食事しか知りません。地上の料理は……学びたいです」

 セラフィナが真剣な顔で包丁を握っていた。にんじんを切ろうとしている。丁寧すぎて、一本切るのに三分かかっている。

「結局俺とシャルロットが交代で作る形になるのか……」

「文句言わないでよ。あんたの分まで作ってるんだから」

 シャルロットが手際よく卵を割りながら言った。並んで台所に立っている。肩が時々触れる距離。

 ——二人で料理。悪くない。

 その考えが顔に出たのだろう。シャルロットが横目でこちらを見て、耳を赤くして、卵をもう一個余計に割った。

「……何ニヤニヤしてるの」

「してない」

「してた」

    ◇

 午後。シャルロットの呪い解除に取り組んだ。

 第6段階。心臓の封印。七重の呪いの中で最も危険な層だ。心臓を直接覆う呪いの鎖。一本の操作を誤れば、心臓が止まる。

 宿屋の部屋。窓を閉め、リリスが結界を張った。セラフィナとメルティが見守っている。

「今回が一番危険だ。覚悟しておけ」

「……うん」

 シャルロットの声は静かだった。もう震えていなかった。六度目の解除だ。レイドの手に命を預ける覚悟は、とっくにできている。

 魂魄支配を展開した。第6層の呪いに触れる。

 ——重い。

 これまでの層とは質が違った。呪いの鎖が魂ではなく、生命の根幹——心臓を直接締めつけている。鎖の一本一本が心拍に同期して脈動している。触れるだけで心臓のリズムが乱れる。

 慎重に。一本ずつ。心拍を監視しながら、鎖の結び目を解いていく。

 一本目。心拍が跳ねた。すぐに魂の修復で安定させる。

 二本目。三本目。シャルロットの額に汗が浮いている。痛みは魂の修復で抑えているが、心臓への負荷は別だ。

 四本目。五本目——最後の鎖。

 これが外れれば、残りは核心層の一つだけ。

 指先に集中した。鎖の結び目に触れる。心拍が一瞬止まった。冷や汗が背中を伝った。——止まっただけだ。再開する。させる。

 魂の修復を全力で流し込んだ。心臓が再び動き始めた。鎖が——解けた。

 黒い紋様が胸元から消えていった。霧のように薄れ、消滅する。

 シャルロットが——深く、長く、息を吸った。

「……息が、楽……」

 目を見開いている。自分の胸に手を当てている。

「こんなに楽に呼吸できたの、いつ以来だろう……」

 二年間。呪いが発症してから、ずっと胸に重石が載っていたのだ。それが消えた。肺いっぱいに空気を吸えることが、こんなにも幸福だったのか。

「残り一つだ。最後の核心層。一番深い。もう少し準備が必要だ」

「うん」

 シャルロットが俺を見た。金色の瞳がまっすぐこちらを向いている。

「ありがとう」

 声が——透き通っていた。照れ隠しも、言い訳も、何も混じっていない。

「ありがとう、レイド。ここまで——治してくれて」

 以前なら「べ、別に」と視線を逸らしていた。それが今——まっすぐ目を見て、素直に礼を言っている。

「……素直になったな」

「う、うるさい。たまには言うわよ、そのくらい」

 少し照れたが——目は逸らさなかった。

 リリスが後ろで微笑んでいた。セラフィナが静かに頷いていた。メルティが「シャルちゃん大人になったねー」と言って、シャルロットに追いかけられた。

    ◇

 夕方。酒場の主人のおごりで五人で食事をした。

 看板メニューの全種類が並んだテーブルを囲んで、騒がしい夜が過ぎていく。メルティがあれもこれもと皿に手を伸ばし、リリスが優雅にワインを傾け、シャルロットが「食べすぎよ」とメルティを叱りつつ自分も三皿目に手を出し、セラフィナが黙々と食べながら時々俺の皿に野菜を足している。

 テルミナに来た最初の夜を思い出した。あの時は三人だった。今は五人。テーブルが狭い。椅子が足りない。メルティが浮いているから椅子は四脚でいいはずだが、本人が「メルティも座りたい!」と主張するので五脚並べている。

 騒がしい。うるさい。温かい。

 ——この日常を、守り続けたい。

 食後、宿に戻ろうとした時——オルガが走ってきた。

 走ってきた。杖をついた老婆が、走っている。それだけで尋常ではないとわかった。

「レイド! 王都から伝書鳩が来た!」

 オルガが一通の書簡を差し出した。封蝋が王国議会の紋章だ。ギルドの通信ではない。王国政府からの直接の書簡。

 開封した。読んだ。

「……王国が動いた」

 二つの通達が記されていた。

 一つ目——「レイド・ノクターンおよびパーティ【月下の棺】に対し、蘇りモンスター問題の対策本部への参加を正式に要請する」

 二つ目——「王国議会にて、死霊術の禁忌解除を検討する臨時会議を開催する。レイド・ノクターンの出席を求める」

 死霊術の禁忌解除。千年間「不浄」とされてきた術が——王国の公式な場で、見直される。

「……すごい」

 シャルロットが書簡を覗き込んだ。

「ぬしの戦いが、世界を変え始めたのじゃ」

 リリスが腕を組んで言った。声に誇りが混じっていた。

「ししょう、すごいです! 王国がししょうを呼んでる!」

「……これは、大きな一歩ですね」

 セラフィナが静かに、だが確かに微笑んだ。

 世界が変わり始めている。死霊術師が「禁忌」ではなく「英雄」として認められる日が——近づいている。

 だが油断はできない。バルドルの警告が頭に残っている。大司教ヴァルキスは、このまま黙ってはいない。

 王国が動いた。教会も動く。次の嵐は——もう、すぐそこまで来ている。


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