第37話「嵐の前の凪」
台所が燃えていた。
「リリス! 火を止めろ!」
「止めておる! ……止まらんのじゃが!?」
フライパンの上で卵焼きが黒い炎を上げている。卵焼きではなく、もはや炭だ。800年の真祖の吸血鬼は、料理に関しては赤子以下だった。
「リリスさん、火の魔法と料理の火は違いますよ……!」
メルティが氷魔法でフライパンごと凍結させた。黒い煙が収まる。台所に焦げた匂いが充満していた。
リリスが黒い物体を箸で持ち上げた。
「ぬし、この黒い物体は何じゃ?」
「それが卵焼きの予定だったものだ」
「……食えるのか?」
「無理だ」
シャルロットが溜息をついて、リリスからフライパンを取り上げた。
「私がやった方が早い」
手際よく卵を割り、油を引き、火加減を調整する。一分もかからずに、綺麗な黄色い卵焼きが出来上がった。シャルロットは名門騎士家の出だが、一人で森にいた半年間で自炊を覚えたらしい。
セラフィナがテーブルを整えていた。五人分の皿を等間隔に並べ、箸の向きを揃え、湯気の立つスープの椀を一つずつ配置していく。天使の几帳面さが、こういう場面で発揮される。
五人で食卓を囲んだ。卵焼き、パン、スープ、果物。豪華ではないが、温かい朝食だ。
リリスが卵焼きを一口食べて「シャルロットの方がわらわより上手いとは……悔しいの」と呟いた。シャルロットが「悔しがるところが違うでしょ」と返す。セラフィナがスープを静かに飲みながら、会話を聞いて口元を緩めている。メルティがパンをちぎりながら言った。
「ししょうの作るスープ、おいしいです。毎朝これがいいです」
「毎朝作るのは俺なのか」
「ししょうとシャルちゃんの料理が一番おいしいんですもん」
シャルロットが少し得意げな顔をして、すぐに隠した。
何気ない朝だった。半年前は一人で冷えた干し肉を齧っていた。今は五人で温かい食卓を囲んでいる。——こんな朝がずっと続けばいいと、柄にもなく思った。
◇
午前中。宿の裏庭で訓練。
シャルロットとセラフィナが木剣で組手をしていた。朝の訓練は二人の日課になっている。
型が全く違う。シャルロットは重心を低く落とし、地面を蹴る力を剣に乗せる。アイアンメイデン家の剣術。人間の体の限界を引き出す技だ。セラフィナは体重を感じさせない流れるような動き。天使の剣技。重力を味方にするのではなく、重力から自由になる技。
木剣が交差した。甲高い音が響く。三合、五合、七合。速度が上がっていく。
「……良い太刀筋だ」
セラフィナが一歩退きながら言った。息が上がっていない。
「アイアンメイデンの剣、見事。踏み込みの重さが、天使の剣にはない強みだ」
「セラフィナさんこそ」
シャルロットが剣を下ろした。額に汗が光っている。
「天使の剣って、力じゃなくて理で斬るんだ。動きの一つ一つに無駄がない。……惚れ惚れする」
二人が向き合って頷いた。互いの実力を認め合う、戦士同士の敬意。
俺は水筒と軽食を持って裏庭に出た。
「差し入れ」
二人が同時に振り向いた。同時に手が伸びた。水筒に、二つの手が同時に触れた。
指が重なった。
一瞬の沈黙。
シャルロットとセラフィナが同時に手を引っ込めた。二人とも頬が薄く染まっている。
「……先にどうぞ」
「い、いえ。セラフィナさんが先に——」
「いや、シャルロットが先に——」
裏庭の塀の向こうから、リリスの笑い声が聞こえた。メルティの声も。「お水、メルティが持ってきましょうか?」
「見てんじゃないわよ!!」
シャルロットが塀に向かって叫んだ。
◇
午後。セラフィナの封印解除に取り組んだ。
第2段階。「感覚の封印」。セラフィナの魂の感覚器——魔力の知覚能力を制限している封印だ。
前回と同じ要領で、天界の光の環を解錠する。結び目を見つけ、光と闇を調和させ、鎖を自ら開かせる。二度目は慣れがある分、手順が速い。
環がほどけた。光の粒子がセラフィナの体から放出される。
だが——今回は、前回と違うものが見えた。
セラフィナの翼に、新しい色が混じり始めた。黒と白だけだった翼に、灰色の筋が走っている。灰色——聖属性と闇属性が融合した色だ。
「不思議な感覚です」
セラフィナが自分の手を見つめた。手のひらに淡い灰色の光が浮かんでいる。
「光と闇が……争わずに、混ざり合っている。天界の魔法は純粋な聖属性でした。闇を排除して成り立つもの。でもこれは——両方を受け入れている」
「お前自身がそうだからだ」
セラフィナが顔を上げた。
「天使でもあり、闇に堕ちた者でもある。どちらも否定する必要はない。両方がお前だ」
セラフィナの紫の瞳が、少し潤んだ。だが涙は流さなかった。代わりに、深く頷いた。
「……ありがとうございます。その言葉で——少し、救われました」
◇
夕方。宿の大浴場。
女性陣が先に入っている。俺は部屋で待機だ。浴場の方から賑やかな声が聞こえてくる。壁が厚いはずなのに聞こえるのだから、相当な音量だ。
「混浴は800年前の常識じゃ! レイドも呼んでくるがよい!」
リリスの声だ。
「常識じゃない!! 絶対にダメ!!」
シャルロットの叫び。
「えー、ししょうに背中流してもらいたいのにー」
メルティの声。直後に、水音と「メルティ、実体化を解除するな! 透明になってどこに行く気だ!」というセラフィナの声が続いた。
「透明でもダメです。魂は見えます」
「セラフィナさん、襟首掴まないでくださいー」
「掴みます」
静かな水音。それから。
「……メルティ、おとなしく湯に浸かりなさい」
「はーい……」
浴場の外の廊下で、俺は壁にもたれていた。賑やかだ。騒がしい。湯気の匂いが廊下まで漂ってきている。
少し笑った。
こういう日常が、ずっと続けばいい。——だが、そう思うこと自体が、何かの前触れのような気がした。幸せの自覚は、いつも失う直前に来る。
◇
夜更け。
全員が寝静まった後、一人で宿を出た。
テルミナの夜道を歩く。人通りはない。月明かりだけが石畳を照らしている。
町の外れの丘に登った。魂視を最大範囲に展開する。テルミナ周辺の魂の地図が意識の中に広がった。
北——異常なし。東——異常なし。西——異常なし。
南——。
足元の石を踏む力が強くなった。
大量の魂の反応が、南から接近していた。数は五十以上。整然とした隊列で北上している。規律正しい動き。軍隊だ。
魂の色は——灰色。教会の色。だが前回の密偵五人とは規模が違う。聖騎士団の正規部隊だ。
その隊列の中に——一つだけ、違う色の魂があった。
金色。聖剣の力で増幅された、眩い光。だが以前よりも暗く、くすんでいる。二ヶ月前に王都の方角から感じた時よりもさらに薄い。聖剣の出力が落ち続けているのだ。——それでも、見間違えるはずがない。七年間、毎晩見続けた魂だ。
「ゼノン……」
息を吐いた。白くなった。
「お前も来たのか」
聖騎士団と共に、元パーティリーダーが来る。教会の手先として。かつての仲間を「排除」するために。二ヶ月前に追放した男を——排除しに来る。
丘の上で風が吹いた。冷たい風だった。明日には——嵐が来る。
振り返った。テルミナの町が、月明かりの中で静かに眠っていた。温かい窓の灯りが、いくつか残っている。この町を。この仲間たちを。
守らなければならない。
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