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第36話「格差」

 安酒が、不味かった。

 王都の裏通りにある安宿の酒場。壁は黄ばみ、テーブルは傷だらけ、椅子の脚はぐらついている。かつて高級酒場『黄金の杯』の最上席に座っていた男が、今は壁際の最安席で安い麦酒を飲んでいる。

 ゼノン・ブレイド。元Sランク。元勇者。

 今の肩書きは——Bランク冒険者。

 追放してから二ヶ月。【曙光の英雄】はBランクに降格した。Sランクからの二階級降格。冒険者ギルドの歴史に記録されるほどの凋落だ。

 教会の支援は完全に打ち切られた。資金難で宿のランクを三度下げた。装備の修繕費も足りない。聖剣の刃こぼれを直す金さえない。

 ダリウスの右腕はまだ完治していない。自分の炎で焼いた火傷は、エリーゼの治癒でも塞がらなかった。炎剣士が炎を振るえない。戦力は半減以下だ。焦りから酒に逃げ始めていて、ゼノンが酒場に来ると、たいていダリウスが先に潰れていた。

 エリーゼの治癒力は全盛期の二割。聖女の称号が形骸化している。依頼先で「聖女なのに治せないの?」と言われるたびに、エリーゼの顔から表情が消えていく。

 ゼノンはギルドの掲示板の前に立った。A級の依頼は受けられない。B級の依頼でさえ、今の戦力では危うい。

「もう限界よ」

 ミレーヌが後ろで言った。声が平坦だった。怒りでも悲しみでもない。諦めに近い声。

「このままじゃパーティが——」

「うるさい!」

 ゼノンが拳を掲示板に叩きつけた。木の板が軋んだ。周囲の冒険者が振り返る。

「俺は勇者だ! こんなところで終わるわけがない!」

「勇者なら——」

 ミレーヌの声が低くなった。初めてゼノンに正面から向き合っている。

「なぜ私たちの力が落ちてるのか、考えたことないの? ゼノンの聖剣も、エリーゼの治癒も、ダリウスの炎も、私の風も——全部、レイドがいなくなってから落ちた。偶然だと思う?」

「俺たちの力は俺たちのものだ! レイドなんか関係ない!」

 ミレーヌが黙った。唇を引き結んでいる。目に浮かんでいるのは——「本当にそう思う?」という問いだった。口には出さなかった。出しても聞く耳を持たない男だと、二ヶ月で学んだのだろう。

 ミレーヌが背を向けて歩き去った。ゼノンは追わなかった。

 安宿に戻り、窓辺で安酒を飲んだ。一人で。

 ——なぜだ。なぜ俺がこんな目に。俺は勇者だぞ。聖剣を持つ者だぞ。教会に選ばれた人間だぞ。

 答えは出ない。いつも同じ場所をぐるぐる回って、同じ結論——「俺は悪くない」——に戻ってくる。

    ◇

 同じ頃。テルミナ。

 レイドは市場にいた。

 依頼報酬が入ったので、仲間への贈り物を買いに来たのだ。ギルドの依頼で稼いだ金を、こういう使い方ができるようになったことが——まだ少し不思議だった。七年間、報酬は全てパーティの共有金庫に吸い込まれ、手元にはほとんど残らなかった。

 リリスには銀細工の髪飾り。月の意匠が入ったもの。銀髪に映えるだろう。

 シャルロットには革の手袋。剣を握る手が荒れていたのが気になっていた。裏地に柔らかい布が張ってある。

 セラフィナには星の地図。テルミナの書店で見つけた、地上から見た星座の図鑑。天界の星とは配置が違うはずだ。

 メルティにはりんご飴。市場の屋台で見つけた。りんごが好きだから。理由はそれだけで十分だった。

 宿に戻り、四人に渡した。

「おお、美しい髪飾りじゃの」

 リリスが髪飾りを手に取り、鏡の前で合わせた。月の銀細工が銀髪に溶け込む。

「ぬしのセンスも悪くないの。——ありがとう、レイド」

 シャルロットが手袋を受け取った。包みを開けて、中身を見て——指が止まった。

「て、手袋……?」

「剣を握る手が荒れてただろ。裏地が柔らかいやつにした」

 シャルロットの耳が赤くなった。手袋を胸元に引き寄せ、視線を泳がせた。

「……ありがとう」

 小声だったが、はっきり聞こえた。

 セラフィナが星の地図を開いた。紫の瞳がページを辿る。

「星の地図……。天界にいた頃の星とは、少し違います。でも——この星座は見覚えがある。冬の大三角」

 ページを撫でた。指先が優しかった。

「大切にします」

「りんご飴!!」

 メルティが叫んだ。りんご飴を受け取った瞬間、目が皿のようになった。

「りんご飴りんご飴! ししょう大好きーー!」

 飛びついてきた。りんご飴を片手に、もう片方の手で俺の袖を掴んでいる。器用だ。

「食ってから騒げ」

「食べながら騒ぎます!」

 リリスが笑った。シャルロットが手袋を嵌めたり外したりしている。セラフィナが星の地図を膝の上に広げて読み込んでいる。メルティがりんご飴を幸せそうにかじっている。

 温かい夜だった。

    ◇

 月が出ていた。

 王都の安宿の窓辺。ゼノンは一人で月を見上げていた。

 銀色の月だ。冷たい光が、狭い部屋を照らしている。ベッドにはダリウスが酔いつぶれて寝ている。隣の部屋からはエリーゼの泣く声が微かに聞こえる。ミレーヌの部屋からは何の音もしない。

 一人だった。四人でいるのに、一人だった。

「なぜだ……」

 麦酒の残りを飲み干した。

「なぜ俺がこんな目に……」

    ◇

 同じ月を、テルミナの丘から五人で見上げていた。

 草の上に座っている。夜風が頬を撫でる。虫の声がする。月が大きい。テルミナの夜空は王都より暗い分、月が際立って明るい。

「ぬしと見る月は格別じゃ」

 リリスが隣で呟いた。銀髪が月光を受けて輝いている。今日もらったばかりの髪飾りが、月の光を小さく反射していた。

「……ええ」

 セラフィナが静かに頷いた。星の地図を膝に載せたまま、空と地図を交互に見ている。

 シャルロットは少し離れた場所に座っていた。新しい手袋を嵌めたまま、膝を抱えている。

「……まあ、悪くないけど」

 声が小さい。だが隣に来ていること自体が、言葉より雄弁だった。

「お月さまー! ししょうの隣で見る月は最高ですー!」

 メルティが両手を上げた。りんご飴の棒をまだ持っている。

 俺は空を見上げた。

「……ああ。綺麗だな」

 同じ月だ。七年前も、追放された夜も、今も——同じ月が空にある。だが見え方が全く違う。

 一人で見る月は冷たい。誰かと見る月は、温かい。

    ◇

 王都。安宿。

 ゼノンが窓辺で空の杯を握っていた時——扉を叩く音がした。

 こんな時間に誰だ。宿の主人か。それとも借金の取り立てか。

 扉を開けた。

 白い法衣の男が立っていた。若い。だが目に暗い光がある。教会の使者だ。

「ゼノン殿。夜分に失礼します」

「……何の用だ」

「教会は、あなたにもう一度チャンスを与えたいと考えています」

 チャンス。その一語に、ゼノンの指が杯を握り締めた。

「テルミナという町に、死霊術師がいます。禁忌の術を使い、人々を惑わしている。この者を排除してくださるなら——」

 使者が一枚の書類を差し出した。教会の公式支援契約書。金額が記されている。Sランク時代に匹敵する支援金。

「教会はあなたを再び支援しましょう。装備も、資金も、名誉も——全て、お返しします」

 テルミナの死霊術師。

 レイド。

 追放した男。後ろでブツブツ言ってただけの男。——だったはずの男が、今やAランク冒険者として名を馳せている。教会がわざわざ排除を依頼するほどの存在になっている。

 喉の奥が乾いた。

「レイドを……排除?」

「はい。あなたは勇者です。教会の聖なる務めを果たすべき方だ。——かつての仲間を正しい道に導くことも、勇者の責務ではありませんか」

 正しい道。その言葉に、ゼノンの目に暗い光が宿った。

 正しいのは俺だ。俺は勇者だ。レイドは死霊術師だ。死霊術師は禁忌だ。教会がそう言っている。なら——排除するのは正しいことだ。

 そう思いたかった。そう思えば、この二ヶ月間の全てに説明がつく。

「…………わかった」

 杯を置いた。空の杯が、テーブルの上で乾いた音を立てた。


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