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第27話「大魔術師の涙」

 一歩、踏み出した。

 渦が反応した。

 空間全体が震えた。魂の渦が膨張し、黒と紫の光が壁面を叩く。そして——渦の表面から怨念体が噴き出した。五体、十体、二十体。泡が弾けるように次々と生まれ、俺たちに向かって殺到してくる。

「防衛反応じゃ! 近づく者を排除しようとしておる!」

 リリスが叫んだ。

 同時に——渦の中心から、魔法が放たれた。

 炎。氷。雷。風。全属性の魔法が無秩序に暴走し、洞窟の中を嵐のように吹き荒れた。天井に炎が走り、床が凍り、壁面を雷が弾ける。

 カロンの声が遠くから響いた。魂を通じた通信だ。

「気をつけろ! メルティ・ファントム——大陸最強の魔術師だった者だ。生前は全属性魔法を操り、空間魔法まで使えた。その力が怨念と融合している」

 メルティ。300年前の大魔術師の名前。

 だが今はそれどころではない。氷の槍が頭上を掠めた。避ける。炎の壁が行く手を塞ぐ。

「作戦を変える!」

 叫んだ。

「リリス、正面で魔法を受け止めてくれ! シャルロットは怨念体を突破して側面から道を切り開け! セラフィナは上空から核の密集地帯を薙ぎ払え! 俺が渦の中心に接触する!」

「了解じゃ!」

 リリスが前に出た。血の結界が展開される。紅い光の壁が三人の前方に広がり、飛来する炎と氷と雷を一身に受け止めた。全属性の同時攻撃を、一枚の結界で防ぐ。800年の真祖の力でなければ、一秒で砕かれていただろう。

「っ……これは、なかなか……!」

 リリスの腕が震えている。だが結界は保っている。歯を食いしばり、一歩も退かない。

「道は、私が切り開く!」

 シャルロットが駆けた。右手の剣が閃く。怨念体の群れに突っ込み、セラフィナが露出させる前に——自力で核を斬った。剣の軌道が変わっていた。ルシアの継承で俺の魂魄支配が深化したことで、魂の強化の精度も上がっている。シャルロットの剣に、微量の魂力が乗っていた。怨念体を斬れる。

 五体を斬り伏せ、左の壁面に沿った迂回路を切り開いた。

 セラフィナが跳んだ。折れた翼が広がる——完全には開かない。だが、魂の強化で一時的に浮力を得て、三メートルほど浮き上がった。上空から見下ろし、怨念体が密集している場所を捉える。

 天使の光剣が振り下ろされた。白い光の弧が扇状に広がり、怨念体の密集地帯を薙ぎ払う。六体が同時に両断され、核が露出した。

 セラフィナが着地した。片膝をつく。翼の負荷で顔が蒼白だ。だが立ち上がった。

「道は——開きました」

 三人が作ってくれた隙間を、俺は走った。

    ◇

 渦の縁に辿り着いた。

 目の前で黒と紫の光が渦巻いている。至近距離で感じる魂力は凄まじい。皮膚が焼けるような——いや、魂が焼けるような圧力。ルシアの継承がなければ、ここに立っているだけで魂が砕けていたかもしれない。

 手を伸ばした。渦に突っ込む。

 触れた瞬間——メルティの300年分の記憶が、一気に流れ込んできた。

    ◇

 ——幼い少女がいた。

 黒い長髪。大きな瞳。小さな手で魔法書のページをめくっている。文字はまだ読めない。だが、本に触れるだけで魔力が反応する。周囲の空気が揺れ、花が咲き、雪が舞う。生まれながらの天才。

 五歳で火を操り、七歳で水を従え、十歳で全属性を覚醒した。大陸の魔術師たちが驚愕した。「始まりの大魔術師の再来だ」と囁かれた。

 だが天才は孤独だった。

 同年代の子供たちは怖がって近づかない。「あの子、変だよ」「触らない方がいいよ」。大人たちは利用価値しか見ない。「この子の魔力を研究に使えれば」「王宮に献上すれば出世できる」。メルティにとって世界は、ずっと一人きりの場所だった。

 誕生日を祝ってくれる人はいなかった。誰かと手を繋いだことがなかった。「おはよう」と言ってくれる相手がいなかった。

 ——十五歳の時、弟子を取った。

 ゼルクという名の少年。才能は凡庸だったが、目が真っ直ぐだった。メルティの魔法を見ても怖がらず、純粋に「すごい」と笑った。

「先生、大好きです。ずっとそばにいます」

 その言葉が、メルティの世界を変えた。

 師弟であり、友であり、家族のようなものだった。メルティは初めて「一人じゃない」と思えた。ゼルクに魔法を教え、一緒に研究し、一緒に食事をして、くだらない話で笑い合った。

 冬の夜、二人で星を数えた。「先生、あの星に名前つけましょうよ」「メルティ星にする」「ダメですよ、もっとかっこいい名前にしましょう」。

 春の朝、二人で花畑を歩いた。ゼルクが花冠を編んでくれた。不器用な手で、歪な形の。「ごめんなさい、先生。下手くそで」「ううん。世界で一番きれい」。本気でそう思った。

 十年間。メルティの人生で最も幸福な十年間。

 ——ある夜。

 背中に、冷たいものが刺さった。

 振り向いた。ゼルクが立っていた。手に短剣を持っている。刃が赤い。メルティの血で。

「ゼル……ク……?」

「すみません、先生。あなたの魔力、全部いただきます」

 ゼルクの目には、十年間見てきた温かさがなかった。最初からなかったのか。それとも、どこかで変わったのか。メルティにはわからなかった。わかる前に、意識が遠のいた。

 最期の記憶。冷たい床の上で、天井を見ている。手を伸ばした。ゼルクがくれた花冠が、棚の上に飾ってあるのが見えた。枯れた花。十年前の花冠。ずっと捨てられなかった。

 ——なんで?

 ——メルティ、何か悪いことした?

 ——ゼルク、嫌いになった?

 ——メルティのこと、最初から嫌いだった?

 ——あの星の名前も、花冠も、全部嘘だったの?

 ——ねえ。

 ——答えてよ。

 答えは来なかった。二度と。

    ◇

 記憶が途切れた。

 涙が流れていた。メルティの記憶に引き込まれて、俺自身が泣いていた。

 ——知っている。この痛みを。

 信じた相手に裏切られる痛み。七年間一緒にいた仲間に「お前はいらない」と言われた夜。あの痛みと同じだ。だがメルティの方が——遥かに深い。俺の場合、ゼノンたちが俺を「利用」していた自覚はなかった。ただの無関心だった。だがゼルクは、最初から魔力を奪うために近づいた可能性がある。十年間の全てが嘘だった可能性がある。

 それでもメルティは、300年経った今も、「嘘だった」と断定できないでいる。「最初から嫌いだった?」と問い続けている。断定してしまったら、十年間の幸せが全部消えてしまうから。

 300年間。この子は——この問いを抱えたまま、ここで泣き続けていたのか。

 渦が激しさを増した。俺の接触に反応して、メルティの感情が噴出している。悲しみが暴走し、渦が膨張する。洞窟の壁が砕け始めた。

 カロンの声が飛んでくる。

「一人では無理だ! 魂の修復には、彼女の魂に共感できるほどの絆が——」

「一人じゃない」

 振り返った。三人がいる。怨念体を押さえながら、俺の背後を守っている。

「リリス。シャルロット。セラフィナ。俺に力を貸してくれ。この子を——助けたい」

 三人の目を見た。一瞬のためらいもなかった。

 リリスが俺の背中に手を当てた。800年の真祖の魂力が流れ込んでくる。

「わらわの800年、ぬしに預ける」

 シャルロットが右手を重ねた。金色の魂の力が加わる。呪いに蝕まれていても、この魂は強い。

「私の分も使って!」

 セラフィナが左手を添えた。純白の魂力。天使の力が、人間と吸血鬼の力と混ざり合う。

「……全て、預けます」

 四人の魂力が、俺の中で一つになった。

 体が光った。蒼白い光が全身から溢れ出す。魂魄支配の出力が、今までの何倍にも跳ね上がった。一人では届かなかった場所に、手が届く。

 渦の中心に、もう一度手を伸ばした。

 暴走する全属性の魔法が腕を焼く。皮膚が裂け、血が飛ぶ。だが止まらない。手を引かない。四人分の魂力が、腕を守り、前に押し出してくれる。

「届け——!」

 渦の中で——小さな手が、俺の手を掴んだ。

 冷たい手だった。震えていた。300年間、誰にも触れられなかった手。差し出された手を握り返すことを、怖がっている手。

 でも、掴んだ。

 離さなかった。


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