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第28話「幽霊大魔術師」

 渦の中は、静かだった。

 外の暴風が嘘のように、音がない。黒と紫の光が緩やかに回転している。その中心で、俺は小さな手を握っていた。

 メルティの手。冷たくて、小さくて、震えている。

 目の前に、少女がいた。渦の中で膝を抱えていた時より少しだけ姿がはっきりしている。俺の手に触れたことで、魂の形が安定し始めたのだろう。黒い長髪。大きな瞳。十二、三歳の外見。だが瞳の奥に、300年分の孤独が沈んでいる。

「……だれ?」

 声が震えていた。

「だれなの……? メルティに触れないで……また裏切るの……?」

「裏切らない。俺は死霊術師だ。お前を助けに来た」

「嘘」

 即座に返ってきた。反射だった。300年間、同じ結論を繰り返し続けた魂の、条件反射。

「みんな嘘。弟子もそう言った。『先生、大好きです』って言って……殺した。優しい言葉は全部嘘。信じたら、殺される」

 握った手が、俺の指を振りほどこうとした。だが力がない。魂が摩耗しきって、手を振り払う力すら残っていない。

「俺の魂に触れてみろ」

 メルティの動きが止まった。

「嘘をついてるかどうか、お前ならわかるだろ。大魔術師なんだから」

 沈黙が数秒あった。それから——メルティの指が、恐る恐る、俺の手首から腕に沿って上がってきた。魂の表面に触れようとしている。怯えながら。

 触れた。

 俺の魂が、メルティに読まれていく。

 七年間の記憶が流れていく。パーティで仲間を守り続けた日々。鼻血を拭いながら魂を鎮め続けた夜。「死霊術師はいらない」と言われた酒場。それでも歩き続けた街道。リリスとの出会い。シャルロットの呪い治療。セラフィナを受け止めた腕。テルミナの子供たちの笑顔。墓地の怨霊の声を聴いた日。

 全部。嘘のない、生身の魂。

 メルティの指が止まった。

「……嘘じゃ、ない」

 声が変わった。条件反射の拒絶が、消えていた。

「この人……本当に、メルティを……助けに来てくれた……」

 メルティの目から、涙がこぼれた。渦の中で光の粒子になって散る。

「本当に……? 本当に裏切らない……?」

「裏切らない」

「ずっと……?」

「ずっとだ」

 メルティの手が、俺の手を握り返した。さっきまでとは違う。振りほどこうとする力ではなく、縋りつく力。300年間、誰にも触れられなかった手が、初めて誰かの手を自分から握った。

 渦が——静まっていった。

 黒と紫の光が薄れ、怨念の色が抜けていく。メルティの魂が本来の形を取り戻し始めた。黒い長髪が銀色に変わった。外見が少しだけ成長して、十五歳くらいになった。大きな瞳は深い紫色。澄んだ色だった。300年の怨念が晴れ、本来の魂の色が戻っている。

 裂け目の全体が変わった。壁面に刺さっていた魂の欠片が一斉に光り出し、浮き上がり、空に還っていく。怨念体が消滅する。渦が完全に消え、裂け目の底に穏やかな蒼い光だけが残った。

 外で戦っていた三人の声が聞こえた。

「怨念体が……消えた?」

「渦も止まっておる。レイドがやったのじゃ」

「……成功したのですね」

    ◇

 裂け目の底から、全員で地上——冥都の地面まで戻った。

 メルティは俺の隣に浮いていた。足が地面に触れていない。半透明の体。幽鬼ゴースト状態だ。肉体を失って300年。魂だけの存在になっている。

 メルティが自分の手を見た。半透明の指を動かしている。

「……触れない」

 地面に手を伸ばした。指が石畳をすり抜ける。壁に手を当てようとした。すり抜ける。何にも触れられない。300年前に体を失ってから、ずっとそうだったのだろう。

 俺はメルティの魂に、魂の修復と魂の強化を同時にかけた。

 修復で魂の形を安定させ、強化で魂に密度を与える。魂の密度が一定を超えると、物理的な干渉力が生まれる。完全な肉体ではないが、「触れる」程度の仮の実体を維持できる。

 メルティの体に、薄い光の膜が纏われた。半透明だった姿に、少しだけ色が戻る。

「……足」

 メルティの足が、地面に触れた。

 石畳の感触。冷たく、硬く、確かな感触。300年ぶりに「地面を踏んだ」。

 メルティは数秒、自分の足元を見つめていた。それから——俺の方を向いた。

 手を伸ばした。俺の外套の袖を掴んだ。指が布地を握る。すり抜けない。触れている。

「……触れる」

 声が裏返った。

「触れるの。300年ぶりに……人に触れる……」

 指が震えていた。外套の袖を、握り潰すほどの力で掴んでいる。離したら消えてしまうとでもいうように。

「離さなくていいよ。好きなだけ掴んでろ」

「ほんと? 離さなくていいの?」

「ずっとでいい」

「……ずっと?」

「ずっとだ」

 メルティの目から涙が溢れた。声を上げて泣いた。300年間泣き続けていたはずなのに、この涙は——全然違った。温かい涙だった。

 しばらく泣いていた。袖を掴んだまま、離さなかった。

    ◇

 カロンの塔に戻った。

 メルティは俺の袖を掴んだまま、一度も離さなかった。階段を登る時も、部屋に入る時も。リリスが微笑んでいた。シャルロットは何か言いたそうだったが、メルティの涙の跡を見て口を閉じた。セラフィナは静かに見守っていた。

 カロンが「冥府のりんご」を出してくれた。冥府の魔力で実る果実。紫がかった赤い皮。生者も食べられるという。

 りんごをメルティに差し出した。

 メルティが袖から片手だけ離して、りんごを受け取った。両手で包むように持つ。300年ぶりに「食べ物を持つ」感触を、確かめるように。

 一口、かじった。

 しゃくり、と音がした。

 メルティの目が見開かれた。

 噛んで。飲み込んで。口の中に果汁が広がって。甘さと酸味が舌の上で混ざって。喉を通って、体の中に落ちていく。

「……あったかい」

 小さな声だった。

「りんごって、あったかいんですね……」

 涙が頬を伝った。一滴、二滴。止まらなかった。りんごを両手で持ったまま、涙が落ちて、りんごの表面を濡らした。

 味覚。温度。食感。300年間失っていたもの。人間にとって当たり前のもの。当たり前すぎて、誰も「あったかい」なんて思わないもの。

 でもメルティにとっては——300年ぶりの「あったかい」だった。

 部屋が静かだった。誰も何も言わなかった。

 リリスが目を伏せていた。800年間、温かいものに触れられなかった自分の記憶と重なったのだろう。シャルロットが唇を噛んでいた。目が赤い。セラフィナが胸の前で手を組んでいた。祈りの形。

「これからは好きなだけ食え」

 俺が言うと、メルティが顔を上げた。涙で顔がぐしゃぐしゃだった。鼻も赤い。大陸最強の大魔術師の面影は欠片もない。ただの、りんごを食べて泣いている女の子だった。

「……はい」

 声が詰まって、一度止まった。息を吸って、もう一度。

「はい……! ありがとうございます、ししょう……」

「ししょう?」

「だって、メルティに体をくれた人だもの。師匠です。ししょう!」

 メルティがりんごを片手に持ち替えて、もう一度俺の袖を掴んだ。今度は力一杯に。

 リリスが声を出して笑った。「ししょうか。よい響きじゃの」

 シャルロットが袖で目元を拭った。「な、泣いてないし……りんごの匂いが目に染みただけだし……」

 セラフィナが静かに微笑んだ。「……良かったですね、メルティさん」

 メルティがりんごの二口目をかじった。口いっぱいに頬張って、涙を流しながら、笑った。

 300年ぶりの食事は——りんご一個だった。

    ◇

 メルティ・ファントム。外見十五歳。実年齢三百十五歳。

 生前は大陸最強の魔術師。全属性魔法、空間魔法、幻影魔法を操った天才。現在は幽鬼状態で、俺の魂の強化がなければ実体を維持できない。つまり、俺のそばにいないと透明に戻る。

「ししょう、メルティもう離れません。ずーっとそばにいます!」

「……騒がしくなりそうだな」

「ふふ、賑やかでよいではないか」

 リリスが笑った。シャルロットが腕を組んで「また増えた……」と呟いた。セラフィナは「仲間が増えるのは良いことです」と穏やかに言った。

 五人になった。

 死霊術師。真祖の吸血鬼。呪いの騎士姫。堕天使。幽霊大魔術師。

 どこに出しても説明に困るパーティだが——全員が、ここにいる理由を持っている。

    ◇

 カロンが俺たちを呼んだ。

「裂け目は収まった。メルティの暴走が止まったことで、冥都東部の崩壊は食い止められた。だが——根本的な問題は何も解決していない」

「教会の魂の搾取」

「そうだ。地上で教会が魂の搾取を続ける限り、冥府の循環は乱れ続ける。新しい裂け目が生まれ、新しい怨念体が湧く。やがて冥渦が起きる」

 カロンの蒼い瞳が、俺を見据えた。

「レイド。冥渦を止めるには、地上と冥府の両方から対処する必要がある。冥府の側はわしが何とか持ちこたえる。だがお前は——地上に戻り、教会の魂の搾取を止めなければならない」

「わかった。地上に戻る」

 振り返った。四人が立っている。

 リリスが腕を組んで笑っている。シャルロットが剣の柄に手をかけている。セラフィナが静かに頷いている。メルティが俺の袖を掴んでいる。

「全員で行くぞ」

 冥府の門に向かって、五人で歩き始めた。


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