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第26話「裂け目の探索」

 裂け目は、冥都の東端を引き裂いていた。

 大地に走った亀裂。幅は十メートル以上。長さは視界の端まで続いている。亀裂の縁から黒い瘴気が噴き上がり、空中で渦を巻いて散っていく。地面が低く振動している。冥都の建物が揺れ、壁から記憶の欠片が剥がれ落ちていた。

 裂け目の周辺から、死者たちが避難していた。半透明の人々が荷物を抱え——荷物も記憶でできているのだが——足早に西側へ向かっている。子供の魂を抱えた母親の魂が、すれ違いざまに俺たちを見た。

「冒険者さんたち……あの裂け目、何とかなるのかい」

「やってみる」

 母親の魂が、微かに笑った。「頼むよ」

 裂け目の縁に立ち、下を覗き込んだ。底は見えない。黒い瘴気の向こうに、紫色の光が脈動しているのがかろうじて見える。

「降りるぞ」

 壁面に足場がある。岩の突起や、亀裂に食い込んだ記憶の建材を使えば降りられる。だが途中から足場が途切れている。

「リリス、血の茨で足場を作れるか」

「任せよ」

 リリスの血の茨が壁面に張りついた。紅い蔦が階段状に伸び、降下路を形成する。四人で慎重に降りていった。

 降りるにつれて、壁面に異様なものが見えた。

 魂の欠片だ。無数の光の粒が岩肌に刺さっている。砕けた宝石が壁に嵌め込まれたように見えるが、一つ一つが魂の断片だ。

 魂視で確認した。

「この欠片……全部、元は普通の死者の魂だ。暴走した大魔術師の魂に引き寄せられて、近づきすぎて砕かれている」

「どれだけの数……」

 セラフィナが壁面を見上げた。欠片は何百、何千とある。

「300年間、ここで砕かれ続けたということですか」

「ああ。裂け目の核が発する力場に、周囲の魂が吸い寄せられている。重力のようなものだ。逃げられない」

 降下を続けた。

    ◇

 中層まで降りた時、瘴気の密度が跳ね上がった。

 前方から、黒い影が三つ現れた。中型の怨念体。冥都の入口付近で遭遇したものより一回り大きい。人の形を取りかけていて、腕のようなものが四本ある。

「来るぞ」

 構えた。四人での初の実戦連携だ。

「リリス、拘束を——」

「心得た」

 血の茨が三方向に伸びた。一体目と二体目を壁面に縫い止める。だが三体目が——茨を掴んで引きちぎった。力が違う。裂け目の奥に近いほど、怨念体の密度が上がるのか。

 三体目が俺に向かって突進してきた。

「私が行きます」

 声と同時に、銀灰色の影が割って入った。

 セラフィナだった。

 折れた翼を背中に畳んだまま、低い姿勢で滑り込んでいる。右手に光の剣——魂力で形成した天使の武装。刃が淡い白光を放っている。

 怨念体の腕が振り下ろされた。四本同時に。

 セラフィナの体が流れた。一本目を横に避け、二本目を剣の腹で逸らし、三本目を屈んでくぐり抜け、四本目が来る前に——斬った。

 白い軌跡が闇を裂いた。

 怨念体の胴体が両断された。黒い靄が散り——中から魂の核が露出した。物理攻撃では通らないはずの怨念体を、天使の剣が斬り裂いた。聖属性の光が、魂に直接作用しているのだ。

「核が出た! レイド!」

 シャルロットが叫んだ。俺は即座に魂鎮を展開し、露出した核を浄化した。怨念体が光の粒子になって消える。

 残り二体はリリスの拘束が持っている間に、俺が一体ずつ浄化した。

 静寂が戻った。

 シャルロットがセラフィナを見ていた。目が丸くなっている。

「すごい……天使の剣って、怨念体にも効くの?」

「天界の武装は魂に干渉します。本来はもっと精密に使えるのですが、封印されている今は——粗い斬撃しかできません」

「粗い? 今のが粗い?」

 シャルロットの声が裏返った。あの四本腕を全て捌いた動きが「粗い」なら、全盛期はどれほどのものか。

 セラフィナが——笑った。

 小さな笑みだった。口元がほんの少し上がっただけ。だが、冥府に来てから初めて見る、戦いの中での笑顔だった。

「……久しぶりに、誰かと一緒に戦いました」

 静かな声だった。

「天界では一人でした。裁定者は単独行動が基本で、仲間という概念がない。追放されてからも、ずっと一人で——」

 言葉を切った。目を伏せ、それから顔を上げた。

「こんなに嬉しいとは思いませんでした。誰かの隣で戦えることが」

 リリスが腕を解いて頷いた。シャルロットが少し照れたように視線を逸らした。

 俺は何も言わなかった。ただ、セラフィナの笑顔を見て——ああ、この人を助けてよかった、と思った。

    ◇

 さらに降下を続けた。

 怨念体の出現頻度が上がっている。五体、八体、十体と群れが大きくなる。だが四人の連携は回を重ねるごとに噛み合っていった。リリスが分断し、セラフィナが核を露出させ、シャルロットが斬り込み、俺が浄化する。セラフィナが加わったことで、怨念体に対する攻撃手段が増えた。もう俺一人に頼らなくていい。

 壁面の様子が変わってきた。砕けた魂の欠片に混じって、文字が刻まれている。古代の魔法文字ではない。もっと新しい。走り書きだ。爪で引っ掻いたような、荒い筆致。

「助けて」

「ここから出して」

「だれか——」

「さみしい」

「いやだ」

「ひとりは いやだ」

 同じ文字が、何十回も、何百回も繰り返されていた。壁面を埋め尽くすように。300年間、同じ言葉を刻み続けたのか。

「……これは、暴走している魂の叫びだ。300年間、ずっとここで叫び続けている」

 リリスが壁面に手を触れた。紅い瞳が揺れている。

「わらわにもわかる。この魂は……怒りではないの。悲しみで暴走しておる」

「悲しみ?」

「怒りの暴走は外に向かう。破壊し、燃やし、壊す。じゃが——悲しみの暴走は内に向かう。自分自身を傷つけながら、叫び続ける。この裂け目は、大魔術師の悲しみが冥府の大地を引き裂いたものじゃ」

 300年間の悲しみ。それが冥府に裂け目を穿ち、怨念体を生み出し、冥都を脅かしている。

    ◇

 裂け目の最深部に辿り着いた。

 広い空間だった。洞窟のように天井が遠く、壁面全体が紫色に脈動している。空間の中央に——渦があった。

 魂の渦。黒と紫の光が螺旋を描いて回転している。直径は五メートル以上。凄まじい魂力が放出されていて、近づくだけで肌が痺れる。冥府全体の異変の源。ここから怨念体が生まれ、裂け目が広がり、魂の循環が乱れている。

 渦の中心に、人影があった。

 魂視で見た。

 ——桁外れだった。

 人間の魂とは思えない密度。蒼白い光が渦を巻き、壁面を叩き、天井を揺るがしている。生前は大陸屈指の術者だったとカロンは言った。納得できる。この魂一つで、冥府の地形を変えるほどの力がある。

 だが——人影は、大きくなかった。

 小さい。大人ではない。子供の——少女の姿。

 長い黒髪が渦の中で乱れている。小さな体を丸め、膝を抱えている。十二歳か、十三歳くらいの外見だ。大陸屈指の大魔術師の魂が、なぜ少女の姿を——

 渦の中から、声が聞こえた。

 泣き声だった。

「うぅ……いやだ……ひとりは……いやだよぅ……」

 四人全員が、足を止めた。

 怒りでも憎しみでもなかった。ただの——泣き声だった。寂しくて、怖くて、誰かにそばにいてほしくて、でも誰もいなくて。300年間、暗い穴の底で一人きりで泣き続けている子供の声。

 シャルロットの剣を握る手が下がった。セラフィナの光の剣が消えた。リリスの茨が地面に沈んだ。

 戦う相手ではなかった。

「……泣いてる」

 俺は渦を見つめた。

「この子は、怒って暴走してるんじゃない。寂しくて泣いてるんだ」

 冥府の底で、一人の少女が泣いている。300年間、ずっと。


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