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第25話「先代の死霊術師」

 冥都の奥へ、カロンが先導した。

 表通りから外れ、裏路地を何度も曲がる。死者たちの姿が減っていく。建物も変わった。記憶で造られた華やかな街並みが消え、黒い石だけの簡素な壁が続く。冥都の最も古い区画だ。

 リリスは一言も発さなかった。

 ルシアの名を告げてから、リリスの表情は凍りついたままだ。歩いている。ちゃんと歩いている。だが共鳴を通じて伝わってくる感情は、嵐のように渦巻いていた。喜び。恐れ。後悔。会いたい。会うのが怖い。——800年分の感情が、整理されないまま押し寄せている。

 シャルロットとセラフィナは少し後ろを歩いていた。二人とも事情を察して、距離を取ってくれている。

 通路の突き当たりに、小さな広場があった。

 「魂の聖域」とカロンが呼んだ場所。冥都の最深部。壁も天井もない、ただ蒼い光に満ちた空間。地面から立ち昇る光の粒子が、雪のように舞っている。

 その中心に——一つの魂が浮かんでいた。

 人の形をした、小さな光。膝を抱えて眠るように丸くなっている。淡い青白の光。穏やかで、温かくて、どこか寂しい色。

 リリスの足が止まった。

「ルシア……」

 声が震えていた。真祖の吸血鬼。800年を生きた存在。その声が、こんなにも脆く震えるのを、初めて聞いた。

「ルシアッ……! お前、ここに……800年間ずっとここに……!」

 膝が折れた。リリスが冥府の地面に崩れ落ちた。手を伸ばしているが、届かない。魂の聖域の光が、生者の手を通してしまう。

 俺はリリスの隣に立った。

「起こすぞ」

 魂喚を展開した。ルシアの魂に触れ、意識を一時的に呼び覚ます。第2段階の魂の修復で学んだ繊細さを総動員して。壊さないように。驚かせないように。800年の眠りから、そっと。

 光が揺れた。丸まっていた魂が、ゆっくりと形を変えていく。若い女性の輪郭。短い髪。華奢な体。目が——開いた。

 青い瞳。星空のような、澄んだ青。

「……ん……」

 ルシアの魂が、目を瞬かせた。周囲を見回す。冥府の光。蒼い粒子。知らない男。そして——

「リリス……さん?」

 声がかすれていた。800年ぶりの声だ。

「リリスさんなのか? ……良かった」

 涙が光になって散った。魂の涙。実体はないが、蒼い光の粒になって空中に漂う。

「生きて、いたんだ……」

    ◇

 ルシアの魂は半透明だった。足元がぼんやりと地面に溶けかけている。完全には現世に留まれない状態だ。長くは保てない。

 だが意識ははっきりしていた。リリスの顔を見つめる青い瞳に、曇りはない。

「ルシア。わらわは……わらわは……」

 リリスが言葉を探していた。800年分の感情が喉に詰まって、何も出てこない。

「ごめんなさいは、なしですよ」

 ルシアが笑った。穏やかな笑みだった。

「リリスさんが謝ることなんて、一つもないです。私が勝手にやったんですから」

「勝手に——勝手に死ぬ奴があるか……!」

「あはは。怒ってくれるんですね。嬉しいな」

 ルシアの魂が少し明るくなった。感情に呼応して、光が強くなる。

「私がリリスさんの魂を守ったのは——後悔してないです。一度も。800年間ここで眠っている間も、ずっと。だってリリスさんは、私にとって——一番大事な人だったから」

 リリスの涙が止まらなかった。声を上げずに泣いていた。800年の威厳も、真祖の気品も、全部脱ぎ捨てて。ただの、友を失った一人の存在として。

「ねえ、リリスさん。そちらの方が——リリスさんを棺から出してくれた人?」

 ルシアの青い瞳が、俺に向いた。

「ああ。レイド・ノクターンだ。死霊術師の——」

「後輩さんだ」

 ルシアが嬉しそうに言った。

「私の後に、死霊術師がちゃんといてくれた。……よかった。ずっと心配してたんです。私が死んだら、リリスさんの棺の封印を維持してくれる人がいなくなるって」

「封印を維持?」

「私の魂の保護術は、私が死んだ後も効果が続くように設計しました。でも永続ではないんです。いつか劣化する。その前に、次の死霊術師がリリスさんを見つけてくれないと——」

「800年は長かったな。でも、間に合った」

「うん。間に合いました」

 ルシアが微笑んだ。それから、俺をまっすぐ見た。

「レイドさん。お願いがあります」

「何だ」

「私の魂の一部を、あなたに託したい。私が800年かけて蓄えた経験と知識。死霊術師としての全て。あなたに引き継いでほしいんです」

 カロンが静かに頷いた。「魂の継承。先代から後継者に知見を渡す、死霊術師の伝統だ。受けるか、レイド」

 リリスを見た。リリスは泣きながらも、頷いていた。受けてくれ、と。

「——受ける」

 ルシアが手を伸ばした。半透明の手。俺はその手を取った。触れた瞬間——

 流れ込んできた。

 800年分の知見。ルシアが生きた時代の魔法体系。教会に追われながらも研究し続けた魂魄支配の応用技術。リリスの封印を守るために独自に編み出した保護術の理論。そして——呪いや封印を解除するための精密な手順。「魂の解放」の基礎だ。

 膨大な量だったが、不思議と頭が混乱しなかった。ルシアの知識が、俺の魂にそのまま馴染んでいく。先輩の経験が、後輩の体に宿る。

 手を離した。ルシアの魂が、一段薄くなっていた。継承で力を使ったのだ。

「……ありがとう、ルシア。確かに受け取った」

「こちらこそ。これで、安心して眠れます」

 ルシアの体が光り始めた。足元から、少しずつ粒子に還っていく。成仏が始まっている。未練が——解けたのだ。

「待て、ルシア! まだ——」

 リリスが手を伸ばした。だが触れられない。魂同士でなければ触れられない。リリスは生きている。ルシアは死者だ。その境界が、二人の間に横たわっている。

「リリスさん」

 ルシアの声が、遠くなっていく。

「泣かないでください。私は幸せでした。リリスさんに出会えて。リリスさんのために何かできて。——それだけで、私の人生には意味がありました」

「ルシア……」

「それと、最後に一つ」

 ルシアの青い瞳が、光の中でもはっきりと見えた。笑っていた。

「800年分の『おはよう』——遅れてごめんなさい、リリスさん。ちゃんと、起きられたんですね」

 光が弾けた。ルシアの魂が、無数の蒼い粒子になって空に散った。粒子は雪のように舞い上がり、冥府の暗黒の空に溶けていった。

 もう、そこには誰もいなかった。

 ルシアが800年間眠っていた場所に、小さな光の欠片だけが残っていた。星のように瞬いている。消え残った最後の記憶。

 リリスが、その光の前に座り込んだ。

 泣いていた。声を殺して。肩が震えて。銀髪が蒼い光に照らされて揺れていた。

    ◇

 しばらく待った。

 シャルロットとセラフィナは広場の入口で待っていてくれた。二人とも目が赤かった。聞こえていたのだろう。

 リリスが立ち上がったのは、随分後だった。

 顔を上げた。涙の跡が残っている。だが——目の色が違った。さっきまでの動揺が消えている。代わりにあるのは、静かな、だが強い光。

「レイド」

「ん」

「ありがとう。ルシアに会わせてくれて」

 それから、リリスが俺の手を取った。強く握った。指先に力がこもっている。震えはもうなかった。

「わらわは、もう泣かぬ。ルシアが託した想い——ぬしと一緒に、全うする」

 紅い瞳が、まっすぐ俺を見ていた。

「だから——ずっとわらわの傍にいてくれ」

 答えは一つしかなかった。

「どこにも行かないよ」

 リリスの指が、ほんの少しだけ緩んだ。力が抜けたのではない。安心したのだ。

    ◇

 カロンの塔に戻ると、カロンが待っていた。

「継承は済んだか」

「ああ。ルシアの知見、確かに受け取った。魂の解放の基礎が入っている。これがあれば——シャルロットの呪いもセラフィナの封印も、もっと精密に解除できる」

「よかろう。だが、感傷に浸っている暇はない」

 カロンの蒼い瞳が、窓の外——冥都の東側を向いた。

「冥都の東に、巨大な『裂け目』が現れた。数日前からだ。そこから怨念体が大量に湧き出している。冥都の住民——死者たちが避難を始めている」

「裂け目?」

「生と死の境界が局所的に崩壊した穴だ。冥渦の前兆とも言える。放置すれば広がり、やがて冥都そのものを飲み込む」

 カロンが指で空中に地図を描いた。蒼い炎が冥都の形を作り、東側に赤い亀裂が走っている。

「裂け目の奥に、一つの魂がいる。非常に強い魂だ。だが——暴走している」

「怨念体とは違うのか」

「規模が桁違いだ。300年前に殺された大魔術師の魂。生前は大陸屈指の術者だったらしい。その魂が裂け目の中心で暴れている。怨念体を生み出しているのは、この魂だ」

 300年前の大魔術師。暴走する魂。怨念体の発生源。

「止められるのは、お前だけだ。レイド」

 俺は拳を開いて、閉じた。ルシアから受け継いだ知識が、指先に馴染んでいる。

「行こう」

 振り返ると、三人が立っていた。リリス。シャルロット。セラフィナ。

 リリスの目に、もう涙はなかった。


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