191話
アーサーとアリアは、戻ってきてからと言うもの、頻繁に、手を石鹸で洗っている。あちらの世界で習慣になったようで、誰に言われるでもなく、部屋に戻れば、必ず最初に石鹸で丁寧に手のひら、指先、手の甲、指の間、親指も一本握りクルクル、そして最後に手首をぐるっと洗う。
食前は勿論のこと、飲み物を飲む前ですら、必ず石鹸で洗っているので、一日に洗う回数は、優に10回を超えている。
アリアが、寝る前に塗るハンドクリームは、黄色のチューブで、キャップの部分は桃色、チューブの表面には、可愛い熊さんの絵が描いてあり、「蜂蜜入りなの。」と教えてくれた。どうやら、あちらの世界でマリーと一緒に郵便局に行き、その時に窓口で売られていた物を買ってもらった様だ。小さな手で、クルクルッとキャップを外し、黄色いクリームを少し出すと、上手に両手に馴染ませている。
二人とも、自分で出来る事は、自分でする子になっていた。
アーサーは、あちらの世界の水が合わなかったようで、
お風呂上がりに顔や足など粉がふいていたらしく、キュレルと言う名の乳液タイプの保湿を塗っている。
同じシリーズの入浴剤を入れた湯に浸かる様になってからは、数日すると肌荒れも落ち着いたようだが、アークランドは、一年を通して乾燥しているので、お風呂上がりに乳液を塗るのは、今でも日課として続けている。
「マモルが、買って来てくれました。念のため鞄にも入れとけって持たせてくれてたので。」そう言いながら、
バカっと乳液の入った青い蓋を開けると、手のひらに少しずつ出し、鏡も見ずに、パパッと顔や身体に雑に塗っている。
その様な調子なので、肌に塗ると透明になるのだが、乳液がムラになっていることが、毎回気になってしまう。
「アーサーおいで。」と、いつもベットに座らせて、頬の端や首、膝の下、肘の部分の乳液を丁寧にのばしてあげると、子供らしい笑顔で嬉しそうにしている。
そうしていると、アリアは決まってベットによじ登って来て、アーサーの横で小さな顎をクッと上げ、塗ってくれと言わんばかりに目を閉じて、お利口さんで待っている。アーサーが終わり、次にアリアのおでこと可愛いお鼻と頬にチョンチョンっとつけて優しく塗ってあげると、ピンクの小さな唇は喜びでニコニコになる。
お風呂上がりの、この幸せな空間にイチコが一緒で無い事が、本当に残念だ。
こちらに戻ってからは、温泉水なので入浴剤は必要なかった。
車に有った未開封のキュレルの入浴剤は、お義父さんが、「レイの自宅は、温泉水ちゃうんやったら、帰ってから使たらどないや?」と、透明の包装を取りながら渡していた。
バスルームで使い方を見せて貰った。キャップをパカっと開け、本体をグーと掴む感じで少し押すと、液体がキャップの線の所まで出てくる。
便利だな。
そして浴槽に溜めた湯に、液を入れると一瞬でパッと湯が白くなる。色が変わるのも不思議だが、押し出した量以上は、液体が出ない事も不思議だ。香りも優しい。
イチコもだが、イチコの家族も入浴が好きなようで、アークランドの湯をとても気に入ってくれている。
ジューシローとユリアの家の、ジェットバスには遠く及ばないが、アークランドの温泉は炭酸泉だ。
ハルは、血行の促進と血管の拡張が期待できるので、心臓病・高血圧・糖尿病・血栓・心筋梗塞などの予防・改善への効果が有るかも知れないと言っていた。
まぁ、打身、腰痛には間違いなく効くが、アーサーの肌が、あちらの世界の水に合わなかったのなら、やはりアークランドの湯は、肌にも良いのだろう。
子供達は、俺と寝るにしても、お義父さんと寝るにしても、お肌の手入れまでを済ませてからチョロチョロしているが、中庭で小さな夏祭りをしてからは俺と寝る回数が格段に増えた。増えたどころか、ほぼ俺だ。
「昼間はじぃじ。夜はパパ。」なのだそうだ。
アリアの夜のお楽しみ、お菓子の「あーんして」は、
完全に俺の担当に、なってしまった。
ヒカルは「やっと解放されたよ。」と、いつもの調子で淡々と言うので、その言葉が本心なのか、残念がっているのかは判断できない。
だが、「パパ。お菓子、作ってあげるね。」と言われると、少しドキドキする。それほど、未知なる味は、当たり外れが混在している。バーガーだと言われても甘い菓子なのだ。何か、ビヨーンと伸びたりするが、大体の味は甘い。そして甘いと分かると、アリアは嬉しそうに口にしている。
お義父さんから「アリアが、こっちのお菓子を警戒するよーなった元凶や。」と、勧められた『都昆布』には驚いた。あまりの酸味に顎が痛くなったからだ。
お義父さんとシューイチは、大笑いしていたが。
今は、同じ様な味に当たらないことを願いながら、アリアの可愛い「パパ。アーンして。」に付き合っている。
ある夜、バスルームから出ると、アリアのおままごとが始まっていた。
どうやら、アーサーが相手をしてくれている様だ。
いつものティータイムではなく、イチコの実家バージョンだと直ぐに分かった。
アリアは、「お風呂のスイッチ入れたの?」と、おそらく、誰かの…きっとマリーの物真似で、聞いている。
アーサーが、「あったりまえやんけ。」と言いながら「ポチ」っと、壁のスイッチを押す仕草をする。
「もうっ!また、忘れてたのね。子供達が寝るの、遅くなっちゃうわ。」と、アリアは腰に手を当てて、小さなほっぺを少し膨らませながら言った。
「大丈夫や。お休み前の絵本、速攻で終わらしたる。目ぇ硬なったらあかんからな。」と、アーサーが言った。
「目が硬くなる?どー言う意味だい?」
「夜になっても、なかなか寝ないとか、夜更かしをする習慣がつくことです。」アーサーは、言葉の意味も理解して真似ているのか。
イチコ…。俺たちの、大切な息子の言葉使いが、変わってしまっているよ…。
俺は、髪をふきながらベッドに腰を下ろし、子供達の可愛いやり取りをそのまま見守る事にした。
アリアが上手に鼻歌のように音楽を口ずさむ
ルルル ルルル ルルルール ルルル ルルルールール〜 オフロガワキマシタ
懐かしい、ハルの実家、俺達がお世話になっていたジューシローとユリアの家の曲と全く同じだ。
笑いそうになるのを何とか堪えて続きを見守った。
アリアは、「カラカラカラ」と言いながら架空のドアをスライドさせて、シャワーかな?その後は少ししゃがむと「お風呂、チャップン。はい。上がりました。」と、こちらに寄って来て、俺の前に背を向けてチョコンと座った。ん?何をして欲しいのだ?
アーサーに目をやると、どうやら心得ている様で、小さく頷くとアリアの前にやって来て「アリア。頭 、乾かそっか。」と、ドライヤーのモノマネで「ブーン、ブーン」と、言いながら、アリアの頭を少しワシャワシャした。
そうか、ドライヤーで乾かすフリをして欲しかったのか…。
「ちゃーんと100まで数えて浸かったんか?」
「あっ!忘れちゃった。でも、本当のお風呂はちゃんと10を10回したの。」
「ほんなら、セーフや。」
アーサーは、誰のモノマネをしているのだ?
それから二人は、大きなベッドによじ登った。
アリアは、枕元のキリンさんのぬいぐるみを持って来て横に置くと、うつ伏せになり小さな両手で頬を支えて絵本をみつめた。その隣でアーサーは横向きに寝転がり、左手で頭を支えながら絵本を読み始めた。
片方の足は、膝を三角に曲げて立てている。
アーサーの姿勢は、子供の寝転がり方では無いな。
大人の男の仕草だ。
持ち帰って来た絵本の文字の下には、子供達が自分でも読める様にと、ユリアがこちらの世界の文字を手書きで書いて貼り付けてくれていた。
「むかーし昔、ある所に、お爺さんとお婆さんが、そこら辺に適当ーに、住んでいました。」
ん?本当にそう書いてあるのか?口調も雑だ。
「可愛いらしアリアは、ちゃーんと聞いてるか?」と、大人の様に言いながらお鼻をツンツンして、お顔を覗き込んでいる。やはり、読み聞かせも誰かの物真似だな。
アリアは、クスクスと笑いながら、「聞いてるわ。」と、お返事すると、アーサーは、また絵本へと戻った。
「お爺さんは山へ柴刈りに、お婆さんは川へ洗濯に行きました。お婆さんが川で洗濯していると、川上から大きな桃が」と、一旦 区切り、絵本を捲ると、二人して「どんぶらこ、どんぶらこ」と、声を揃えて言った。大きな桃の絵だ。
可愛いな。
「と、流れて来ました。『でっかい桃やなー。』と、お婆さんは思いながら、桃が流れて行くのを見つめていました。桃は、遠ーくに流れて行って、見えなくなりました。おしまい。さっ、寝よっか。」と、言いながらアーサーは、絵本をパタっと閉じた。
「アーサー?まだ、続きのページが有るだろう?」
俺が気になる。
本当は、流れてきた桃をお婆さんが拾い、その桃から男の赤ちゃんが産まれる。嫌、桃から人は生まれないよと言いたかったが、とにかくその男の赤ちゃんが成長すると、周りの人間より格段に強い立派な青年へと成長した。実はその青年はオニと呼ばれる種族の子供で、生まれた時にツノが生えていなかったので、仕来りに従い大きな桃に入れて川へと流された子供だった。
ツノを持たぬ者は不吉だと忌み嫌われ、一族として認めて貰えない。
何と言うか、物語りの初めから少し悲しい内容だった。
桃を拾った老夫婦には子がおらず、たいそう大事に育てられ、成長したその子は、遊びに出ては喧嘩をする様な青年になってしまった。「そろそろ、働いて家を助けておくれ。」と、言われたものの手っ取り早く稼ぎたい。そこで、村の噂話しを思い出す。オニと呼ばれるツノが生えた種族の村には、沢山の金銀財宝が有るらしい。
しかも彼らは皆 大人しく、争いを好まぬ穏やかな種族で、とても弱いらしい。
桃から生まれた青年は、オニのほとんどを討ち滅ぼし、彼らの宝物を強奪する。
そしてその宝を持ち帰り、親へ渡して裕福になり物語りは完結する。
なんとも理不尽でやるせない残虐なお話しだ。
オニ達が逃げ惑っている絵を見せてくれた。
別の種族で外見が異なるだけで、ここまで酷い扱いを受けるとは、随分と残酷な物語りだ。
宝を手にし、笑う三人が恐ろしくさえ見えた。
アリアが怖がって怖い夢を見なければ良いのだが、案外平気そうにしている。
「明日は、もう少し怖く無いお話しにしようね。」と、言ってあげて、三人で眠りについた。
翌朝、子供達と共に「おはよう」を言いにイチコのベッドへ行き「昨晩、アーサーが絵本を読んでくれたよ。」と、かい摘んで話すと、イチコは「滅茶苦茶やん。」と、楽しそうに笑った。理由を聞くと、内容の印象が真逆のお話しだったので、呆れてしまった。
俺とイチコのやり取りを見て、アーサーとアリアは、とても楽しそうに笑っている。どうやら子供達は、知っていたようだ。
「父上。物事には、必ず二面性が有ると言う事ですよ。立場が変われば、捉え方も変わる。どちらも真実なのです。」
アーサー…?俺やイチコに話す時は、その口調に戻るのか。
アリアはピーマンが食べれる様になっていたし
「高野豆腐のね、たいたんに卵をシャカシャして緑のお豆さんと一緒にぐつぐつしたのが大好きなの。」と教えてくれたが、アーサーも何か気に入った食べ物はあったのかイチコが聞いていた。
「かねますの冷凍の明石焼きが美味しかったです。」
「明石焼き?お出汁で食べたの?」
「はい。レンジでチンしてる間に、お湯を沸かして粉末スープとごぼ天と、それから最後に小口切りのネギを入れて、」お話しを聞いて欲しいのかアリアがイチコの寝衣の袖を「ねぇねぇ」と引っ張っている。
「アリアのはね、おねぎと七味 無しなの。フーフーってするの。」二人してフーフー、ハフハフと食べる様子をイチコに披露している。可愛いな。
片手鍋かな?何かを両手で掴みソーとそそぐ仕草をしている。
「兄さまに、こーやってお出汁入れようとしたらね、ぽっちょんって、ごぼ天が器に落ちたの。」
ヒョッとアーサーが避ける動作をした。
「危うく、ちんちん大火傷するところでした。」
思わず、イチコと大笑いしてしまった。
アリアの申し訳なさそうに言う姿がとても可愛い。
「マリーがね、次からはスープレードルを使ってごぼ天を先に入れてからお出汁を入れてくださいって教えてくれたの。」
アーサーが「マモルは、オタマと言っていました。」と言うと「私もオタマって呼んでるわ。」とイチコがアーサーに手を伸ばし指に触れ手を繋いだ。
アーサーは、色々と違いを理解し吸収して帰ってきている。俺も嬉しいがイチコもアーサーの変化を見逃してはいない様で、目が合うと嬉しそうに小さく頷いた
「次からは上手く出来たの?」
「出来たわ!」
ミルクとクッキーを美味しそうに食べている子供達を見つめながら、イチコが小声で「アル…」と、言ってきた。
「ん?どうした?」
「アーサーとアリアは、オチを覚えて帰って来てるわ…」
「あぁ。それでお話しが面白かったのか。」
「漫才コンビみたいになってるやん。」
ハハ「それは不味いな…」
「そこだけは、気いつけとったのに。」
そうか?今までも結構この様な感じだったが、
イチコは今 気づいたのか?可愛いな。
……とにかく子供達は、そのフワフワの明石焼きと歯応えの有るごぼ天をフーフーしながら交互に食べることが気に入ったようで、イチコが
「料理長に作ってもらえるか、レシピを伝えて頼んでみるわね。」と、言うと、とても喜んでいた。
本来は銅板の専用の調理器具で焼くらしいが、たこ焼きと同じ半分丸い窪みがいくつも有る鉄板で明石焼きも焼ける様だ。
昔、イチコとハルが、たこ焼き用のピックと、たこ焼き用の鉄板、そのサイズに合った炭焼きグリル、七輪とも言うらしいのだが、要するにテーブルの上でも使える万能型の置き炉を二組ずつ作ってもらっていた。
工房の者達は「いったい何にお使いになるのか?」と、作成中も不思議がっていた。
「最近は、どーか知らんけど、うちの家には子供の時から有った。」
「絶対、皆んなの家に有るって訳ちゃうけど、うっとこもちっちゃい頃から有った。」と、イチコとハルが真剣に要請してきた為、特別に注文したのだ。
待ちに待った完成日、イチコとハルはご機嫌で受け取りに行った。
レオンとルイスとヴォルフガングが警護兼荷物持ちで付き添ったが、折り畳み式のテーブルと椅子、材料の小麦粉、卵、ネギ、ハルお手製の紅生姜と天かす、オリーブ油、たこ、瓶に入れた天然水と料理長が作ったたこ焼きソース、泡立て器やボウル、
「オタマ オタマ アル オタマ知らん?昨日、厨房から借りて、このカゴに入れたと思ってたんやけど。」
オタマって何だよ…
スープレードルだった。
それらをピクニックバスケットに入れて荷台を付けた馬で楽しそうに出かけて行った。
戻ってから俺と作れば良いものを…
俺よりも先にお礼も兼ねて工房の者達に
「こんな感じで作って、こんな味です。」と、仲良く皆で食したらしい。
まあ、その時に作った鉄板で焼くのだろう。
たこ焼きは、結構普段からしているからな。
城の厨房の者達も今ではお手のものだ。
イチコは、その鉄板でホットケーキを焼くと
「なんちゃってベビーカステラ。お茶請けにどうぞ。」と、言って城内の食堂でも、持ち帰りやすい様に小分けに包装して置いていた。
ものの数分で無くなってしまい、それからは定期的に食堂担当の調理師達が用意してくれている。
菓子用に焼く鉄板は、イチコが調理場に図面を渡し、片面焼きから両面焼きに改良された。
確かにパタンと蓋をしてひっくり返せば、中で膨らむので楽に焼き上がる。
この菓子の人気の理由は、少し小腹が空いた時には、ちょうど良いのと、クッキーと違って屑が出ず、食する時にサクサクと音もしないので、「こっそりパクッと食べるのに適してる。」と言っていた。
今では、劇場や音楽会などの売店でも常時 売られている。メープルの甘い味や、爽やかなオレンジ味、チーズ味、甘い芋やバナナの入った物など、さまざまな味が提供され定番となっている。
アーサーとアリアは、料理長の作るしっとりとしたカスタードクリームの入った味が大好きだ。こちらは手間がかかるからか、日持ちの問題も有るからか、城外では一度も見たことが無い。
明石焼きも楽しみだ。
今まで通り、マスクと防護服は着用しているが、
六日目の検査も全員が陰性だったので、イチコと子供達との距離も近くなった。
三度目の検査を六日目にした理由は、感染者が発症前の四日〜発症後五日の間に、接触が有った者への感染は確認されたが、それ以外はジュンイチローの病院やヒカルの病院、その他の情報共有している病院では、一例も感染が無かったからだと説明してくれた。
だが、それは最近の状況で判断しただけであって、14日間の隔離は、この世界の人々の命を守るために必要だと言われた。
初期の頃の感染者で、症状が出るまでの期間が、最大で14日との報告を受けていた事と、何度も変異を繰り返しているウイルスの、潜伏期間が長くなっていたりした場合も考慮して、こちらの世界での隔離は、従来通り14日間にした方が良いだろうと、向こうに居る時から決めて、レイや他の子達にも話してくれていた様だ。
ヒカルの学生の頃からの、友人の母親が亡くなったそうだ。
前日の夜から38度を超える熱が出たので、翌朝に病院へ行き検査をしてもらったところ、陽性が確認された。
軽症と診断され自宅療養となり帰宅。その日の夜に亡くなってしまった。家族は別の部屋に居た為、気がつかなかった。夜の11時。寝る前に様子を見に部屋へ行った時には、もう息をしていなかったそうだ。
自宅で亡くなったので、検死も行われた。
「急変した時のスピードが本当に早い。だから、本来なら陽性者は全て入院する事が望ましいけど、あまりに多くて現状では対応できていないんだよ。」ヒカルは悔しそうにそう言っていた。友人の父親も発熱していたので、葬儀は三人の息子達だけで取り行ったそうだ。母親の姉弟達は、最後のお別れも出来ずに、電話の向こうで泣いていたと言う。本来は、亡くなった方の顔や姿を撮影する事は無い。だが、最後の別れすら出来ない状況だったので、息子である友人が撮影して叔父さんや叔母さんのスマホに送ったらしい。母親は五人姉弟の長女だったそうだ。
「まるで眠っている様に穏やかな顔をしてるね。」
「送ってくれて、ありがとう。」と、皆が電話の向こうで泣いていたそうだ。
家の近所の郵便局も集団感染で窓口業務は閉鎖され、その近所のファーストフード店も感染が出て休業。近くの運送会社の支店も一時閉められ、取引先も社員が全員感染。
とにかく酷い有様だと言っていた。
また、ジューシローの大きな病院でも、男性看護師の娘さんが感染し、濃厚接触者となった為、自宅待機にしているそうだ。
娘さんの感染経路は不明で、自宅待機の看護師は、一回目の結果は陰性だったと報告が来たと言っていた。
それでも念のため、病院スタッフ全てに検査を行ったそうだ。結果、陽性者はゼロ。
「それほど多いのですか?」
「市内は特にやな。」
酷い状況だ。
翌日、午後の執務が終わり、子供達と夕食をとるために、回廊を歩いていると、バンッ!! っと、お義父さんとシューイチの部屋の扉が勢いよく開き、アーサーが全力でこちらに逃げてきた。
「こっのっ!クッソ ガキ!あっ!アル!捕まえてくれ!」シューイチが、あちらの世界のバスタオルを腰に巻いたままの姿で、叫んだ。
まだまだだが、言葉を理解できるようになっておいて本当に良かった。
おっと。「捕まえたよ。」
しっかりと抱きしめて、さらに逃げない様に小脇に抱えた。何か悪さをしたのだろうが、このような機会は滅多にない。うっかり顔が綻びそうになった。
アーサー、重くなったな。
我が子の成長を改めて実感した。
「アーサー?何をしたのかな?」
「あ"ーー!!父上ぇぇ!!離してくださいぃぃ!!
コレは、芸術の為なのです!!!」
無駄だと分かっているのに、アーサーが腕の中でジタバタしている。
芸術?シューイチが、やって来た。
「ナイス。アル。」
「何をやらかしたのです?」日本語でたずねると、シューイチが腕に触れながら教えてくれた。
「カメラ機能に、どハマりしよって、何でもかんでもすぐ撮りよんねや。」そう言いながら、アーサーが必死で「ヤダ!ヤダ!」と、押さえているポケットからスマホを回収した。
なるほど。
「盗撮の現行犯。ホレ、見てみい。やっぱし撮っとるやんけ。」
見ると、バスルームに立つシューイチの、美しい全裸の横姿が収められていた。ギリギリに大切な部分は写っていないが、光の加減といい、確かに構図が良い。
まるで絵画のようだ。
「待ってください。消すのですか?」
つい、言ってしまった。
「父上?!」アーサーの目が、希望で輝いている。
「当ッたり前じゃ。親子で何を言うとんねん。」
思わず手で、画面に蓋をしてしまった。
「イチコに見せてからでは、いけませんか?」
「アホなこと言ーな。却下じゃ。」
スッとかわされ、トントンと押して消されてしまった。
「勿体無い…」思わず、口にしてしまった。
「あのなあアル。コレがイチコやったら、どないすんねん。」半ば、呆れた様にシューイチに言われてしまった。
ハッ!そうだな。絶対に由々しき問題だ。
小脇に抱えられて大人しくなっているアーサーを胸の位置に抱き直した。
「アーサー。景色以外は、相手に了解を貰ってからでないと、写真を撮ってはいけないよ。アーサーだって、知らない内に撮られていたら、嫌な気持ちになるだろ?」
「芸術の為であっても、ですか?」
「そうだよ。例え芸術の為でも、駄目だよ。
本人に、嫌な思いをさせてしまっている時点で
それは、芸術とは言えないよ。」
「でもッ!それでは、あんなに素敵な瞬間を収める事は出来ません!」
確かに、今のは良い写真だったがダメなものは、ダメだ。
「アーサーが素敵だと思った瞬間は、シューイチがリラックスしている時だったからだろう?それは、シューイチがアーサーに心を許しているからなのだよ。」
口を尖らせて一生懸命に考えているのがわかる。
シューイチに頭をクシャクシャと優しく撫でられると、アーサーは恥ずかしそうに両手で頭を押さえ、シューイチを見つめ、残念そうに約束してくれた。
「わかりました。もう黙っては、撮りません。シューイチ。ごめんなさい。」
ん?ちょっと待てよ。『もう』と言ったよな?コレだけでは無いのか?
「他のも、見せてくれるかな?」と、アーサーに鎌をかけると、シューイチの表情が変わった。
「何やと?」
アーサーは、シューイチからスマホを受け取ると、小さな指で密かに纏めていた部分を開いて見せてくれた。コレは流石に気づかないな。
「オマッ!いつの間にフォルダー作っとったんや!」
シューイチに片手で、可愛い両頬をプニプニされると、アーサーは嬉しそうにシューイチの腕を両手で掴み白状した。
「マモル!マモルがメモリー無くなるから、シューイチので遊んどけって。撮ったらコッチに、まとめとけって、それで、、、、、それで、、、、、」
ゴニョゴニョ言っている。
可愛いな。
「あのアッホ。」そう言いながら、シューイチが指で画面を動かすと、驚くほどズラリと画像が並んでいる。
これは、暫くかかりそうだ。
「シューイチ、その格好は、侍女たちに見られると、少々 刺激が強すぎます。部屋へ戻りましょう。」と声をかけた。
シューイチは、オゥ、と言う顔をして「せやな。」と言い、三人でお義父さんとシューイチの部屋へ戻った。
シューイチを真ん中に、ベッドに腰を下ろし、よからぬ姿が写っていないか、一枚ずつチェックしていった。
アーサーは、シューイチの腕を両手で握り、消されまいと必死に弁明している。
「あっ!それは昼寝の時です。眠っているだけで!」
「見たら、わかるっちゅーねん。」
ララは、耳の長いうさぎさんのぬいぐるみを
アリアは、小さなキリンさんのぬいぐるみを手に、二人並んで眠っている。
キリンさんのぬいぐるみは、天王寺動物園で買って貰ったアリアのお気に入りだ。
駐車場に近い出口が、土産物売り場を通らないと、帰れない構造になっていたらしく、アリアが一目惚れして、お義父さんに買って貰ったそうだ。寝る時もキリンさんのぬいぐるみは一緒で、とても大切にしている。
そうだね。動物園に行った時に撮って貰っていた動画でも、アリアはとても興奮して嬉しそうに、キリンさんへ餌をあげていた。
ガラス越しに、水中のカバさんを見た時は、色合いと大きさが怖かったようで、抱っこしてくれていたお義父さんの胸に、顔を埋めて見ないようにしていたので、とても対照的な反応をしていた。
お昼寝をする二人のすぐ側で、エマは、ジューシローと将棋を指している。
マモルが湯船に浸かり、両腕を縁にかけ、気持ち良さそうに、目を閉じている上半身の写真も残っていた。均等のとれた筋肉だ。
「コレは、顔!顔です!!」
メリル温泉の広告画に、使いたいほどの良い一枚だ。
お義父さんの、胡座の上にチョコンと座り、テーブルの上で塗り絵をしているアリアの姿も可愛い。お義父さんは、黒いリモコンを手にしているので、TVを見ているのだろう。
非番の昼下がりかな?マモルが横向きに寝転びTVを見ている周りで、エマとララが眠っている写真の説明には、笑ってしまった。
「おままごとです。」
「昼寝ではないのか?」
「マモルは、おままごとを速攻で終わらせるために、『酒や!酒!酒 持って来い!』と、言って、エマがお酒に見立てたお水をコップに入れて持って来ると、それを一気に飲み干し、TVを点けたままゴロンとして、寝るフリをするのです。」
乱暴だな。
「エマは、起こさないのか?」
「マモルが、起きないのです。エマが『働かざる者、食うべからずやで!』と言って、身体を揺すっても、『酒や酒ぇ…酒持って来い…ムニャムニャ』と、寝言みたいに言って、エマが諦めるまで、起きません。
『もおー!TV見いひんねやったら消してって、いっつも言うてるやん!』って所までがセットです。
で、その後は、根負けして、エマもララも釣られて寝落ちします。
あとは、日曜日の競馬の時間は、TVの争奪戦が始まります。」
「競馬?」
「走る馬の着順を予想して、お金を賭けると言う、とんでもない趣味ですよ、父上。中継を見たいマモルと、朝に録画したアニメを見たいエマとララ。カチ合うと本当に大変でした。ユリさんとユキさんが、横で通訳をしながらで無いと言葉がわからないので、手があくのがどうしても三時頃になるのです。
『馬なんか、そこら辺でいくらでも見れるやんか!』
『アホぬかせ!馬なんか走っとるか!こっちは車じゃ!』って、言い合いしてました。」
確かに、あちらの世界では、馬を一度も見ていない。
ハハハ…子供達とマモルのやり取りが目に浮かぶよ…
「飲む、打つ、買うの『打つ』です。でも、時間が近づくと、ララが泣きそうになるので、マモルはスマホで公式サイトから見て、エマとララがTVを使ってました。マモルがそんな調子なので、おままごとで、シューイチかヒカルが居れば『貴方とは離縁します!』と、言って、マモルを捨てて、新しいおままごとを始めてました。」
可愛いな。「マモルはフラれてしまうのか?」フフッと喉の奥から自然と笑いが込み上げて来る。
「『ゴミの日やから』と、大きなゴミ袋に、マモルの足を入れると『回収業者さんに、声かけてくるわ!』と言って、捨てるのです。」
ハハハハ。そうだった。レクサスがそんな事を言っていたな。マモルは、何度も捨てられたわけか。
だが、俺はマモルが博打をする姿を一度も見たことが無い。
イチコの家族に、その様な趣味があるとも聞いた事が無かった。恐らく『賭け事をする男』も、マモルの教育だったのだろう。
なぜなら、ハルの家にはTVが何台も有ったからだ。
つまり、TVを取り合う必要が、そもそも無かったはずた。
シューイチは、小さなため息を吐きながら教えてくれた。
「笑い事ちゃうぞ、その後が大変なんや。ゴミ回収業者の役をやらされた後、いつの間にか、殺人事件のドラマ仕立てに、付き合わされんねんからな。凶器が猫の餌やぞ。わかる訳ないやんけ。」大変だったのだな。
「またたび殺人事件です。父上。」
ハハハハ。「終わる気がしないな。」
「ほんま、それやぞ。アリアのお散歩の付き添いに出遅れると、もろ罰ゲームみたいな子守りしか残ってへんねや。」
「アリアは、TVよりお外が好きで、マリーと毎日お散歩に出かけてました。」ハハハハ。アリアの可愛いおてんばが霞んでしまうほど、エマとララは強烈なのだな。
次の一枚は、レイがアリアとララに囲まれて、エマとオセロをしてくれていた。アリアの隣には、レイを見つめるソフィア。向かいには、ソフィア達を嬉しそうに見つめるアン。更に、そのアンの横顔を愛おしそうに見つめるノア。恋と友情、愛にあふれたとても優しい日常の一コマを写していた。
アーサーの写す一枚は、見る人に豊かな人生を訴える力がある。
手や足が、ボヤけている数枚は、ダンスの練習風景だった。これは、懐かしい。その場所は、俺たちが寝泊まりしていた離れだ。
「アルらが、この離れの床板も張り替えとってくれたから、ちょーど良かったんや。エマらが、ドンドンしても怒られへんし、本当助かったわ。」と、言ってくれた。
そう言えば、ユキさんが、窓越しに会いに来たオルガ、ベルンハルト、リアム、ゲルト、ヨハン、カイル、ラルフ、ヴォルフガング、レオン、ルイスに、
「綺麗に張り替えてくれたでしょ?それでね、あのあと近所のちょっとした集まりの時に利用したり、町内の地蔵盆の時にも休憩所として使ってるのよ。本当、ありがとうね。」と、お礼を言ってくれていたとヨハンが嬉しそうに言っていた。
ちなみに、飲む、打つ、買うの『買う』は、必要の無い玩具やお菓子を買い、散財をする事だと理解している様だった。
アリアの大量のお菓子やお絵描き帳、何冊も有る塗り絵や絵本だな。
俺がイチコに『4ビーのダメ男』を教えてもらった様に、レクサスもハルから、『飲む、打つ、買う』の本当の意味を聞いたのだろう。レクサスの説明での『買う』は、性風俗の事だったからだ。
お義父さんとシューイチとマモルが、タバコをやめたと知って、俺もイチコも驚いた。子供達が一気に増え、万が一の火傷と、受動喫煙を考慮して決断したと言っていた。受動喫煙とはタバコから出てくる煙や吐き出された煙を吸ってしまう事だそうだ。
マリーが来てからは、家の中を完全禁煙にし、庭先で吸ってくれていたそうなのだが、アーサーとアリアが来て、それでは済まなくなったそうだ。
「手に火ぃ持っとんのに、探しに来ては、チョロチョロしよるし危ないんや。」と、言っていた。
本数も減っていたので、
「まあ、しゃーない。タバコやめるか。」と、なったらしい。強面のお義父さんが、時々、飴を口にしている理由は、それだったのか。
なるほど、そうだろうな。いきなり子供が四人と、食べ盛りのノアや、元気すぎて少し落ち着きの無いアン、病気のソフィアと、成人男性のレイ。レイも、あちらの世界では、何かと学んでいたようだが、時間をつくっては、子供達の相手をしてくれていたようだ。
それでも、合計八人も人が増えれば、忙しくなるはずだ。ユリアの家の買い出しは、マモルが率先して、引き受けてくれていた様なので、目が回る忙しさだっただろう。
アーサーには、カメラ機能の撮影方法と保存の知識を与え、一人遊びを覚えさせていたようだ。アリアの塗り絵も、しかり。子供の性格に会わせて、好きな遊びで楽しませてくれていた。
本当に、ありがたいことだ。
やわらかな日差しの中、寝起き姿のマモルの胸に抱かれて眠るアリアの寝顔も写っていた。アリアの頬には、涙の跡がある。泣き疲れたのだな。
ヒカルが言っていた、いつかの朝なのだろう。
ぬくもりが伝わる一枚だ。
シューイチは、子供達がお世話になっていた間は、実家に戻ってくれていた様で、その写真では、奥でネクタイを締めるシューイチの姿が写っていた。
アーサーの解説を聞き、三人で時折り笑いながら、画像を一通り見終わった。
思っていたよりも、他によからぬ物が写っている画像は、特に無かった。
やはりアーサーは、撮るのが上手い。対象者がポーズをとっている物も数枚あったが、日常の何気ない一瞬を切り取った場面が多く、そのどれもが愛と幸せに満ちていた。
「戻ったらプリントして、DNAの結果と一緒に持って来るよーにしとくか。」とシューイチが言ってくれた。
アーサーは、とても嬉しそうに「シューイチありがとう!」と、はじける笑顔で言っていた。
勿論 俺も礼を言った。
ハルの父上ジュンイチローと、お義父さん達から提案していただいたのは、
「保護した子供達の事を最優先に考えよう。」と、言う事だった。
子供達に深刻な症状が現れない限り、こちらの世界で三週間を過ごし、血液を採取してからあちらの世界へ一旦戻る。
もし、それよりも早く落雷で戻ってしまった場合は、ハルに採血してもらい、採血管を持ってウィルか俺が行く事にした。
天気が持てば隔離期間終了後、隣国の現場検証とセタースのボスに会い、指紋とDNAを採取する予定だ。
男が口を割らずにいると聞いて、お義父さんとシューイチは、
「やり方が甘すぎんのとちゃうか?大きいお友達と仲良ぉなるやり方っちゅうもんが有るやろ。」
「可愛がりが足らんのちゃうか。」と、少々怪しい言葉をレイに言っていた。
不安だ。
エマとララは、ユリアの孫、ハルの娘なので、ユリアにとっては曽孫にあたる。
アーサーとアリアは、ユリアの兄から続く、直系の子孫である俺の子供だが、感覚的には、甥っ子の子ども、又甥、又姪の様に感じていた様で、エマとララ同様に、とても可愛がってくれていたそうだ。
ユリアは、「アルベルトもだけれど、アーサーも、お父様とお兄様達に、とても良く似ているわ。」と言って、少し涙ぐみながら喜んでいたと、シューイチが教えてくれた。
「ユリさん、ふとした時にアーサーを通じて、家族の面影を見ている時が何度もあったぞ。」と、シューイチが教えてくれ、胸が熱くなった。
エマとララが、賑やかすぎるので、アリアの大人しい遊びで、「アリアは、天使ね。」と、良く休息していたらしい。同じぬいぐるみ遊びでも、アリアはお話し相手や、お茶会ごっこがメインで、お友達のように大切に扱っているが、エマとララは、何故か決まって、ぬいぐるみが誘拐されてしまい、救わなければならず、探すのが大変なのだと言っていた。
どうやら、刑事ごっこに夢中になった様だ。
エマとララのぬいぐるみが、何度も洗われてしまう理由は、それだったのか。アリアのぬいぐるみと比べると、すでに若干 型崩れを起こし、へたっている。
こちらの世界に戻ってからも、ゆいぐるみの扱いは、変わらない。
「ママー!目ぇぶらん ぶらん なったー!」エマがハルに持って行く姿を見ながら「ホラーですね。父上。」と、アーサーが言うので笑ってしまった。
とにかく、最近の息子を見て、一つだけ確信したことがある。アーサーが、小さな可愛いマモル仕様になって、戻って来たと言う事だ。
我々の世界で、天気を予報するのは不可能だ。
そして、十五日目の最後となる検査も、全員が陰性だった。
雷雨が起きる前に、ヒカルから話しの有った、ユキさんたっての希望を叶える事にした。
安全の為に、人目を避ける事にした。
ソフィア、アン、ノアの家族にも、前日から城に泊まる様に呼び寄せ、他者の好奇の目に晒される事なく夜明け前に家に帰れる様にした。
わずかに東の空が白むころ、細く線を引いた様に広がる雲が美しかった。ソフィア、アン、ノアは、それぞれ迎えに来ていた家族と、家へ戻って行った。
レイも警護で前乗りしてもらっていたフィン総長達と帰国して行った。お義父さんとシューイチが、殺人の現場検証と、今回の犯人であるジュールならびにセタースのボスの取り調べを『ほんの少し』行う調整の為だ。
早朝の検査の間は頑張って起きていたが、結果が出る頃にはアーサーもアリアも眠ってしまった。
一緒に行きたいと言って昨晩から楽しみにしていたが、余りにぐっすり眠っているので、イチコへ任せる事にした。
「ずっと、甘えたいんを我慢しとったから、イチコのベッドに寝かせとったら、置き去りにされたと分かっても、泣きよらへんやろ。」
お義父さんが、そう言ってくれたので、イチコの待つベッドへ子供達を運び、「すまない。遅くとも二時間後には戻るよ。」と、イチコに頼み、出かける事にした。
エマは、レクサスに抱き上げられても、ぐっすり眠っていたが、ララは、ハルの腕の中で少しグズってしまった。
「お家に、ちょっと荷物取りに帰るだけやから、ねんねしてて良いよー。」と、ハルが言うと、直ぐに眠ったので、静まり返った街を馬車で移動した。街が起きる前の、澄み切った、ほんのり青いこの感じが好きだ。
レクサスとハルの屋敷や、リチャードとアレクシスの『お家巡り』に、ニ台の馬車で連なって出かけた。本当に、それだけで良いのかとも思ったのだが、思いのほか、ユキさんは、ご機嫌にされていた。
馬車の窓を少し開け、食い入る様に外を眺めている。
「まぁー!素敵!ねぇ、見て、見て、あなた。まるで外国に来たみたいだわ。」
夏でも、日が昇りきるまでは、気温がグッと下がっているので、話すユキさんの息が、白くなって消えていく。
「外国と言うより、別世界だけどね。」ジュンイチローの答えに少し笑ってしまった。
「もうッ。分かってますよ。アッ!あれは?ねえ、あれは家なの?あ!お店って書いてあるわ!ほんとに素敵な街並みねぇ。」
ハァーと、うっとりする様なため息をついて
「まるで、おとぎの国みたい。」と言っている姿は、少女のようだ。
「おとぎの国と言うより、別世界だけどね。」
ハルの父上は、容赦ないな。
「もうっ。分かってるわよ。ねぇ、本当ちゃんと見てるの?」
「ハハッ。大丈夫。ちゃんと見てるし聞いてるよ。」
お二人は、本当に仲が良い。
パン屋、魚屋、肉屋、鞄屋、靴屋、服屋、野菜、果物、ハーブの店、馬具、日用品、流れる景色に合わせて、ジュンイチローに説明をした。
そうだな、我が国では、識字率が高いので、店の看板には、取り扱っている商品の絵が描かれている店と、文字だけの店が有るが、国外からの旅行客の為に、絵でも理解できる様に、全ての店で取り扱っている商品が分かるようにマークを決めて表示した方が良いな。
午後からにでも、商業組合に提案してみよう。
馬車だと、移動はすぐに終わってしまう。
まずは、リチャードの家に着いた。
リリーとは何度か窓越しにやり取りはしていた様だが、リチャードとリリーの家に着くなり、ユキさんのテンションは、更に上がってしまった様だ。
「お馬さんと一緒に住んでるなんて、凄いわ!ねぇ、あなた。月光って、お名前なんですって!一緒に撮って!」
「家では、飼えんな。」と、ジュンイチローが言いながら、スマホで写真を撮ってあげている。
「散歩が大変そうだね。」と、ヒカルが淡々と言った。
「ねぇ、リリー。リリーも乗馬をするの?」と、ユキさんが目を輝かせて、リリーに聞いている。
「私は、馬車で引いて貰ってでしか無理です。高いのが怖くて、背中にはリチャードと一緒に、一度だけ乗せて貰いましたけど、とても高すぎて、目が回ってしまったの。」リリーは、月光を撫でながら答えていた。
「とても大人しい馬なので大丈夫ですよ。どうぞ撫でてあげてください。」リチャードに促されたユキさんは、とても嬉しそうに、けれど初めの一撫では少し慎重に「嫌がらないかしら。」と言いながら「初めまして。」と、そっと優しく馬に話しかけながら触れた。
「これだけ大きいんですもの。そうよね。ねえ、お馬さんって、皆 お顔が、大きいのね。目も綺麗。まつ毛が長くて、羨ましいわ。」と、本当に楽しそうに話しながら、リリーと「くすぐったいわ」と、笑いながら、馬に飴をいくつかあげていた。
「馬だけに」と、ジュンイチローが言うと
「馬面やな」と、お義父さんが言った。
「匂いも馬っぽいな。」
「馬やからやろ。」お二人の会話が可笑しい。
月光に夢中なユキさんには、聞こえていない。
シューイチと目が合うと
「チョイチョイ挟んで来よる。」と、変な表現で、俺に説明をするので、吹き出しそうになった。
家の中も見せてくれた。
「このお揃いのマグカップが、言っていた最初の日の思い出のマグカップです。」
「まぁ。素敵ね!」
これは、リチャードが恥ずかしそうにしていた。
初めて見るリチャードの表情だったので、コレは残しておきたい。
シューイチに頼んで何枚か撮ってもらった。
次のアレクシスの家には、サラも来てくれていた。
彼女のおかげだろう。リチャードの家と同じ様に、生活感があり、とても温かみのある内装になっていた。
男の一人暮らしなら、もっと殺風景になっていただろう。
リチャードもアレクシスも、充実した生活を送れている様だ。
アレクシスの愛馬は、漆黒の雄馬で、名はあちらの世界の言葉で、流れ星の意味の単語で、リュウセイだと紹介してくれた。
気性の激しい馬だったそうで、殺傷分を検討されていると知り、アレクシスが買い取ったと言っていた。
当初の名は、ディアドラだったが、サラが新しい名を何日もかけて考え、名付けたと教えてくれた。
ユキさんが「漢字では、こう書くの。」と、紙に『流星』と、書いて教えてくれた。星が輝きながら夜空を流れる情景をこの文字から感じると言う。俺は、彼らの言語の、この様な不思議なところが好きだ。
流れ星だけでなく、その空全体をも同時に感じるからだ。
サラが、「リュウセイ」と呼ぶと、馬は首を縦に振ってサラに答える。不思議な事に、飼い主のアレクシスが呼んでも、無反応だ。
「馬には、アッくんの魅力も、効かへんかー。」
「サラに、負けとるやんけ。」と、言われて、アレクシスが、「雄ですからね。世話をしていても、こんなものですよ。」と少し寂しそうに言うので、皆で笑ってしまった。
アレクシスが、あちらの世界の言葉で「アッくん」と、呼ばれている事に驚いた。
事情を聞くと、ハルが「名前、絶対 間違えたらアカンから、『ア』だけになった。」と、教えてくれた。
なるほど。かなり省略されてしまったのか。
やはり、ここでも何枚も撮影して、ユキさんはとても嬉しそうにしていた。
最後の目的地、レクサスとハルの屋敷に着いた。
エマとララは、目が覚めた様で
「おばーちゃーん!ただいまー。」
「ただいまー!おじーちゃん、寂しかったー?」と、
駆け寄って抱いて貰っていた。
そして皆で、ルカを代わる代わるに抱いた。
この時ばかりは、穏やかに時が過ぎて行った。
「ルカを抱けるとは思わなんだな。」ジュンイチローが、しみじみとルカの重みを幸せそうに噛み締めていた。
「ルカ。おばあちゃんですよー。」ジュンイチローに抱かれるルカの、小さな手をユキさんが優しく握ると、ルカは上手に抱っこの移動を始めた。ジュンイチローからユキさんへ、そしてお義父さんにも抱いてくれと手を伸ばして移動した。
「足、デカいのー。この子は、レクサスみたいに大きなんのちゃうか?」お義父さんが、ルカを抱きながら、足を手のひらに乗せ「ほれ」っと言った。
そうだな、男の赤ちゃんは、女の赤ちゃんよりも一回り大きい。それでも、レクサスの息子のルカは、アーサーの赤ちゃんの時より、骨格がしっかりしていて、大きいと感じた。
「そのうち、シンでも見下ろされて、『オッチャーン。ゼロパト乗せてー。』言われんちゃうか?」と、ジュンイチローが言うと、お義父さんが笑った。
「そんなん言うとったら、ホンマに飛ばされて来よんぞ。」
………『あり得るな。』……その場に居た全員の心の声が聞こえた気がした。
「シャレならんな。川は危険や。レクサス。この子もアーサー並みには泳げる様に、しとってくれよ。」と、ジュンイチローは真顔で言っていた。
ルカは、大人しく、順番に抱っこ移動をしていたが、朝が早すぎたので、最後 ハルに抱かれると、途端に眠ってしまった。
「ハル、重いだろう?変わるよ。」と、レクサスが言っても、ハルは「大丈夫。」と、言って変わろうとしなかった。レクサスが一瞬 残念そうな顔をすると、
「ウッソ。冗談やって、はい。ありがとー。」と、レクサスに変わって貰っていた。
車が無ければ、レクサスの屋敷で、数日過ごす事も考えたが、あちらの世界の乗り物を人目に晒すには、流石に刺激が強すぎる。かと言って、車から離れて過ごせば、乗り物は置き去りになってしまう。
何よりも安全の為に、次の雨までは、ジュンイチローとユキさんも引き続き城に滞在して貰う事にした。
せっかくなので、レクサスとハル、子供達も一緒にだ。
レクサスとハルは、バタバタと、家族の着慣れた服や靴、必要な物などを鞄に詰めて、馬車へと乗せた。
「えーーーー。靴、こっちのが履きやすい。」
「何で、あかんの?ねーねー。何でー?」
エマもララも、ハルとレクサスに、まとわりついていた。
そうだね。スニーカーは軽くて、とても動きやすい。それに、夜になると緑色に光る寝衣も可愛いが、他の人から見ると、とても不思議な物なので、人目につく場所で身に付けるのは、少しばかり危険だ。
「アル?」
考え事をしてしまっていた。
「あ、はい。すみません。聞いていませんでした。」
「シンの財布に入れとった、イチコちゃんの生まれた日の写真は消えてへんかったんやてな。シューイチくんやマモルくんのスマホの画像も残っとる言うしや。身体と一緒に、あっちこっち移動したからなんかは、知らんけど。」そう言って、ジュンイチローは、スマホのカメラで、レクサスのご両親や皆と、何枚か写真を撮りたいと仰った。確かにここは外せないだろう。
「問題ないですよ。説明してきます。」
「先に教えとってくれたら、良えカメラと、ビデオカメラを持って来たんやが、シンの奴、恥ずかしがって黙っとったんや。アルも見たんやろ?」
「はい…。」そこまで、気が回らなかった。言われてみればそうだ。ハルやイチコの写真や物は全て消えたと聞いていた。だが、たった一枚。生まれた日に撮影されたイチコの写真だけは、お義父さんと一緒に、二つの世界を移動した為か、消えなかったようだ。マモルやシューイチのスマホに、画像データが残っていたのも同じ理由からだろう。
「ハル。お城までの道も撮りましょう。」
「ホンマや。おばあちゃんも、お城以外の街並みとか見ても懐かしーって、喜んでくれるかな?」ハルが嬉しそうに話す姿を見ながら、想いに耽っていた。
ユリアが、たった一度だけ戻れたのは、最後の一回が残っていたからだ。
ハルも同じだった。腕時計のダイヤで移動する事は無かったが、ソフィアは移動できたからだ。
城に戻り、朝食を済ませると、予定通りお義父さんとシューイチは、騎士達と共に隣国へ向け出立した。
検査キットは、以前にマモルの置いて行った鞄の物を
持って行った。
「尋問で、殴る蹴るは認められていません。」
「大丈夫や。良〜 分かっとる。」
「心配無いよ。」
いえ、不安しかありませんよ…言葉を呑み込み
「お気をつけて。」と、見送った。
お読みいただき有難うございます。




