中5
向かったのは、つい先日、アンジェが亡くなった部屋だった。
ドアの前で、思わず足が止まる。仕事の勢いに押され、幾分か和らいだ痛み。それでも、手の中で失っていく温もりは。固まった、気遣いの笑みは。ずっと、僕の心に貼りついている。
決して剥がれることのない、ウォッチメイカーに殺された人々の記憶が、幾重にも、幾百重にも、僕の心を包んでいる。
「メルン君は、このようなやり方は好まないかもしれんな」
「何をするつもりですか?」
「彼女の死を利用する。我々は、事故死したニューロンドン市民を悼みに来たのだ」
ああ。そういう名目があったのか。
確かに好きじゃない。アンジェの死を利用するのは、罪を塗り重ねるような気がする。これ以上、彼女をニューロンドン市の事情に巻き込まないでやってくれと、そう思う。
けれど、いいんだ。
ごめん。これ以上、アンジェのような犠牲を増やさないために、僕が進むために、君の死を利用させてくれ。
「……構いません。入りましょう」
ドアが開いた。
出迎えたのは、アンジェのときとは別の技術員だった。
「おや、ベルトマンさんではありませんか。どうされましたか?」
人のよさそうな笑みを浮かべる中年の男性。これから、ここで大事故が引き起こされるなんて予想していない様子だ。
「先日、ここで我々時計管理局の手違いにより、寿命の売却に協力してくれた、一九歳の女性が死亡した。彼女の死の弔いに来た」
「ああ。聞いております。ニューロンドン市民が犠牲になる、悲しい事故でしたね」
痛ましそうな顔をする技術員。
その様子に、どことなく釈然としないものを感じる。
彼は、優しいのだろう。ここで亡くなった、顔も知らないアンジェに深く同情している。でも、彼は技術員だ。他の地方都市の子どもたちが、家族が、丸ごと時間エネルギーに換えられる作業を目にしているはず。
きっと。優しく。そして、差別的だ。
「そこで、息を引き取ったのだ。彼女の眠りが安らかであることを……バックル? どうした?」
歯を食いしばって唸るバックルの口元から、蒸気が漏れる。離れていても、肌にじんわりと感じる熱。撃つ気だ。
「いかん、武装の暴走を起こしている。離れろ!」
「え、え、え」
パニックを起こしている技術員の腕を引いた。
「伏せて!」
全員で床に伏せ、頭を抱える。
青白い光が迸った。吹き抜ける熱波と、耳を震わせる轟音。合成樹脂の建材が、温度差で軋む金切り声。
熱と破壊の余韻が空気を踊る中で、音だけが消えていく。砲撃が、終わった。
耐熱性の素材すら粉砕され、白煙をたなびかせている。その奥で、ごく一部分だけが焼かれた機材が見えた。完璧な壊し方だ。
「な、なにが起きたんですか?」
「武装の暴発だ」
理解不能。という様子の技術員に、ベルトマンが吐き捨てる。
「上の者を呼ぶ。ウェッソン一席に連絡する。メルン君と君は医務室に行き、怪我が無いか確認してきてくれ。メルン君。連れて行ってやってくれ」
「はい」
口から白煙をたなびかせるバックル。そのふらふらとした様子に不安を覚えながらも、頷く。
まだ混乱の極致で、腰が抜けている技術員に肩を貸して、医務室に運ぶ。技術員に怪我はなく、僕は破片がかすって少しだけ頬を切っていた。ちょっとにじむ血を拭えばいい程度のものだ。
技術員はウェッソン一席とやらに、状況の説明のために呼ばれ、立ち去って行った。僕は帰宅していいらしい。
自分の部屋に帰る。ベッドに腰をかけ、両ももに肘をついた。
「一気にいろんなことが起きたね……」
僕の正面に座ったハームが顔を洗うように手でこすりながら「ふうん」と気のない返事をする。
「どうしたんだよ」
「ベルトマン、焦ってたわ」
「焦ってた?」
「そう。彼にしては、性急に動き過ぎているように見える。何かが彼を追い詰めているんじゃないかしら」
「確かに?」
「彼のこれまでの様子から考えれば、こんな短期間で人を信用して、処分を受ける可能性がある計画に加えないはずよ。それに、計画に加えるにしても、もう少し丁寧に打ち合わせする時間をとるはず。こんな不確定要素が残りすぎている状態で動くなんて、あり得ないことよ」
言われてみればその通りだ。
ベルトマンを理解しているわけではないけど。今日の彼は、らしくない。
「何が起きているのかしら」
「情報が足りないよ」
「ベルトマンの計画に乗れば、それは見えてくることなのかしら。不安しかないわ」
「それは……そうだね。ただ、ベルトマンに何が見えているのかを理解する必要はあると思う。こんな大掛かりなことをしているんだ。きっと、ベルトマンは何かしらの確信を得ている」
糸口はまず、このベルトマンから渡された端末とデータにあるはずだ。
彼の目に見えている、ニューロンドン市で蠢き始めた不穏の一角が、埋もれている。
思い出してみれば、わかりやすく異変は起きていた。
列車の襲撃。アンジェの死。
普段であればあり得ないことだ。それが、僕が関わっている限りでも、二つ起きている。
「アンジェの死にも関わっていることなら……」
「あの部屋の機材からログを抜くってことは、関わっているかもしれないわね」
「もし、アンジェの死が人為的なものなら、暗躍している人間を止めないと」
端末を開いた。時計管理局のデータベースにアクセスする。
各ウォッチメイカーが送った膨大な報告と、データの巨大な数値の海を往復し、照らし合わせていく。頭が痛くなるような作業だ。
異常は、見当たらない?
データベースには異常はない。それ単体で見れば、異常はない。
「……は?」
「何が見つかったの?」
「異常なしなんだ」
「それが普通でしょ?」
「違うんだ」
ウォッチメイカーが報告した異常が、なかったことにされている。
「異常は、あってしかるべきなんだ。なくちゃいけない異常が、ないんだ」
「誰かがもみ消している?」
「間違いない。このデータに触れることが出来る人間が、操作している」
「どういう方向性で操作されているの?」
僕が送った報告を見返す。
確かに、送っている。中華第一都市の、時間エネルギーの減りが早いと。だから、次回の補充では多めの時間エネルギーが用意されるはずなのに。データにあるのは、減少量の予測値ぴったりの数字。僕の報告がなかったことにされている。
「時間エネルギーの消費量を、少なく記している」
まて。
時間エネルギーの消費量が多いってどういうことだよ。
そもそも、僕の前に補充された時間エネルギーが少なかったんじゃないか?
前回のデータにも異常はない。異常はないけれど。
「信じられないな……このデータ、何が本当で何が嘘なのかわからない……」
「そんなにいじられているの?」
「操作されていることは確かなんだよ。ただ、全てのデータが、異常なしにされているから、一体どの段階で、どのデータが操作されたのかわからなくなっているんだよ」
こんなデータを作って得をするのは誰なんだ。
誰が、どんな目的で操作をした?
数字と、現実の差を見ろ。
単純に僕の報告だけを見れば、時間エネルギーの消費量を抑えるような操作になっている。これだけならば、ニューロンドン市のやり方に反対する者がやったように見える。
けど、僕の前のウォッチメイカーが、補充する時間エネルギーの量を誤魔化したんだと考えたら。
消えた。何者かが盗んだ、時間エネルギーがある。
時間エネルギーを掠め取っている者がいる。




