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中3

 翌日。ベルトマンの様子はいたって落ち着いたものだった。挨拶をして、彼が落としたタバコを差し出す。


「昨日、フロートカーを降りたとき、これを落とされましたよね?」

「ああ。拾ってくれたのか。感謝する」

「いえいえ」


 ちらりとパッケージに目を落とし、何事もなかったように受け取り、内ポケットの奥にねじ込んだ。普段入れているのは胸ポケットだった気がする。落としにくい方に入れたのだろう。

 そのタバコが依存性のある薬物であることについては、触れないでおく。というか、この話題には触れないようにしよう。藪をつついて蛇を出したくない。


「喫煙所に行ってくる。昨日から吸っていないものでね。失礼する」


 そう言って、ベルトマンらしからぬ重たい足取りで、休憩室に行こうとする。


「ご一緒しますか?」

「非喫煙者にタバコは害にしかならん。外で待っていてくれたまえ」

「はい」


 まあ、そう返すだろうことはわかっていた。

 ただ、一つだけ意外なことがあった。危険な物質を含んだタバコなのに、喫煙室にバックルを連れて行っているのだ。どうも、らしくない感じがする。


「メルン君。そこには君しかいないかね?」


 ドアの奥からベルトマンの声がした。


「ええ。あとハームだけです」

「よろしい。では、今日の予定を送る。他の者に見られないように注意したまえ」

「はい」


 どうやら機密性のある仕事らしい。

 左右を確認するが、廊下に人の気配はない。ファイルを開く。


「えーと……これが、本当に今日の仕事なのですか?」


 この仕事は、どうもおかしい?

 ウォッチメイカーの職分ではない気がする。

 休憩室のドアが開き、甘い香りを纏ったベルトマンが出てきた。相変わらずやつれた顔のバックルが、険しい目つきで廊下を窺う。


「バックルは右を、ハームは左を見張れ。さて、メルン君。今日は正式には仕事の命令は来ていない。言うなれば、出勤待機だ。これは、私からメルン君への個人的な依頼のようなものだ。メルン君には断る権利がある」

「それは……冗談ですよね?」


 僕の目をじっと見返すベルトマンの表情は、いたって真剣なものだ。


「メルン君は、一つ殻を破った。私は、資格を得たのだと考えている。ただ、進めばもう引き返すことは叶わない」

「進むって、どういうことですか。引き返せないというのは……?」


 ファイルに書かれている内容は、ウォッチメイカーとしては違和感を覚えるものだが、決して変なものではない。ただ、もう少し上の階級の者がするようなもの、というだけ。

 ただ、なんだ。この不吉な言い方は。この作業に、どんな秘密が隠されているんだ。

 それに、殻を破ったってどういう意味なんだ? 全く心当たりがない。資格を得たという言い回しも変だ。


「やることはわかりました。けど、これじゃあ理解できないことだらけですよ。言っている意味が全然わかりません!」

「それは、これまでのメルン君の視野が狭かったからだ。視野は、つい昨日から広がり始めたはずだ。考えたまえ。考えることをやめるな。思考停止した者から、命を落としていく。世界は今、変革に向けて蠢き始めている」

「ベルトマンさん、急にどうしたっていうんですか……?」


 世界は今、変革に向けて蠢き始めている?

 視野が広がり始めた?

 考えろって?

 考えている。考えているさ。いきなり、なんでこんなことを言い始めたんだ? 変なタバコ吸って頭おかしくなったのか? いや、見た目でしか判断できないけれど、ベルトマンの様子はいたって落ち着いている。薬がキマっている感じはしない。


 僕の視野が狭かったから。考えていなかったから、見落とし始めていたこと?

 なんだ、それは。このファイルの内容に関係があること?


「この……この、ファイルに書かれている『依頼』を僕が実行……ベルトマンさんと協力して行ったとして……。ベルトマンさんは、どのような結果が出ると考えているんですか?」

「私は『異常なし』という結果が出ると考えている」

「異常なしって、普通じゃないですか! そんな予想を立てているのに、なんで危険を冒すような言い回しをするんですか」

「大きな声を出すな」


 内容は、時間エネルギーの収支を調べるというだけのこと。

 どこから、どれだけの時間エネルギーを集め、それをどう分配して消費したのか。それを調べるだけのこと。

 常識的に考えて、異常はないに決まっている。そして、異常なしが正しい形だろう。

 わざわざ調べる意味もない。そして、調べただけで引き返せなくなる理由がない。


「何故、貴様はそれだけ私に問う? 何故、それだけ慎重になる? 何故、それだけ知りたがる?」

「ふ、普通のことでしょう……? そんな言い回しをされて、こんな意味の分からないことを手伝わされそうになっているんですよ?」

「果たして、普通のことなのか?」


 まるで初めて出会ったときのように。真上から、蛇の視線がゆっくりと降りてくる。直上から絡みついてくる、値踏みするような、冷徹な空気。

 なんだ。なんなんだ。

 だめだ、思考停止するな。考えろ。ベルトマンは、一体何を言っている。


「貴様は、感じた。不穏の臭いをかぎ取った。その奥にある腐臭が鼻についた。広がり始めた、その視野が。錆が落ち、回転を始めたその脳が。片鱗を拾い始めたのだ。感じ取っているのだろう? この、ニューロンドン市に広がり始めた、沈黙した不安を」


 ベルトマンの手が、僕の頭を掴んだ。締め付けるでもなく、絡めとられる。身動きがとれない。

 ベルトマンの口から、乾いた息が漏れる。それは、背筋を凍らせるくらいの、不思議な艶を持っていた。



「知っているのだろう? 時計管理局は、ウォッチメイカーは、一枚板じゃない」



 声が、出なかった。

 ベルトマンは、僕やサックスの思想を把握している、のか?

 資格を得たというのは、前回の仕事で、僕が寿命を買い取らなかったことを、喜ばなかったから、ベルトマンと同じ側になったと判断されたということなのだろうか。


 もし、仮にそうだとして。

 この時間エネルギーの収支を調べるという行動にどれだけの意味が出てくる?

 誰に利益がある? 誰が損をする? 誰にとって、不都合なんだ?


 ベルトマンがサックスを敵を認識していると考えてみよう。

 サックスの立場で、時間エネルギーの収支を調べられて困ることとは何か。

 サックスはニューロンドン市の搾取の体制に反対している。彼が時間エネルギーに対して出来るアプローチは二つ。回収する時間エネルギーを減らすことと、使用する時間エネルギーを減らすこと。それで犠牲者は減らせる。そうすると、時間エネルギーの収支に綻びが出来る。


 いや、待て。

 ベルトマンは言ったはずだ。「異常なしという結果が出ると考えている」って。

 サックスが時間エネルギーの回収を意図して減らしたりしていれば異常が見つかるはず。それが見つからないとすれば、もっと上の、データを操作や改ざんできる立場の人間に、サックスの協力者がいるということか?


 ダメだ。全部仮定の話でしかない。

 ベルトマンが嘘をついている可能性だってあるんだ。


「視線が右に泳いでいるぞ。随分と論理的な思考をしているようだ」

「っ!?」


 まずい。

 ベルトマンが目の前にいるんだ。考えられる時間も場所も足りなすぎる。


 ここで、協力すると言えば、サックスと敵対する道に進み続けることになるかもしれない。それは嫌だ。

 けれど、協力を拒否した場合、ベルトマンと敵対したまま彼と組まされ続ける可能性もある。


「さて、どうするのだね? メルン君」


 時間が、欲しい。


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