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前7

 とうとう、その時間が来てしまった。

 どう過ごそうと、どんな心構えをしようと、迫りくる時間をかわすことは出来ない。ただ。受け入れることは出来るようになった。

 体から甘いタバコの匂いを漂わせるベルトマンが、それとは不釣り合いな険しい表情をしていても。まっすぐに、歩み寄れる。自ら、「その時」に向かっていける。


「こんにちは」

「どうやら……腹は括ったようだな」

「ええ」


 四人でフロートカーに乗り込んだ。ベルトマンが地を這うような声で言う。


「変な正義感は出さないだろうな?」

「ええ。問題ありません」

「だと良いのだがな」


 そう呟いたベルトマンの声は、どことなく納得がいっていないような。むしろ、がっかりしたような響きを含んでいた。

 アンジェを迎えに上がると、彼女はどこかすっきりした顔をしていた。化粧も彼女自身の美しさを引き立てるだけのナチュラルメイクになっている。髪の毛もショートボブに切られていて、毛先も整えられている。全身が丁寧な奇麗さに彩られていた。


「なんていうか……こう言ったらあれですけど、別人のようですね」

「まあね」


 はにかんでから、ハームとバックルから出来るだけ距離を置くようにして、エレベーターに乗り込む。


「ごめん、動物苦手なのは変わんなかった」

「それは仕方ないですよ。フロートカーに乗って移動しますけど、席は配慮させていただきます」

「ありがとう」


 僕自身が動物好きだから、動物嫌いの人の気持ちはあまり理解できないけれど。これは、仕方のないことだ。

 って、今、なんて言った?


「動物苦手なのは?」

「あー、うん」


 アンジェは照れくさそうに頭を掻いた。少女らしいその所作に、一瞬視線を奪われる。

 エレベーターが一階に着き、フロートカーに移動した。ベルトマン、バックル。向かい合うように、アンジェ、僕、ハームの席順だ。


「いや、なんかね。この前、メルンさんの話聞いてさ。ちょっと、変わってみたいって思ったんだ」


 その言葉に。じんわりと、胸の奥で締め付けていたものが緩められ、解かれた気がした。

 この車が、例えビッグベンに向かうものだとしても、その小さな気持ちの変化に、確かに報われた思いがした。


「変わってみたい、っていうのは?」


 声がかすかに震えた。言葉を出すのに必要なすべてが、ふわふわと浮いているような心地だ。敬語を使う余裕もない。


「なんかさ。考えても、考えても、やっぱり今は何もしたくないっていうか、心が折れたまんまなんだよね。いいんだ、もう。何もかもって。だけど、こうして大きなお金を手にするんだから、きっと、何か出来ることがあるはず。何か出来ることを考えてみようって」

「そっか……。そっか……」


 嬉しさで余裕がなくなるなんて。もしかしたら、初めてかもしれない。あの時、諦めずに声を張り上げて良かった。無駄なんかじゃなかった。命を懸ける価値はあったんだ。


「もらった書類に書いてあったんだけど、寿命を三〇年売っても、あと二〇年は生きられる見込みなんだって。まあ、それくらいが自分にはちょうどいいかなって。二〇年くらいなら、何か頑張れそうな気がする」

「前向きになってくれて、良かった。本当に良かった」

「大げさだね」


 アンジェは苦笑いを浮かべた。

 大げさなんかじゃない。これでも、僕には十分すぎる。ウォッチメイカーという仕事で、初めての成果かもしれない。

 隣から、小さなため息が聞こえた。


「もっと早くに、こういう話が出来る人に会っていれば良かったのかも。あと五年早ければ、何か変わっていたのかな」


 そう言ってから、自分で。


「そんなこと考えても、仕方が無いか」


 と否定した。その一言に込められた意味を考えている僅かな間に、フロートカーが停止した。降りて、ベルトマンが先導する形で時間エネルギーを抽出する設備が置かれた部屋に移動する。

 無機質な廊下に気圧されたのか、アンジェの顔が不安そうだ。そっと隣に並んで歩くと、少しだけ表情が和らいだ。

 表情の変化が、前に会ったときよりも大きい。視線も、心ここに在らずといった遠いものじゃなくて、今、この場所を見つめている。地に足がついている。

 今、この場所で、生きている。


 自動ドアをくぐり、時間エネルギー変換室に入った。

 部屋の中は、三つのブロックに分かれている。まず、入り口に当たる部分。透明な素材の壁で覆われた、時間エネルギーを抽出する部屋。そして、抽出の為の機材を操作するための管制室。

 白衣を身に着けた技術員が、敬礼で僕らを出迎えた。


「事前に伝えてあるはずだが、抽出する時間は三〇年分丁度だ。決してミスの無いように」

「はッ! 承知しております!」


 ベルトマンが厳格な声で、技術員に命じた。

 技術員に、透明な部屋に入るように指示されたアンジェは、少しだけ不安そうな声で呟く。


「透明な部屋で良かったかも……。メルンさんの姿が見えるだけで、少しだけ安心する」

「怖くなりました?」

「いや、大丈夫。行ってきます」

「行ってらっしゃい」


 小さく手を振るアンジェは、年相応の可愛らしさを持っていた。

 管制室に入った技術員がドアを開き、中に入っていくのを見守る。


 ドアが、閉まった。


 安全確認のための声出し確認が行われ、それが終わり。機材が、重たい駆動音で空気を震わせ始めた。

 今、眼前で。まさにこの瞬間、人の寿命がエネルギーに換えられていく。

 不快感とはまた違う、この胃の重さはなんだ。大丈夫だ。彼女自身が納得している、これから前を向いて生きていくための三〇年。これ以上、気に病むことではない。

 僕の気持ちを察したのか、アンジェが気遣うように小さく笑みを浮かべ、僕にまた手を振って見せる。

 自分の方が不安を感じているだろうに。

 それに、手を振り返そうとした。


 した。


 アンジェの動きが、表情が、ぴたりと不自然に固まった。

 どさり。と、何の脈絡もなく、突然に。床に崩れ落ちた。横たわったまま、生気のない笑顔が、僕の足元を眺めている。


「…………え?」


 理解できない。

 アンジェ? あの、目の前で倒れているのは、アンジェなのか?

 倒れた。なんで?

 これって、倒れるようなものだったっけ?

 え、意識なくなるようなものだっけ?


「おい、何が起きたッ!」


 ベルトマンの怒声が聞こえた。彼はかつかつと歩いていき、管制室のドアを蹴った。


「開けろ! 彼女を部屋から出せッ! 早くしないと叩き割るぞッ!」

「は、はい!」


 開いた透明のドアに飛び込んだベルトマンとバックル。

 しばらくアンジェの体に触れていた二人が、顔を見合わせる。その目は大きく見開かれている。


「何故だ! 抽出したのは、本当に三〇年分なのか!? 計器を見せろ!」


 なんで、ベルトマンはあんなに怒鳴っているんだ?

 なあ。ただ、意識を失っただけだろうに。

 自分の体が、自分のものじゃないみたいにふわふわとしている。


「アンジェさん? 大丈夫ですか?」


 歩み寄って、触れた肌は、温かい。

 ほら、ただ意識を失っているだけじゃないか。こんなに温かいんだから。

 意識を失っているだけなんだから……そんな、土気色の顔で、ずっと虚空を見つめないでくれよ。まるで、死んでしまったみたいじゃないか。

 開いたままの瞼を、指先でおろす。瞳孔が開いているんじゃない。もともと、大きな瞳の子だから。

 傷つけないように、抱き起す。


「計器とログを改めさせてもらうぞ!」

「ベルトマンさん、あなたにそこまでの権限はありませんよ!」

「私に、触れるな! 邪魔をするな!」

「ダメです! 管制室に入れさせません!」

「だから、触れるな! くそっ」


 騒がしい。

 そうだ。ベルトマンに訊かないと。


「ベルトマンさん」

「どうした」


 息を荒げたベルトマンに訊ねる。


「どうして……どうして、アンジェさんの体が冷たくなってきたんでしょう? ただ、意識を失っているだけですよね?」


 ベルトマンは深く息を吸い込み。下を向いて、深く吐き出した。それから、僕の腕の中に視線を落として、静かに言った。


「彼女は、息を引き取った。どこかに間違いがあった。残存寿命の算出か、抽出したエネルギー量か、そのどちらかに間違いがあり、彼女はたった今、息を引き取ったのだ」


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