前6
官舎の自室。朽ちることのない、化学物質で作られたものだけが置かれた部屋。閉まったドアに背中を預け、ずるずると床に座り込んだ。
拳で床を叩いた。痛みのわりに、何も、響かない。何も、揺らがない。
頭を抱え込んだ。自分の体に、一枚膜が張られているみたいに。この世界が、遠い気がした。
――救えなかった。届かなかった。
言葉が届く距離にいたのに。話すことができたのに。
彼女の気持ち一つ変えるだけ、それだけで良かったのに。
僕の言葉は、非力だった。無意味だった。
そうだ。僕の考える「正義」なんてものに価値はなかったんだ。ベルトマンが正しかった。そういうことなんだろう。
「メルン?」
弱音を吐いたら。ハームは慰めてくれるんだろう。
言ってしまいたい。弱音を吐きたい。僕が正しいんだよって言いたい。この世界が間違っているんだって叫びたい。同意してほしい。認めて欲しい。優しくされたい。
肯定、して欲しい。
「少しだけ、落ち着く時間が欲しい」
「そう……ね」
ダメだ。そんなの情けない。
いや、情けなくたっていいんじゃないか。そもそも、今以上に情けなくなれるもんか。大きな目標を諦める覚悟で、一人を救おうとして。その手を本人から振り払われた。意地を張ろうとして、突きつけられた銃に震え。二回も他人に命を救われた。こうして、何も為せないまま生き延びて、自分の部屋で座り込んでうじうじとしている。
すでに情けない。もう、惨めだろ。
そうだ。こんな惨めなやつが、世界を変えようだの正義を掲げるだの、根本から間違っていたんだ。
「わかったんだ。きっと」
「どうしたの?」
「なんとなく、もういいやって諦める瞬間が。きっと、今この瞬間だ」
僕が間違っていました、すいません。
そう、ベルトマンに謝って。ただの一公務員として淡々と仕事をこなす。それでいいじゃないか。
「そうね。今が、その瞬間かもしれない。けど、それで終わりじゃメルンじゃないでしょ」
「これが、僕だよ」
「違う」
ハームが両方の前脚を、僕の背後にどんと突いた。目の前に、奇麗な肉食獣の顔が迫る。息がかかるくらいの近距離で、言葉が放たれる。
「わたしはメルンの理想に夢を見た。だから、あなたの為に命を懸けられる。あなたの為なら、いつでも死ねる。理想と怒りに燃えるあなたを好きになった。その気持ちだけで、ここまで走ってこれた」
ざらつく舌で頬を舐められた。
「オスと犬は命令で走る。でも、女が命令で命を張れると、本気で思ってるの? 半分機械だから、人間に従うとでも思ってるの? ネコ科の生き物が、忠誠心だけで退屈な任務をこなすと思ってるの?」
ハームは、一体何を言っているんだろう。
理解が追い付かない。ただ、目の前にある殺気にもよく似た空気をはらんだ言葉に、耳を傾けざるをえなかった。
「ここまで一緒に命をかけてきたのに。たったこれしきで、他の女一人救えなかったくらいで、諦めるなんて許さない。わたしが好きなメルン以外のメルンは認めない。あなたが前に進み続ける限り、わたしの全てをあげるから、進み続けなくちゃダメ」
「それは……それは、ずるい」
「ずるいに決まっているじゃない」
「僕のことも、ハーム自身のことも決めつけてる」
「そうね。けど」
ハームの脚が壁を這い、僕の背中を前に押す。抱きしめられるように、ハームの首元に顔を押し付ける体勢にされた。
「怒りに燃えるメルンは素敵だった。なぜ、今のあなたはそんなに情けない顔をしているの? そんな姿は見たくない」
「救えなかった。僕の精一杯で説得しようとしても、言葉が届かなかった。情けないに決まってる」
「後悔してる?」
「もちろん」
「なら、変えなくちゃ」
「……は?」
「救えなかった相手がいるのに、何も変えようとしないの? 本当に後悔しているの? ベルトマンにぶつけた怒りは嘘だったの?」
ハームが僕を抱き寄せる力が強くなった。
「――情けない今の姿に。今、あなたの胸にある痛みがそこらに落ちているこの世界に、怒りはないの?」
耳元で囁かれた言葉が、脳髄を貫いた。
言葉が脳を穿ち、脊髄を焼き。体の一番後ろまで走り、どろどろに溶けた灼熱になって込み上げてくる。
持ち上げた手が、熱に冒され震えている。それを、乱暴にハームの背中に回し、抱き返した。
「……ある。あった。まだ、あった」
掠れた声が、喉を引っ掻く。
なんだ。このザマは。
自ら寿命を捨てようとする人を止められず。その果てにしていることは、自室で座って弱音を吐くだけか。
「僕は、何をしていたんだ」
諦めて。そこに、意味があるのか? ないだろうが!
覚悟したんだろうが!
後悔したくせに、唯々諾々と同じことを繰り返そうとした、それこそが情けない。何よりも情けない。
「ごめん、ハーム」
「いいの、メルン」
壁にぶつかることなんて、当然だ。
この、ニューロンドン市が、時計管理局が歪に支配したこの世界を変えるんだ。簡単じゃないことなんて、失敗することなんて、想定してしかるべきだろう!
「迷惑かけた。カッコ悪いとこ見せた。まだ、一緒にいてくれる?」
「あなたが強がり続ける限り。この命尽きるまで」
「ありがとう」
まだ、戦える。
僕こそ、ハームが隣を歩んでいてくれる限り、戦える。
抱きしめている、半分が機械で出来ているはずの体が。何よりも暖かかった。




