第二章・月下(3)
「ねえ万智。どうしてわたしのこと流架って名付けたの? 何か特別な思い入れがあったとか?」
寝台に座ったまま流架は小首を傾げた。襤褸のような状態で発見されて数週間、まだ長い間起きていられない彼女はこのままの格好で万智やタユタらと他愛無い話をするのが好きだった。何せ毎日退屈していて、動かない自分の体に辟易していたのだ。そうと知っている万智は暇潰しに付き合ってあげようと隣に腰を下ろした。
「そうだなあ、これといった理由はないかもしれない。パッと浮かんだのがそれだったから。惟では『ルカ』って、珍しい響きだけどね。ああ、でも字はきちんと考えたよ。大いなる流れに架けられる橋――って意味なんだ」
「大いなる流れ?」
流架はきょとんとする。万智は優しく笑った。
「そう、大いなる流れ。……きっといつかここを旅立つ時、流架にも分かるよ。この世には人の力ではどうしようもできない流れがある。真っ向から立ち向かえば押し潰されてしまうような、激しい流れ。それを変えることは出来ない。でもきっと流架は、」
そっと指先が伸びて、流架の髪を攫っていく。
「……流架は、大丈夫だよ。流架ならきっと、どんな未来も乗り越えられるよ」
世界がキラキラと輝き出す。
閉めきった部屋に立ち上るいくつもの塵が光を受ける、それだけのことで、流架は何故か世界が変わっていくのを感じた。すれ違っていた発条が噛みあうように、ゆっくりと動き出す。瞬きの間に吸い込む息さえ変わっていく――清涼な星屑の光に満ち溢れた世界が、目の前に広がっていた。
*
宮は静まり返っていた。影虎は何故か回廊を歩くことなく、暗い庭園を突っ切っていった。遠くから火の手が見えるたび植木に身を潜める姿は、傍から見たら滑稽だったろう。仮にも『碧の瞳』がどうしてこんな不審者じみた行為に及ぶのか、流架にはさっぱり分からなかった。無論、正規の手続きを取らずに不法侵入した時点で、どう疑われても仕方のないことをしているのだけれど。
変化のない単調な景色が流れていく。ゆっくりと燈火は遠のいていって、視界には幾重にも漆黒の紗が重なる。橙の火が針で打った点のように小さくなる頃には、もう眼前に見えるのは揺れる影虎の髪だけになった。腰まで伸びた長い髪の毛に、淡く月明かりが差して天の川のようにきらきら靡いている。
――おとぎばなしの王子様みたい。くすりと笑うと、脳裏を幻が駆けていった。
「あれ?」流架は思わず呟いた。「わたし、前もあなたとこうして歩いたことがある?」
奇妙な間があった。
「……さあ。兄貴のところに行ったことはないはずだけど」
「……そう」
些細な違和感は、やんわりとした否定の言葉で掻き消された。胸の奥へと追いやられた刹那の幻は二度と過ぎらず、忘れたことさえ記憶に残らなかった。
先も見通せぬ闇を行くうちに、ひく、と流架の鼻が動いた。無意識に反応してしまったのは、くゆるようにあたりに漂う甘い匂いのせいだった。
「これって……」
この匂いには覚えがある。タユタと二人、食事当番の後に作った焼き菓子の匂いだ。決して余裕があるわけではない一座で、お菓子を食べられる機会はそうあるものではなく、頬が溶けてしまうような格別の美味しさだった。思い出すだけで口の中が甘くなって、流架は喉を鳴らした。
匂いはどんどん強くなっていく。あたかも焼き窯の中を彷徨っているような心地がした。
「……こんな物語があったよね。小さな兄妹がお父さんに捨てられて、森でお菓子の家に迷い込むの。でも本当はそれは魔女の家で、二人は食べられそうになっちゃうっていう。あれは小鳥が案内したんだっけ……」
「へえ。異国の話?」
影虎は初耳のようだった。博識に見える彼にしては意外だった。流架は埃がかった記憶をふるい落として、本の表紙を思い出す。
「そういえば、どこのお話なのかな。万智は色んな国の話を読んでくれたから、頭の中でもごちゃごちゃになってて。わたし、字もあまり覚えていなかったから、万智が子供用の物語をたくさん読み聞かせてくれたの。それで字を覚えたんだけど」
影虎がまたへえ、と短く相槌を打つ。背中越しには彼がどんな表情をしているのか読み取れなかった。
「それ、最後にはどうなるの?」
「えっと、確かね、兄妹は魔女を退治して、無事に家族のもとに帰るの。お父さんは子どもたちを捨てたことをすごく後悔していて、それからは三人で幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたし。で、おしまい」
「……ふうん。後悔、か。……俺には想像つかない」
低い声に、え、と首を傾げた瞬間、突風が吹き付けてきて木が一斉にのたうった。あまりの轟音に耳を覆ったが、ざわめきに紛れて、かすかに優しい旋律が風に乗ってきた。一音一音がまるで歌うようで、素朴な温かみに満ちている不思議な曲だ。
「……歌……?」
枝を掻き分け進んだ先に現れたのは、小さな庵だった。
どこか鬱蒼とした印象を与えるその庵は、周囲の目から逃れるようにして建てられており、本殿とは明らかに隔絶されていた。恐らく、昼間であってもよほど接近しなければその存在には気が付かないだろう。ここに誰かが住んでいるというのだろうか。
影虎は中へ進んでいく。流架も恐る恐るその後を追った。
だが、近付いてみると庵は古くも汚くもなく、どころか手の行き届いた繊細な意匠や洒落た丸窓など、よく見ればいっそ風流ですらある。同時に流架は確信した。甘い匂いも音楽も、この庵から流れてきている。
「兄貴ー、連れて来たよー?」
影虎は乱雑に格子戸を開ける。思わず流架は影虎の後ろに一歩下がった。
一階は何の仕切りもない畳敷きの大広間だった。奥には先ほど二階部分に見た大きな丸窓が嵌め込まれており、そこに腰掛ける青年がいた。月明かりで顔が見えない。流架が三和土に踏み込むと、彼は顎をこちらに向けた。
「……ようこそ、流架さん」
弧を描く薄い唇は、ぞっとするほど美しかった。
――彼はそういう、他人を畏怖させる美貌を持った人だった。
腰を浮かし、するすると衣擦れの音をたてながらこちらに向かってくる。絹のようにたなびく髪は銀色で、まるで月神がこの世に降り立ったようだった。流架は微動だに出来なかった。夢を見ているのだろうかとさえ思う。それほど彼は浮世離れしていた。
「初めまして。私の名は陽向」
「陽向、さん……?」
陽向は肯定を示すようにゆっくりと睫毛を伏せる。そして、おもむろに口を開いた。
「ねえ、甘いものは好き?」
「……へ?」
「僕はねぇ、大好きなんだ! 甘いお菓子に美味しいお茶、これ以上の贅沢はないよねぇ。久しぶりのお客さんでうきうきしちゃって、たくさん用意しちゃったからいっぱい食べてね!」
「はあ……?」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔とはこのことだろう。流架は半ば呆然としていた。先ほどまでの威圧感はどこにいったのか、髪を揺らして跳ねる陽向は甘い甘いお菓子のことで頭がいっぱいのようだった。
「ねえねえ、流架さんはどんなときに幸せだーって思う? 僕はねぇ、好きなだけお菓子を食べられる時! 夢はこの家にお菓子専門の職人さんを住まわせること! ささ、どうぞ食べて食べて」
ずいずいと籐のかごを差し出してくる。中には焼き菓子が山積みにされていた。流架は何とも言えず、ただ曖昧な笑みを浮かべる。遠慮しないで、と薦める陽向は、名は体を表すを地で行く太陽のような笑顔をしていた。あまりの光量にくらくらする。
「……ごめんねー。変わった人なんだ。子どもがそのまま大人になったような人なの」
影虎が苦笑しながらかごを横から奪った。
「あの、失礼ですけれど、おいくつなんですか? お兄さん」
「二十二。もうすぐ二十三」
へえ、ともほお、ともつかない声が漏れる。正直、どういう反応を返せば正解なのか分からなかった。
「いいよ、遠慮なく呆れて……。この上説明するのも本当に気が重いんだけど、この人、こう見えてこの国唯一の神官なんだ」
「神官?」
「翠の力、は分かる?」
流架は頷いた。この国の根底を支えるという、惟を守護する力。或いは、神そのもの。一説には碧の瞳を宿すのはその力に選ばれたゆえだと言われている。
「託宣を聞く人、神と人の間を取り繋ぐ者――言い方は色々あるけど、要は常人には見えないものが見えたり聞こえたりするってこと。ただし占いよりはずっと精度が高い。路上に座って水晶を抱えているような類とは全くの別物だと思って。以前は翠の姉にもそういう力があったんだけど、もう故人だから、兄貴はこの惟に残された神と対話できる最後の人間になる」
「……神と対話できる……」
「大仰だよねえ? 僕はただ『認めた』ってだけなのにさあ」
「特殊例だよ、兄貴のは」
「かもね。僕は『成り損ない』だから」
――認めた? 成り損ない?
怪訝そうにしている流架を見て、陽向は微笑を浮かべ手招きした。
「流架さん、もう少し傍に来てみて。そう、僕の目を覗いてごらん」
けぶるような白銀の睫毛の奥に、光が差し込む。水面のように揺らめく瞳は、真珠の色をしていた。
「あ……っ」
思わず息を呑む。色こそ違えど、移ろう光は影虎の持つ碧と全く同じだった。
前屈みの姿勢を正して、陽向は目を細める。
「僕はね、成り損ないなんだ。碧の瞳に成り損なった白銀。王位には決して届かない、力だけを受け継いだ存在。或いはこの色だからこそ特別な力に目覚めたのかもしれないけれどね。こういう目を持つ人間は何も僕一人じゃない、過去にもいたんだよ。その多くは短命だったけれどね。何故か不完全な碧を持つ人間は、とかく長生きできない。大抵は病に倒れて、若年のうちに亡くなる」
流架は言葉を飲み込んだ。流架から見ても陽向は儚げで、短命という定めは決して他人事ではないのだと分かる。影虎はその事実を認めたくないのだろう。眉間に刻み込まれた深い皺がそう言っていた。
陽向は流架に、「この話をするといつもこうなんだよね」と内緒話をするように囁いた。
「……まあ、だからそういうこと。僕はこの力を通して君のことをずっと前から知ってたんだ。だから助けに行ってほしいって、影虎にお願いした。ここに連れてくれば安全だろうって」
「そんな……そんなことが、出来るんですか? じゃあ、」
どうして、万智たちは。そう言いかけて、口を噤んだ。
陽向は申し訳なさそうに眉を下げる。
「何もかもってわけにはいかないんだ、残念ながら。この力は聞き取りたいことだけを掬い上げるものじゃない。君の場合は多分、影虎に出会っていたから僕に届きやすかったんじゃないかな。碧の瞳の紡ぐ運命は強力だから、その周囲の人間の『声』が聞こえやすくなることはままある」
「……じゃあ、あのときわたしが影虎に出会っていたから……」
偶然の出会いが、流架の運命を変えたのか。
つい影虎のほうを見ると目が合って、少し悪戯っぽく笑いかけてくれた。
「で、兄貴。他にも二人、流架ちゃんの友達がいたらしいんだけど、そっちは?」
「残念ながら。そもそも僕はそういう存在がいたってこと自体掴めていなかったから。……未来のことは『降って』くるもので、僕が意図して読み取ることは出来ない。それに、流架さんの記憶のこともね。僕は過去のことを読むのは苦手なんだ。あの子なら、きっと出来たんだろうけれど」
「あの子って……さっき仰っていた、陛下の姉君ですか?」
「そう。歴史上最も強い力を持っていたんじゃないかな。遙か千里彼方も見通せたらしいよ。噂だけれど」
流架は感嘆の声を漏らした。そんなに凄い人なら、一度は会ってみたかった。
「それより、兄貴。この家、着替え置いてない? 流架ちゃん、靴擦れしてるしこの服は目立ちすぎるからさ」
影虎が割り込んできて、陽向は確かめるように流架の全身を眺めると、「ちょっと待って」と一言告げて二階に上がっていった。流架は改めて自分の今のみっともない格好を思い返して、頬を赤く染めると服を掻き寄せた。恥じ入って俯くと、影虎が身に着けている独特な香の残り香がした。
「これでもいい?」
戻ってきた陽向の手には、女性用の服が一揃えあった。こざっぱりとした作業衣のような衣装で、今の流架には飛び上がりそうなほど嬉しい品だった。
「充分です、ありがとうございます!」
「傷の手当ても必要かと思って、一式用意したけれど、使う?」
流架が申し出を断る前に、影虎が兄の手から薬瓶を奪い取った。
「そこ座って。消毒するから」
「え、でも応急処置はもう……」
「いいから。早く座る」
問答無用と言わんばかりの態度に、渋々流架は床に腰を下ろした。薬に浸した綿を剥き出しの皮膚にちょんと押し付けられた瞬間、流架の全身に再び電流が伝った。声を押し殺してもがく流架を放って、影虎はやけに念入りに手当てを進める。白い清潔な布で足を覆って、靴に触れないよう結び目を作る。完成、と甲を軽く叩いて、影虎は言った。
「はい、出来た。痛くなったら言って」
「あ、ありがとう……」
「どーいたしまして。……さて、兄貴。詳しい報告はまた後で寄越すけど、今後この子は俺が面倒を見ることにしたから」
陽向が目を見開く。
「……それでいいの? 影虎は」
影虎は冷たい眼差しを外に向けたまま、押し黙っていた。それまでの和やかな空気が一転してかたくなっていく。
諦めたようにそっと嘆息すると、陽向は苦笑いを浮かべた。
「やれやれ。仕方ないなあ……。どうしようもない弟だけど、流架さん、どうぞよろしくお願いします」
「こ、こちらこそお世話になります。それと、どんな経緯であれ、助けていただいて本当にありがとうございました」
陽向は口の端をそっと緩めた。
「……あなたが無事でよかった。どうぞ、また会いに来てください」
流架に甘い匂いのする白い包みを持たせると、陽向は小さく手を振った。
「行ってらっしゃい」
「……はい、行ってきます!」
船出の時間だった。未知なる海原へ漕ぎ出す不安と緊張、そして僅かな期待ではちきれそうな胸に陽向からの贈り物を抱きしめて、流架は大きく手を振った。
再び静寂に包まれた庵で、陽向は長く動けずにいた。縫い止められたようにその場から離れられないのは流架のせいではない。暗礁に乗り上げると分かっていて漆黒の夜をゆく弟の姿が脳裏から消えないからだった。
その名のように、彼は影を歩むことしか出来ない。誰よりも日向が似合うひとだというのに。
「……後悔すると知っているのに、踏み出さずにはいられない……」
ぽつり、と呟く。
「悲しいね。影虎……」
*
二人は林を抜け、玉砂利の庭園を歩いていた。同じ回廊なのに、灯火はあれど人の気配はしない。影虎もそれを承知しているのか、隠れることなく堂々と闊歩していた。
「ここって、どこなんですか?」
「こら、敬語」
笑い混じりに注意しながら、影虎は続けた。
「ここは後宮だよ。この時間だと見回りもいないねえ」
「……ここが後宮? 警備とかは?」
「深刻な人員不足でねー。いる人間も少ないから、夜間だと客人それぞれに警護をつける他は定時の見回りくらいなんだよねぇ」
「それで大丈夫なんですか?」
「いや、駄目。でもまあ陛下のご判断ってやつ? そうするしか方法がないっていう現実と、後は諦めたんじゃない? 死ぬならその時はその時、どうにでもなれって」
「……どうにでもって……」
愕然とした。一国の王が、神にも等しく崇められる人間が、自らの命をここまで軽く扱っていいのだろうか。彼の命には国の行く末が、この国に生きる全ての民の命かかっているというのに。目に余る行いに、憤りすら湧いてくる。民から愛される翠王。――その王は、こうも民を蔑ろにしている。
額を小さく小突かれて、流架は顔を上げた。
「ここから中に入るよ」
「あ、うん!」
手を引かれて階段を上る。床は漆黒に塗られていて、体重をかけるとぎしぎし軋んだ。いくつか御簾のかかった部屋を通り過ぎたが、どこも真っ暗で人の気配はしなかった。
市井で暮らしていたときは、後宮がこんなにも静かな場所だとは想像もしていなかった。毎晩のように華やかな宴が行われていて、目もくらむような世界があるのだと思っていた。これならきっと流架の一座のほうがよほど賑やかだっただろう。
「ここだよ」
前を歩く影虎が足を止める。慌てて流架も立ち止まった。
目の前には長い回廊があった。奥に待ち構えているのは重厚な扉で、その厳格な佇まいはどこかあの鳥居を思わせ、これが王の間へと続いていることを予感させた。
不安が過ぎる。――とうとう王と対面する。鍵をかけた記憶の向こうに触れてしまう。
「会いたくない?」
影虎に尋ねられて、流架は首を振った。よく分からない、が本音だ。会いたい、けれど会いたくない。知りたい、けれど知りたくない。
でも、と横に目を向ける。影虎は全てを包み込むように、優しく笑いかけてくれた。
――幸運にも、流架は一人ではない。だから万智とタユタを探すことが出来る。二人は危機にあるときも他人を思いやれる素晴らしい人だった。その二人に再会したとき、胸を張って報告できるくらい、強くなろう。どんな過去であっても、逃げることなく立ち向かおう。
「大丈夫」
大きな手が背中に添えられて、流架ははっとした。
「傍にいるから。ずっと」
影虎は凛と前を見据えていた。その瞳は未来を映している。こみ上げてくるものをぐっと堪え、流架は大きく頷いた。
一人じゃない。一人じゃない。だから、もう逃げない。
覚悟を決めて、流架は一歩踏み出した。




