第一章・時つ国(4)
ごくり、と生唾が音を立てて喉の奥を伝っていく。
潜める吐息はごく浅く、汗でじっとりと濡れた背中は冷たかった。
準備を終えてなおしばらく、流架は天幕の前で立ち尽くしていた。薄い布一枚によって隔てられた向こう側では、今か今かと興奮がはち切れんばかりになっている。熱気に満ちる中でもはっきりと耳につく、好奇の隠しきれない無責任なさざめきごとに、流架はつくづく嫌気が差した。
――やっぱり、あの人たちの前で舞うなんて嫌だ。わたしは檻の中の動物じゃない。
屈辱に唇を噛んでも、他の方法は思いつかなかった。
このために用意された新品の靴は固く窮屈で、まるで流架を地に縛り付けているようだった。太ももの大きく開いた煌びやかな衣装も、爛々と光る衆目の前に晒されるものだと思うと、死体の皮を被っているように感じる。
喉の奥から吐き気がこみ上げてきて、流架は自らを押し静めるように胸に手をあてて、石の感触を探った。ゆっくりと深呼吸する。
いつまでもこうして思いに耽っていても何も変わらない。家無しである今の流架には、これしか選び取れる道はないのだ。
光が漏れる白い天幕に、そっと指をかける。
流架が姿を現すと、ざわめきは一瞬で潮を引いた。
それぞれの顔を挑むように見渡して、流架はしんとした中を靴音を響かせ進んでいった。
この天幕は客を収容するための特別なもので、中央は丸い舞台になっている。舞台といっても、足元は土という粗末なものだ。柵を乗り越え円の中心で膝をつくと、射るような視線が一斉に投げ掛けられる。円の外側では、団員たちが流架をぐるりと取り囲んでいた。まさしく見世物、猛獣の扱いだ。
その中で、一人だけ流架に小さく手を振っている青年がいた。流架が気付くと、くるくるとした無邪気な目を輝かせ、音を出さないまま「頑張れ」と囁いていた。流架は思わず顰めた眉間を緩めた。
「流架」
重々しく発せられる声に、流架ははっとして深く頭を下げる。
流架の目の前、一人椅子に座している男――彼こそがこの一座の座長であり、全てを掌握する実権者だった。およそ旅芸人とは思えない筋骨隆々とした体、無数に刻まれた傷跡、狼を思わせる狩人の険しい目。幾多の修羅場をくぐり抜けてきて得たのだろう鋭利さは、人を畏怖させるには十分すぎるものを持っていた。
実は、流架は彼と正面から向き合ったことは数える程しかない。寡黙で、要点しか話すことのない性格もあるだろうが、それ以上に、彼は徹底した利益主義者だからだ。
彼は情を解さない男だった。常に利益を優先し物事を選り分ける。この大所帯を運営していく上では必要不可欠な素質なのかもしれないが、それ故に当初は流架を拾うことにも難色を示したそうだ。万智が『自分が責任を持って一人前の芸者に育て上げてみせるから』と説得しなければ、恐らくどれだけ乞い縋ろうとも一滴の水すら分け与えてもらえなかっただろう。そして最初の一ヶ月、寝込んで物の役に立たなかった流架同様、一向に芸を覚えようとしないタユタのこともよく思っていない。
彼は万智とは違う。些細な失敗だろうが、目を瞑って見逃してくれるような男ではない。ここでしくじれば先はないも同然だった。
座長は流架を見下ろしながら神経質にコツコツと椅子を指先で弾いた。
「分かっているとは思うが、これは試験だ。勿論、現時点での完璧な成果を望んではいない。だが、芸者としての可能性がない人間をここには置いておけない。これは可能性を見る試験だ。いいか?」
「はい」
「では、何を?」
流架は腰から持参したものを引き抜いた。
「――剣舞を」
円の外から、僅かに驚嘆の声が上がった。
剣舞は舞の中でも特に難しい。わけても女が踊るには、どうしても雄大さに欠けてしまう。流架も散々迷ったのだが、結局はこれしかないと決めた。
大切な人をこの手で守りたい。守れるだけの強さがほしい。――これは、記憶のない流架が初めから抱いていた渇望だった。不思議なことだが、だからこそ、流架は今まで剣を練習し続けてきたのだ。これ以外に相応しいと思えるものはなかった。
出口側に立つ万智に視線を向ける。心配そうに手を組んで、流架を見守っていた。
はあ、と息をつくと、凛と前を見据え、流架は構えた。
糸が撚り集められるように、意識が研ぎ澄まされていく。
瞼を下ろすと、暗闇に自らの踊る姿がはっきりと見えた。心は穏やかだ。――大丈夫。わたしは踊れる。
かっと目を見開くと、流架は勢いよく跳びだした。
腰布が大きく舞って、煌々と燃える松明が刀身を照らし出す。その明滅はまるで一等星のように輝いた。
皆が強い光に一間、目を細める。視野を取り戻すと、今度はもっと柔らかな光が踊っていた。ひらひらと絹に風を含ませ、流架は緩やかに拍を刻む。剣が翻るたび、身に纏う紗が広がるたび、くっきりとした闇夜には幾億もの星の光が描き出された。
緊迫して見守っていた万智は、思わず息を飲んだ。
――こんなこと、一体いつ覚えたんだ。
その舞はまさしく、夏の夜の天の川だった。落ちてきそうなほどの星々が、流架を中心に広がっていく。万智は震えた。この天蓋全てを塗りかえていく、紺青の空。
誰もが身動ぎすらできず立ち尽くしていた。まるで天女が舞っているかのようだった。
流架にそんな星空を見た記憶はない。けれども、この舞はそれでしか有り得なかった。この糸の向こう、かそけきどこかで、確かに繋がっている――。
パン、と乾いた音が鳴って、流架は動きを止めた。
汗の滴る顎を向けると、座長が険しい顔でこちらを見ていた。
「もう充分だ」
周りを見渡すと、当初は流架のあらわな太ももや隠すもののない腕に下卑た視線を送っていた者たちでさえ、一様に黙り込んでいた。
その反応で、流架は文句なしに認められたのだと分かった。喜びで体が軽くなる。満面の笑みでぺこりと頭を下げた流架の後頭に、座長の声が降りかかった。
「これでお前は十分に価値があると認められた」
流架は土を見つめながら固まった。――いや、動けなかった。その言葉に含まれた不吉な意味合いを、瞬時に感じ取ったからだ。
食ってかかったのは流架ではなく、万智だった。
「ど……どういうことですか? 団長」
集団の波を掻き分け前に進み出てくる。それを一瞥して、座長はあっさりと告げた。
「そうか、お前はまだ知らなかったな。この一座の本質を」
「本質?」
万智は怯えたように問いかける。座長は何の波風もない平坦な口調で答えた。
「この一座はあくまで旅芸人の名を借りた隠れ蓑だ。我らの本来の目的はこうして女を捕らえ、奴隷として売り捌くことにある」
ぽた、と土に一点の汗染みが落ちた。
重ねた手が震え始める。
「つまり、お前はこれから売られるんだ。流架」
その意味を理解した瞬間、流架は弾丸のように飛び出した。
しかし男たちも慣れたもので、すぐさま舞台の柵を乗り越えて流架を追いかける。無数の黒い手が伸びて、流架の背中を捕らえた。
「ひ、」
悲鳴すら上げられず、流架は背後から引っ張られた。いくつもの手に絡め取られる。
「流架!!」
もがきながら振り返ると、万智もまた、地面に押し付けられ捕縛されていた。
万智、と呼ぼうとした流架の顎を男が塞ぐ。何度か会話したことのある、見知った顔の男だった。
「逃げきれると思ったのか、え?」
引き攣ったような醜悪な笑いが眼前に迫り寄る。顔に吐きかけられる息が生臭い。顎を掴まれたまま流架はゆっくりと持ち上げられていった。足先が土を掻いて、苦悶の声を漏らす。
「大体、お前は疑いを知らねえんだよ。普通女が一人もいない劇団なんかあるもんかよ。タユタみたいに慎重なら、まだしも救われたかもしれねえがなあ」
流架は目を見開いた。己の迂闊さに気がついたからではない。――タユタ。彼女のことを思い出したからだ。
タユタはこの中にいなかった。人が大勢集まるところに彼女は来ない。だが、こうなった以上間違いなくタユタにも捕縛の手は伸びているだろう。
こんなところで、捕まるわけにはいかない。
流架は意を決して、口を覆う大きな手に噛み付いた。
「おおっ?」
突然走った痛みに、男の手が緩む。ようやっと足が地面について、流架はすかさず股間目掛けて蹴りを叩き込んだ。鳥を絞めたような絶叫。七転八倒している男を放置して、流架は逃走した。
「流架ァ!!!」
怒号が追いかけてくる。柵の向こうでは男たちが出口を塞ぐようにして立っていた。彼ら全員を相手取るなど不可能だ。このまま逃げ果せられるはずもない。分かっているが――では、どうすれば。
惑いながら周囲を見回す流架の耳に、別の悲鳴が届いた。
見ると、万智が組み伏せていた男を吹き飛ばし、剣を片手に戦っていた。目が合って、彼は叫ぶ。
「流架、逃げろ! 逃げるんだ!!」
「ま……っ」
彼の元へ向きかけた足が動きを止める。
ここで戻れば、彼の思いを無駄にすることになる。それに今は、一人では戦うことも出来ないタユタの救出が先だ。そう言い聞かせて、流架は一心不乱に走った。万智が暴れだしたことで、団員たちは狼狽え、鉄壁だった陣形が崩れていた。突破するなら今しかない。
慌てふためく団員たちを薙ぎ倒して、流架はとうとう柵を飛び越えた。だが、そこには屈強な男たちが懐に飛び込まんとする羽虫を待ち構えていた。得意げな笑みを浮かべる彼らに、流架は一歩も引くことなく突っ込んでいった。
馬鹿が、と一人が短く舌打ちした。低く腰を落とす彼らの構えには一部の隙もない。羽虫相手でも容赦はしないつもりなのだ。しかし、それこそ流架の策略だった。
流架は弓なりに体を反らし、大きく跳躍した。
「てやあああああっ!!」
剣先は男たちを大きく逸れ、舞台を取り囲んでいた燭台をいくつか横殴りに叩き落とした。黒い油が一面に撒き散らされ、炎が舞い上がる。
「なっ……何を?!」
狼狽した男たちに、流架はにやりとした。
こんな布の円蓋の中で、一番まずいのは火災だ。幸い、舞台道具など引火しやすいものはそこら中にある。案の定、火はあっという間に勢いを増し、舞台を取り囲んでいた木の柵にじりじりと燃え移り始めた。
「お前たち、火を消せ! 急げ、急ぐんだ!」
団長の命令で、男たちは一瞬たじろぐ。その一瞬の間に、流架は出口への道を突き破った。
天幕を抜け、辺りを見渡す。闇夜は暗く全てを覆い隠していた。だが、この静寂は却って人の気配を浮き彫りにする。僅かに聞こえる、乱れた足音。就寝用の幕屋からだ。走り出した流架の耳に、細い悲鳴が届いた。
(タユタ――!)
駆けつけた時、タユタは一人の男に腕を頭上高く持ち上げられ、縄をかけられるところだった。
頭が真っ白になる。流架は無我夢中で飛び込んでいって、男の背に蹴りをくらわせた。不意打ちに男はよろめいて、タユタを放す。どしゃ、とタユタは音を立てて落下した。
「タユタ!!」
「る、か」
流架は縄のついたタユタの手をとって、二人で走り出した。
背後で流架を呼ぶ声がしたが、振り返らず進んだ。小さな手は氷に漬けたように冷え切っていて、冬の初めの夜、繋いだその手の感触だけが現実だった。
後ろでタユタが何か言いたそうにしているのが伝わってきたが、説明してあげられる余裕はなかった。一座の野営地は見晴らしのいい野原にあって、明かりのある天幕からは流架たちの姿が遠くまで見渡せる。火災が鎮まれば、じきに追いつかれるだろう。南下して街に出て誰かに助けを求めるか、西にある森に隠れてやり過ごすか、とにかく簡単には見つからない場所まで逃げるしかない。
背後で松明の灯りが揺れている。男たちの怒声も風に乗って聞こえる。追っ手だろうか。万智はどうなったのだろう。
万智。万智のことを思うと、眦がつんと傷んだ。彼は流架やタユタのために、その身を挺して逃がしてくれた。胸が詰まったが、だからこそ立ち止まることは出来なかった。西の森では逃げ込んでも自分たちが迷う可能性がある。それに人気がないから、うまく隠れられるか分からない。出来れば街まで逃げたいところだが、走って半刻ほどのその距離が、途方もなく遠く感じられた。呼吸は乱れ、枯草に引っ掛けた足がずきずきと傷んでくる。
「あっちだ! 回り込め!」
――声が聞こえる。近い。当然だった。足弱なタユタを連れて走る流架と、鍛え抜かれた男たちでは結果は明白だった。それでも流架はこの手を離すわけにはいかない。可哀想な、小さなタユタ。流架しか頼る人のいない、可愛いタユタ。一人ぼっちの彼女を見放すなんて出来るはずがなかった。例えそれがために捕まったとしても、だ。
だが、それは突然だった。
繋いだ左手が勢いよく振り払われる。驚いて流架は振り向いた。
タユタが、大きな目を潤ませてこちらを見ていた。そして小さく首を振る。
「るか、だめ」
「……駄目? 駄目って何が、」
「このままじゃ、ふたりともつかまる」
流架は喉を詰まらせた。流架にもそれはとっくに分かっていた。分かっていたが――
「やくそくして、るか」
タユタはじりじりと後退する。
そして、花のように可憐に笑った。
「ぜったい、またあおうね」
タユタはそれきり、くるりと踵を返し、流架に背を向けて森の方へ走っていってしまった。小さくなっていく姿と遠くなる足音に、流架は呆然と立ち尽くす。
――どうして。
どうして、万智もタユタも、何もかもを失わなければならないのだろう。
悪い夢を見ているようだった。何を間違えてこんなことになったのだろう。いつの間に流架は階段を踏み外していたのだろう。今日はいつもと同じ、何も変わらない平穏な一日を過ごすはずだったのに、どうして。
視界が滲んできて、流架は乱暴に腕で拭った。こうしている内にも、追っ手の炎は増えている。ぼやぼやしている暇はない。流架は再び駆け出した。
これは別れじゃない。だって約束した。必ずまた会うと。
そうだよね。そうだって言って。誰か――
歪む視界に、街の光が映る。何度も何度も自分に言い聞かせながら、流架は挫けそうな己を叱咤した。
*
やがてぽつぽつと立ち並ぶ家並が見え始め、流架は安堵に胸を撫で下ろした。逃げ込む宛てはなかったが、それでも人の気配がするだけで救われた心地がした。
麓鳴は大通りを除き、市街地はまるで網の目のように複雑に入り組んでいる。その複雑怪奇さに、初めて立ち入る者は必ず迷子になると言われていて、慣れない観光客を案内するのを商売にしている子供がいるほどである。普段なら絶対に立ち入ることはないが、追っ手を撒くにはうってつけだった。それに、街中では彼らも滅多なことは出来ないだろう。
しかし、実際入り込んでみて気がついた問題は、追いかける彼らだけでなく、流架もまたどこを目指すべきかさっぱり分からないことだった。もし流架にほんの少し知識があれば、惟には移民や他国籍の人間を取り次ぐ家省という施設があることや、そうでなくても国法に反する奴隷商から逃げ出してきたのだからどこかの府所に駆け込めばいいと判断出来ただろうが、記憶をなくした流架には出来ぬ相談だった。
更にまずいのは、思ったより人通りが少ないことだった。家の明かりは常に夜道を照らしているが、外を彷徨いている人は殆どいない。たまに人とすれ違っても、前後も分からぬほど泥酔していて、助けを求めることは出来なかった。
段々息が上がってくる。流架は気付かぬうちに同じ場所をぐるぐると周回していた。動き続けた体は疲れきって、足は棒のようだった。今追いかけてきた男たちに襲われたら、きっと抵抗も出来ずに縄をかけられるだろう。
(どうしよう……どこへ行けば)
空を仰いで、流架は息を飲んだ。
月の光を受け、静々と輝く銀朱の色。どっしりとした佇まいは、迷い子を受け入れる度量の深さを示していた。
――宮殿の門、大鳥居。
今朝も見たあの厳然とした風格に、流架は目的地を決めた。
この時、流架に宮まで押しかけて身柄を保護してもらおうなどという考えはなかった。ただ行く先を定めただけだ。方角さえ間違えなければ大きく道を外れることもないだろうし、鳥居は真っ直ぐ鳴通りに繋がっているから、いつかは大通りに抜けられる。何よりあのどっしりとした門構えに、頼れるものを感じたのだ。
しかし、流架が次の角を曲がろうとした時――黒い腕がぬるりと忍び寄った。
反射的にびくりと体を震わせた流架の口が、素早く塞がれる。救いを求める叫び声は獣のような唸りになって、低くくぐもった。
「こんなところまで手間かけさせやがって、ちくしょうが」
短い舌打ちが飛ぶ。頭上で悪態をついているのは、先ほど流架が噛み付いた男だった。背後から押さえつけられているので、足をばたつかせても蹴りあげることが出来ない。
「捕まえたか?」
暗闇からもう一人現れる。べたっと撫で付けたような髪をした男で、薄汚れた陰湿な目つきをしていた。
だが、二人とも体は流架より鍛えられているし、体格にも差がある。特に既に流架に一杯食わされた男は警戒を一切解かず、一分の隙もなかった。
(……ま、ち)
心の叫びが聞こえたのか、男はにたりと笑う。
「万智坊は捕まったぜ。お前も大人しく捕まるんだな」
その嫌味ったらしい口ぶりに、腹が煮え立った。悔しい。悔しい――!
(誰か……誰か、助けて……!!)
うっすらと涙を滲ませる流架に、男たちは歪な笑い声を漏らす。
(……誰か……!!)
祈りが天高く突き上げたその時、頬をすり抜ける柔らかな風が吹いた。落ち葉が舞い上がって、つられたように三人は揃って首を動かす。見上げた空には、一人の男が月を背に立っていた。
「やあ。お兄さんたち、趣味悪いねぇ」
にっこりと笑った彼は、金の光をはためかせ、まるで物語の中の王子様のように不敵に目を輝かせていた。




