第一章・時つ国(3)
声もなく目を見張る流架に、万智は言葉を重ねた。
「きっと幸せになれるよ、流架。流架だって言ったじゃないか、思い出さないほうがいいのかもしれないって。俺は流架を幸せにする自信がある。二人でなら、きっとうまくやっていけるよ」
――幸せに。何もかも忘れて。けれどそれは、何もかもを放棄することだ。万智と二人、優しさの殻に閉じこもるということだ。
……出来ない。そんなことは。流架は顔を伏せ、呻いた。
「……万智、離して」
喉から絞り出したようなか細い声で、離して、と繰り返した。
「あ……ああ、ごめん……」
思っていたより腕に力を込めていたことに気付き、万智は慌てて流架を解放した。けれど痛みはまるで変わらず、じんと痺れた腕を引っ込めた流架の頬からは銀の粒が滑り落ちた。
泣き出した流架を見て、万智は狼狽した。
「る、流架」
「違う。違うの」
流架は涙を拭いながら首を振った。
「万智のせいじゃないの。……でも、ごめんなさい……」
そのまま顔を覆って擦り切れるように泣き出してしまった少女に、万智は弱りきって肩を落とした。万智は膝を曲げ、流架の目を覗き込むようにしてゆっくりと語りかけた。
「……分かるよ。流架は不安なんだよね。記憶が戻らない今、自分の身の振り方を決められないんだ」
流架は小さく肯定する。怖いのだ。目に映る何もかもが信用できなくて、一歩も動けない。
そっと頭を撫でて、万智は目を細めた。
「ゆっくりでいいんだ。ずっと先でいい。だから、考えてくれないか? ――その、俺が流架に相応しいかどうか」
優しく撫でる手のひらは温かくて、流架への労りと深い愛情に満ちていた。流架は震える肩を堪えながら、大きく体ごと頷いた。
それから、二人は何とか日が暮れる前に一座にたどり着いた。天幕の群れが見えた途端、万智はまるで流架を避けるように、買ってきた日用品を倉庫に置きに行ってしまった。
一人ぼっちになってしまい、手持ち無沙汰になった流架はふうと息をついて、泥の跳ねた裾を叩くと、一番大きな天幕に寄りかかるように腰を下ろした。一度もたれかかると、みるみる力が抜けていって、天幕が背中の形に沿って弛んだ。
だらけた姿勢のまま野原に落ちていく爪の先ほどの夕日をぼんやりと眺めて、何故――と考えた。何故、自分は万智の心からの申し出を無碍に断ってしまったのだろう。万智は優しい人だ。いつも流架のことを案じてくれている。きっと結婚しても幸せになれるだろう。なのにどうして、あの時頭に浮かんだのは目の前の万智のことでなく、会ったこともない王のことだったのだろう――。
訳の分からない感情に胸を詰まらせて、流架は膝に顔を埋めた。太陽は紅玉のような鮮烈な赤をしていて、その眩しさに目を細めると、脳髄の奥深くで声が響いた。
『笑って』
全てを包み込むような柔らかい声だった。どこか記憶に残る男性の声に似ていて、懐かしくも温かい、幸福の塊のような声をしていた。
あなたは誰? あの王様? それとも全く違う別の誰か……?
暗闇に返事はなかった。当然だ。
瞼を下ろし、流架は考える。自分は一体どうしたいのだろう。ここにいれば、流架はいずれ万智と結ばれることになる。万智は決して強制などしないだろうが、他の団員たちがそれを望んでいる。他に道はない。
いっそのこと、僅かな記憶を頼りに、宛もない旅に出てみようか。万智との平穏な未来も、この数ヶ月間の思い出も何もかも捨てて。
それはきっと、流架の想像を遥かに飛び越えた、全くの未知の世界なのだろう。けれど失った記憶を取り戻しに行くなんて、今の流架には途方もない話だった。広大な砂漠の中に落とした金貨を探しに行くようなものだ。その金貨が王だと言うなら尚更、手立てなど何もないように思われる。
(思い出すことなんて諦めて、真剣に考えたほうがいいのかもしれない。万智のこと……)
泣き出しそうになるのを堪え、きゅっと下唇を噛む。
――けれどどうしてだろう、流架には万智と寄り添い歩いていく、そういう平凡で穏やかな未来が見えないのだった。だからきっとあの時、彼の手を取れなかったのだ……。
考え込んでいた流架の手はいつの間にか解けていって、ぽすんと草むらに落ちた。
微睡みの中で、流架は夢を見た。
塗り込めたような暗闇の中、何故か流架は小さな子供になっていて、独りきりで縮こまっていた。寂しくて恐ろしくて、孤独に震えながらくすんくすんと泣いていると、突然闇を払いのける一条の光が差し込んだ。顔を上げると、そこにはいっぱいの笑顔があって、大きな手のひらが流架の濡れた頬を包みこみ、そうして怖かっただろうと慰め、指先で涙を拭ってくれた。
その時流架は、この人はずっとこうして流架を探し歩いてくれていたのだと気付いた。
――会いたかった。ずっとずっと会いたかったの。わたしも、ずっとあなたを探していた――
歓喜とともにその胸に飛び込む。母のごとき温かな腕に包まれて、流架は深い眠りに落ちていった。
*
「……か、るか」
ゆさゆさと肩を揺すぶられて、流架は浅く覚醒した。
「ん、んん……?」
眠気を帯びた目を擦る。霞む視界に、棒切れのように細い腕と、ぼさぼさの髪が映った。
「るか」
間近に迫る顔面に驚いて、流架は尋ねた。
「……タユタ?」
タユタはこくんと首を傾ける。そうすると日に焼けた髪はいっそう色褪せて見えた。
タユタは硝子玉のような瞳で流架を見つめて、小さく告げた。
「だんちょう、よんでる」
「え? 呼んでる……?」
「しけん」
「試験……って」背筋に水が伝うように冷えていく。「……みんなの前で踊るってこと?」
タユタが深く頷いた。遂にその時が来たのだと知った流架は、ぞくりとして震え上がった。それは緊張ではなく、純然たる恐怖だった。とうとうこの日がやって来たのだ。どんなに心地いい日でも、影のように付き纏い離れなかった、『対峙』という恐怖が。
この一座の中、流架は極めて異質だった。優しい眼差しを向けてくれるのは万智とタユタだけで、軽業を教えてくれる師匠ですら、いつも流架を舐めるように下から上へと眺めた。タユタが殆ど懐く様子を見せないのも当然のことだと、流架は思っていた。彼らは一座の固い結束のためか、異分子には――それも流架やタユタのように、変わった事情を持つ人間には、ひどく冷淡だった。
そんな彼らに芸を精査されるという『お披露目』。果たして流架にどんな目が向けられるかと思うと、針の筵の上で踊らされる繰り人形のような心地がした。
しかし、
「……分かった」
顎を上げて、流架は答えた。
「先に行っていて。わたしは準備してから行くから」
タユタは心得たようにその場を離れていった。彼女がいなくなったのを確認してから、腹に淀む重苦しさを押し込めて流架は立ち上がった。そうしなければ、聡い彼女に弱気を悟られ不安にさせてしまうからだ。タユタはまだ芸を覚えていない。団員と関わることが出来ない彼女が芸を覚えるのは、もっと先のことだろう。その時、下手に怖がらせたくなかった。
けれど、立ち上がろうと膝に手をついた体勢のまま、流架は固まってしまった。
――怖い。ぎょろぎょろと流架を観察する、あの不快な目つきを思い出すだけで、足はいっそう萎える。
それでもここにいたいならば、流架は舞わなければならない。まだ身の振り方を決めたわけではないが、とにかく今はこの課題をやり遂げなければ、流架に居場所はないのだ。記憶のない流架には他の女たちと違い、行く宛がない。いくら治安のいい惟とはいえ、少女一人が身一つで生きていくのは容易くなかった。
『ずっと俺の傍にいればいい』
万智の言葉を思い返して、胸が締め付けられる。
(ずっとずっと……ここに……)
流架は胸に手を当てて、触れた硬い感触を握り締めた。
不思議と、『これ』に触れると流架はいつも心が落ち着いた。何の変哲もない、ただの石ころだけれど、記憶を失った流架が唯一ずっと身にしていた品だった。普段は服の奥に隠れているそれを引っ張り出して、流架はそっと囁きかけた。
「……守ってね」
祈るように胸に押し当てると、冷たいはずの小さな水晶は、ふわりと熱を放って全身を包んだ。




