第二章・月下(1)
耳鳴りがしそうなほどの、無音。
鼓膜が張り詰める静寂の中、翠はどろりと濁った目を空に向けた。執務室の硝子窓からは、白く光り輝く月が覗いている。望月の今日はいつになく地上の傍近くで輝いているように思えた。差し込んだ光も明るく机上を照らしている。
「月がお好きなのですか?」
薄暗闇に控えていた斗来に問われ、翠は歯噛みした。
「……いや。大嫌いだ」
乱暴に肘をつき、目を伏せる。
「嫌なことばかり思い出す……」
瞼に浮かぶのは、花のように散った血の赤だった。
あの日、月は出ていなかった。新月だったのか記憶にないだけなのか、それは今思い返しても分からないが、とにかくあの姉が亡くなった夜、空を照らしていたのは満天の星明かりだったのだ。
だというのに、何故だかあれ以来、月を見るとどうしても苦い思い出ばかりが蘇ってくる。手の中に残る温もり、背の向こうで泣き縋る哀れな少女の声。二度と帰らぬ、待ち人の姿。
「……ぅ、」
途端に翠が嘔吐いたので、慌てて斗来が駆け寄る。心配する彼を制して、翠は何かを抑えつけるように手首を握り潰した。
「いつものことだ。心配するな」
「陛下……ですが」
「もう下がっていい。……負担をかけて済まないが、見張りを頼む」
斗来は震える唇を一文字に引き結んで、悲しそうに首を振った。そして背中を心持ち丸めながら、そっと退出していった。
一人になって、翠はようやく安堵のため息をついた。
(みっともないところばかりを見せる……心配をかけて)
門番が皆殺しにされるという前代未聞の事件以来、一人生き残った斗来は忠義深く翠に仕えてくれていた。彼の王に対する信念は純粋で揺るぎがなく、神と同一とも言える翠を心から敬愛していた。
だが、宰相が姿を隠し、御家方が職務を放棄して以降、人心は大きく宰相へ傾きつつあった。
今や身辺の警護を任せられる衛士はごく僅かとなり、必然残された彼らにはかなりの激務を強いることになった。これは何も衛士に限った話ではなく、翠が信頼し周辺を委ねられる人間は女官にしても官吏にしても、あまりに少なくなっていた。それだけ多くの人間が翠に背き、去っていったのだ。
「……何故だろうな」
いるはずのない姉へ囁く。
何故、努力すればするほどに、全て失っていくのだろう。掌中から砂がこぼれ落ちるようにさらさらと、大切なものはこの手の隙間から滑り落ちていく。
「……寒い」
目を覆って、翠は呟く。
「……寒い……」
手元の懐中時計が、カチ、と無機質な音で時を刻む。
繰り返す言葉を聞く者は誰もいなかった。
*
男たちは顎が落ちそうな程口を大きく開き、呆気にとられていた。驚くのにも無理はなく、目の前の青年はそれだけ異質だった。
彼は満月を背に、民家の屋根の上に立っていた。腕を組んで見下ろすその堂々たる様は正に王者の風格で、こちらに余計な口出しをさせぬものがある。彼は驚愕する面々を順繰りに眺めて、満足げに笑みを深くすると、ふわりと跳躍した。まるで重さのない羽のように鮮やかに着地する。
すっくと立ち上がった彼は案外長身だった。今まさに誘拐が行われようとしている現場を前にして、彼は物怖じせずに言い放つ。
「ねえお兄さんたち、女の子を誘うのに、それはちょっとどうかと思うよ。いくら見向きもされないからって乱暴が過ぎるんじゃない?」
男たちは唖然としている。こんな場面を目撃しておいて、まるで酒宴に誘い込もうとしていたように述べる彼はどこか得体が知れなかった。
青年が長い髪を揺らして一歩近付くと、男は慌てて流架の口を塞いだまま距離を開けた。
「何の用だ」
「言ったでしょ? 俺って親切だからさ、可愛い女の子が変な男に拐されそうになってるのを見過ごせないんだって」
「お前には関係ない。そもそも俺たちは誘拐犯じゃないんだ。こいつは俺たちの仲間で、流架という。記憶喪失になったところを面倒を見てやっていたのに、道に迷ったのかいつまでも帰ってこないから、わざわざ俺たちが探しに来てやったんだ」
「ふうん?」
口の端を持ち上げて、考えるような仕草をしながら彼はのたまった。
「なら、俺はやっぱり今ここで、この子を連れて帰らなくちゃいけないなあ」
「はあ?」
男たちはぽかんとする。
「だって、その子は俺の知り合いだからね。記憶を失う前のさ」
「な……っ?!」
面食らったのは流架も同じだった。
目の前でにっこりと笑う青年。彼には見覚えがある。明るい金の髪、大量の装身具、独特の人を喰ったような艶っぽい微笑み。市場で出会った、烏のようなあの青年だ。
しかし、彼は今朝出会った時、それとなく流架の名前を問い質しただけで、知り合いなどという話は一切口にしなかった。もし本当に彼が流架の知り合いならば、きっと今の流架のようにびっくり仰天して、感情のままに問い詰めていただろう。
彼は多分、嘘をついている。けれど、だとすれば何故?
「名前も知っているよ。この子の本当の名前は榛名。歳は十五の女の子。他にも知りたいならいくらでも教えてやるよ。さ、自分がどれだけ不相応な存在なのか分かったら、とっとと下がりなよ。三下」
「三下だと?!」
「俺のことを知らない時点で、お前らは三下なんだよ」
安い挑発に、脂っこい髪をした男が乗った。
「なめるな餓鬼!」
短刀が風を切る。完全な不意打ちを、青年はあっさりと避けた。唇を噛んでそこから繰り出される第二?、そのまま横薙ぎに振り下ろす第三?、どれも青年はまるで蝶の羽ばたきのようにひらひらりと優雅に躱した。
踊りながら、彼はくすっ、と吐息を漏らす。
「まだやる?」
そう言うと、青年は腕を前に構えた。腰に下げた立派な刀があるにも関わらず、敢えて無手で戦うつもりなのだ。
男は額に青筋をたてて叫ぶ。振り下ろされた軌道は闇に光ったが、怒りが太刀筋を単純にした。青年はまたしても半身を反らし軽々と避け、男の側部に回り込んだ瞬間、大きく手を打ち下ろして、男の手首を叩き落とした。
「ぎゃああああ!」
短刀が道端に転がった。痛みに喘ぎながら男は腕を押さえる。綺麗に手刀が決まった手首はよくとも捻挫しているだろう。
あまりの力量差に、流架を捕らえていた男の手が震え出した。
短刀を拾い上げた青年は、銀の光を男に向ける。
「さ、その子を離してくれる? まあ、おじさんたちがあくまで飛燕を敵に回したいというのなら、こちらも望むところだよ。手加減も容赦も一切なく、裸で許しを乞いたくなるまで相手をしてやってもいいけれど?」
人を脅しながらも全く変わらない笑みが背筋に迫った。
すっかり圧倒され、膝を笑わせながらも、男は流架の頭上で唾を飛ばした。
「飛燕だと?! 有り得ない! お前のような餓鬼が!」
飛燕。――それはこの国一番の盗賊を示す名だ。例え異国の人間であっても、飛燕の名を知らぬものはいない。大国惟に寄り添うように発展してきた巨大組織。国中に根を張り、流通を商いとし、その影響力は他国にも及んでいる。今でこそ商人のようなことをやっているが、本質である絶対的な暴力は消え失せていない。飛燕に背を向け、三日と生きられる者はいないと聞く。
その肌に傷一つ見当たらない、およそ盗賊とは無縁に思える出で立ちをした青年が、あの飛燕の人間であるはずがない。
しかし、彼はそれ以上のことを平然と言ってのけた。
「実はさあ、俺って飛燕の頭だったりするんだよね。見えないってよく言われるけど」
「お前のような餓鬼が……? そんな訳がないだろう!」
怖気づきながらも笑い飛ばしてみせる男に、面倒そうに髪を払いながら彼は肯定した。
「うん、まあ信じてくれないだろうと思ったけど。でもさあ、少しでも飛燕のことを知っているなら、これも聞いているはずだよね? 飛燕は決して、仲間を傷つけた人間を許さない」
ぐっと喉を詰まらせる。それは飛燕の鉄の掟。彼らは仲間を何より重んじ、一度これと定めた敵を逃さない。一度的となってしまえば最後、狼が群れをなして猟をするが如く、徹底して追い詰められる。
「さ、おじさん。どうする? 選んでよ。俺が飛燕の頭であることが真実か知りたいなら、今ここで思う存分叩きのめしてあげるし、かかってくるなら、その後の命は保証しない」
その言葉で観念したのか、男は流架からゆっくりと腕を離し、両手を上げた。突然解放されて戸惑う流架の手を青年が引っ張る。
「散りなよ。お兄さんにもし意地があるならお仲間を連れて報復に来てもいいけど、この麓鳴で飛燕を敵に回して無事に済むとは思わないでね」
「くっ……」
憎々しげに舌打ちしながらも、男は踵を返した。彼に従い、怪我をした男もひょこひょことその後ろを追いかけて去っていく。
緊張で凍りついていた裏路地に本来の麓鳴の温かさが戻ってきて、流架はやっと緊張が解けた。どっと疲労が押し寄せて、ようやく自分が寸でのところで助かったことに気付く。怖かった。もう駄目かと思った。怖かった。
己を抱え込んで青い顔をしている少女に、彼はけろりとして話しかけてきた。
「大丈夫? 流架ちゃん」
流架が目を向けると、彼は子供のようにくしゃっと目尻を下げた。その太陽のような眩しさに、悪い人ではないのだと少しだけ安心する。
「あの」流架はおずおずと尋ねた。「あなた、誰ですか……?」
男は首を傾げ、「ん、俺?」と自分を指差した。流架が頷くと、
「どうも、流架ちゃん。俺の名前は影虎。君とは今朝も会ったよね」
からっと自己紹介して、手を差し伸べた。流架は怯えたように彼の手と顔を交互に見交わしながらも、その硬い手のひらに自分の手をそっと重ねた。
「影虎さん……は、どうしてわたしを助けてくれたんですか? わたしのこと本当に知ってるんですか? 榛名って誰ですか? 飛燕の話は嘘なんですか?」
あまりに矢継ぎ早な質問に、影虎はくすくすと喉を鳴らす。
「色々と聞きたいことがあるみたいだね。まあそれは歩きながら追々説明するよ。ついてきて」
「待って! あの、わたしを逃がしてくれた人がまだ……」
影虎は足を止めた。
「どういうこと?」
「あの人たち、奴隷商なんです。わたし、そこから逃げ出してきて……一緒に逃げた子や、足止めしてくれた人が残ってるんです。二人を助けてください」
影虎は初めて渋い顔になった。
「……分かった。それは探しておくよ。でもそれなら君は今すぐ安全な場所まで逃げなくちゃいけないね。君まで捕まると手がかりがなくなる」
「はい……でも、探すってどうやって」
「こうする」
影虎は胸元に手を突っ込んで、細い銀色の筒を取り出した。小指ほどの長さしかないそれを唇にあてて、息を吹き込んだ。
小さな銀色の筒は大気を大きく揺らした。巨大な波が街を走り抜けていって、そこら中から反響が返ってくる。街いっぱいに音が広がって、流架が目をぱちぱちさせていると、近くの民家の扉が開いた。そこからひょっこりと顔を出した男性は、影虎を見つけて柔和な顔つきを更に緩める。
「どうしたんですか? 影虎さんが鳴らすなんて、珍しいですね」
「あれ、津路人そんな近くにいたの? 『鈴虫』の甲斐がないな」
「往診中だったんですよ」白い前掛けを見せ、男性は目尻を下げる。「何かありました?」
「ああ、悪いけどちょっと人探ししてくれない? ――流架ちゃん、何て子?」
「あ」流架は一寸まごついた。「あの、一人はタユタと言って、亜麻色の髪に空色の瞳をしている異人の子です。まだ小さくて、あまり喋れません。もう一人は万智と言って、金茶の髪に瑪瑙のような赤い目の男の人です」
「万智?」影虎は少し首を捻ってから、「一応、ナツにも探させて」と津路人に頼んだ。
分かりました、と津路人が請け合うのを確認すると、影虎は再び流架の腕を引っ張って歩き出した。流架は慌てて声を張り上げる。
「あ、あの、捜索ってたった二人ですか?!」
申し訳ないが、津路人という男性はどう見ても武闘派には見えなかった。細身で、身長も流架より少し高いくらいだ。彼とあともう一人、その人数であの一座から二人を取り戻せるとは到底思えない。
「まさか。津路人が仲間に頼んでくれるよ。流石にいくら飛燕といえど、二人だけで人探しなんて出来るわけないし」
「飛燕? 飛燕って……」
「あの話は本当。俺は飛燕の頭をやってる。ま、今は色々と事情があって殆ど顔を出していないけど」
「そんな人とわたし、知り合いだったんですか?!」
思わず叫んだ流架に、影虎は腹の底から声を上げた。
「そんな人って、俺どう思われてんの」
流架は恥じ入って俯いた。本人を目の前にして、随分失礼な物言いをしてしまった。
影虎はそんな流架を気に留めず、くつくつと可笑しそうに言った。
「まあね、噂だけ聞いてるとそう思うのも分からなくはない。でも実際には飛燕なんて大したもんじゃないよ。入るのに特別な資格や試験があるわけじゃないし、中には赤子の構成員までいる。勿論、大人でも津路人みたいな非戦闘員も沢山いるし、ただ大所帯ってだけだよ。それに俺は名ばかりの頭で、実際は仕事を副長に任せて放蕩してるだけの男ですから」
肩を竦め、影虎がおどけてみせる。振り返ったその瞳の深さに流架はどきっとした。
そこには夜空があった。幾重にも青を重ねたような群青の中に、白い月光が差し込んで、透き通る紺藍と瑠璃の色を作りだす。星の瞬きのうちに移ろうその輝きは、どんな宝石よりも美しかった。
「それは」
吸い寄せられるように、流架は呟く。
こんな色を、流架は一つしか知らない。この世を統べる、唯一至高の色。
「……碧?」
我知らず喉をついて出た言葉に、影虎は微笑んだ。
「そう。俺は――碧の瞳だよ」




