第九章・永訣(5)
どくん。
どくん。
心臓が鼓動するたび、全身に波が広がっていく。
不思議な感覚だった。体は空っぽで、まるで柔らかい殻に包まれた心臓だけの生き物になったかのようだ。波打つ胸は暖かくて、胎児のように体を屈めて、その安らぎに身を委ねる。
すると、そっと榛名を包み込む誰かの手を感じた。ふいに懐かしい匂いがする。
(――碧……?)
名前を呼んだ瞬間、頭に鋭い痛みが走った。
「……っ!」
割れるような痛みが、鼓動に重なる。ぼやけていた体が、それに伴って強制的に輪郭を取り戻し始めた。幾層にも分かれた肉体が足先、指先と次第に合わさっていく。
いつの間にか頭痛は引いていった。
重さを取り戻した肉体は、どすんと現実に落とされる。
そして初めに感じたのは、頬の冷たさだった。
ゆっくり瞼を開くと、目の前には白い石畳が広がっている。
何度も瞬きをして、ぼうっとしていた榛名はやっと現状を理解して飛び起きた。
「え? ……あれ? ここ」
きょろきょろと見渡してみると、そこは惟の宮殿だった。
しかも、昔の時代のものではない。古びた色合い、ところどころ下ろされたチェーン。榛名が初めて見た、惟の宮殿の跡地だった。
「……え? でもわたし死んじゃったような……」
思わず疑問が口をついて出た。
腹を刺されたのははっきり覚えている。鳩尾を貫かれ、止血の間もなく死んだはずだ。腹部をまさぐった榛名は愕然とした。血痕も、服が破れた跡もない。それどころか、着ていたはずの服はいつの間にか制服になっていた。恐る恐る服をめくってみたが、白い肌には赤い筋すら残っていない。
「……どういうこと……」
ぽつりと呟いたが、答えは思い浮かばなかった。
榛名はあの時確かに傷を負い、死んだ。それは間違いない。なのにどうして傷が綺麗に消えていて、しかも制服姿でここにいるのだろう。
――まるで、夢を見ていたかのように。
「起きたようだね」
突如背後から聞こえた声に榛名はひゃっと飛び上がった。驚いて振り返ると、幾重にも帯を垂らした奇妙な格好をした男性が、膝を折ってごく近くからこちらを覗きこんでいた。
子供じみた体勢で首を傾ける、その変な男性に榛名は見覚えがあった。気付くとみるみる青ざめて、反射的に身を引く。彼はそれを予測していたかのような素早さで榛名の腕を鷲掴むと、満面に笑みを浮かべた。
「君は僕の形代のことを覚えているんだね。大丈夫、そう怯えないでくれたまえよ。危害は加えない」
榛名は頑なに首を振った。僅かでも距離を取ろうとじりじり後退するのを見て、彼は溜め息をついた。
「全く、以前だって僕は君があんまり酷い目に合いそうな時には助け舟を出していたじゃないか。形代も作るのも案外手間だというのに……」
いじけたようにぶちぶちとこぼす彼は、格好こそ違っていたが、そのブルーグレイの瞳は疑いようもなくヨルドたちの仲間の一人、レイだった。
何故ずるずると裾の長い奇妙な服を着ているのかは分からないが、あのグループの一員であるというだけで榛名には充分だった。どんなことをされたか忘れるはずもない。
威嚇するように見つめる榛名に、レイは困ったように唸ったあと、名案が浮かんだとばかりに手を打った。
「分かった。では君はそこにいてくれたまえ。僕は少々離れて話をしようではないか。それならば少しは話を聞く気になるだろう……」
そう言って腕を放すと、長い裾をずるずる引き摺って後退した。
話をする気など全く起きなかったが、離れてくれるのであればと、榛名は黙ってレイの話を聞いていた。
「さて、聞きたいことが色々とありそうな顔をしているね。何でも聞いてくれて構わないよ。僕にはちょっとばかり過失があるようだからね……。ただし、何でも答えてくれるとは思わないほうがいいな。僕は存外説明が下手なんだ。司には必要のない資質だから、苦労したことはないがね」
「司……?」
「そう。魂の守。眠る力に寄り添うもの」
榛名は顔を引き攣らせた。
「……い、意味が分からない」
「言ったじゃないか、僕は人に教えるのが苦手なんだ」
「あの、わ、わたし死んだと思うんですけど」
「ああ、そのことか。次元を飛ぶときに僕が治したよ。実際、君が死に掛けたのは僕の都合だしね」
「……え?」
「言ったじゃないか、僕はきみにちょっとばかり過失がある」
似たような問答を繰り返すことにレイは少しむっとしたようだった。しかし死に掛けるのは『ちょっとばかり』の過失ではないのではないだろうか。
だが、そもそも榛名を刺したのはキールで、襲ってきた集団の中にもレイはいなかった。過失があろうはずもない。はっきり言えば、彼の話は意味不明だった。より警戒を強める榛名を見て、レイはやれやれとばかりに首を振る。
「意味が分からないという顔をしているね。しかしこちらとしても、何しろこういうことは初めてなんだから、多少の不得手には目を瞑ってくれたまえよ。仕方ない、そうだなあ、まずはそもそもの始まりから話をしようか。これは僕にも疑問なんだが――君、どうやってここに来たんだい?」
「え? ……あの、それはわたしも聞きたい……んですけど」
「今回は僕が連れてきたんだ。現世へ戻るには簡単だ、そこの鳥居を出て階段を一歩下りたら君の世界だよ。今すぐ帰りたいかもしれないが、ま、とりあえず今は話をしよう。君は多分勘違いしているだろうけれど、ここは君みたいな普通の人間が紛れ込めるところじゃないんだよ。僕が結界を張っているからね。なのに君は何故かここに入り込んで、その上門を通り抜けて行ってるんだよねえ、あっちの惟に」
「……覚えがないんですけど」
「そりゃそうだろう。変な通り抜け方をしたから、君、しょっちゅう頭を痛がってたじゃないか」
「え……っ」
驚いて声を上げた。確かに頻繁に頭痛に襲われていたが、まさかそんな理由があったとは。しかし、やはり何も思い出せなかった。榛名はただ普通にここを訪れて、水晶の力で瞬く間に昔の惟へ運ばれた。それだけだ。
レイは戸惑う榛名を見て、手を顎に添えて唸った。
「ふむ、まあ僕にも今回のきっかけというのは実のところよく分かっていないんだ。だから君は夢でも見たと思ってくれて結構だよ。凡そ間違っちゃいない……。それで、君は事故としてあっちに行っちゃったわけだけれど、当然僕には過失があるからね、助けようとしたさ。形代まで作ってそっちに行かせたんだから、努力は認めてくれたまえよ。しかしねぇ、中々人一人を連れて戻ってくるっていうのは難しくてね。色々考えたんだが、君が死に掛けたら君の魂というのかな、光も弱るから移動させやすいという結論が出た」
榛名は唖然とした。要するに彼は、榛名が死に掛けるのを待ち構えていたと言っているのだ。
「で、どうだい。首尾は上々、ばっちりじゃないか。見事君をこっちに戻せたし、怪我もきちんと治せた。ああ、サービスとして血まみれになった服は捨てといたよ。どうだい、凄いだろう?」
鼻高々と胸を張るレイに、榛名は声を張り上げた。
「どうしてそんなことしたの!」
レイは本気で榛名が褒めてくれると思っていたようで、目を丸くして不思議そうに尋ねた。
「……君は変わっているなあ、破れた服が好きなのかい?」
「そうじゃない、そんなことじゃなくて、わたし、あのまま惟にいたかったのに……」
榛名は顔を覆った。こんなのあんまりだ。思い出も残らず捨てられて、榛名の意思も聞かずに連れ戻すなんて、勝手すぎる。
「君、僕が言えたことじゃないが、それは親不孝というものだよ。いい夢を見たから二度寝したいだなんて、それじゃあちっとも朝食が片付かないじゃないか」
「ご飯の話なんかしてない!」
榛名が噛み付くと、レイは大真面目な顔で説き伏せた。
「そうやって子供は母親を軽んじるがね、君、毎日の献立を考える母の苦労を思えば、朝食を急いで食べるくらい、さしたる手間ではないはずだよ」
あまりの話の通じなさに、榛名は頭を抱えた。
「あなたと話してると頭がおかしくなりそう……」
「よく言われる。それ褒め言葉かい?」
けろりとして笑う。
つくづく彼は尋常でない価値観の持ち主のようで、榛名が困れば困るほど愉快なようだった。形代などと訳の分からないことを言っているが、確かにあの実直そうなレイとは丸っきり別人だ。榛名は呆れて肩を落とした。
「あなた、前のレイと全然違う」
「そりゃそうさ! 形代と本物が似ているなんて正気の沙汰じゃないよ。考えるだけでぞっとするね。でも大丈夫、あれはもう処分済みだ」
「処分?」
嫌な予感がする。眉をひそめる榛名に、レイは大げさに首を振った。
「ああいや、僕がやったんじゃないさ。どのみち処分するつもりだったんだけれど、その前にキールって奴がちょっとからかったらぐちゃぐちゃにしちゃってね。まあ使用済みだから構わないよ。寧ろ手間が省けたさ。長く放っておくと腐るしね……。あ、詳しく聞きたいかい?」
「いい」
榛名はぐったりとして項垂れた。レイとの会話は、何だかひどく疲れる。
レイは人の気も知らず、そうかい?、とうきうきしている。
「一聴の価値はあると思うけどね。なに、どうせ死ぬんだからちょっと盛り上げてやろうと思ってね、軽く命乞いしてみせたら、あっちはもう有頂天で滅多刺しさ。それもじわじわとやるんだから、こっちは断末魔を上げてみせる。いや、中々にいい見世物だったよ」
「……。形代って何? あのレイはあなたじゃないの?」
「当たり前じゃないか。あれは泥人形みたいなものだよ。魂が入っていないからあっちにも簡単に行けるし、僕も介入できる。ま、時間が経つと腐るのが難点だけどね」
「……」
想像すると気分が悪くなって、榛名は塞ぎ込んだ。
体を抱え込む榛名に、レイは何故か喜色を浮かべてにじり寄ってくる。そして小鳥のように首を傾げた。
「落ち込んでいるところ悪いけれどね、君に少し質問があるんだ」
「質問?」
やたらに多弁なレイだが、きちんと質問されたのはこれが初めてだった。榛名は重たい頭を上げる。
だが、レイの言葉はそんな榛名の頭を冷ますには十分だった。
「君、何故惟なんて国を知っているんだい?」
「え……?」
だって、と言い募ろうとしたのを遮られる。
「君の世界に、過去にも未来にも惟という国はないよ。言っただろう? 普通、ここにも来ることは出来ない。本来ならあの石段を上った先には古い神社があるんだ。人も来ないような、小さなね」
「そんなはず……」
囁いた瞬間、小さな痛みが電流のようにこめかみに走り、突然パズルのピースが埋まった。
はっと息を呑む。確かに榛名の生まれ育った街には、惟の遺跡なんて存在しない。いや、歴史にその名すらない。
何故そのことに気付かなかったのか――答えは明らかだった。その違和感を感じた瞬間に、強烈な頭痛がやって来ては、記憶が失われていたからだった。
榛名はわなわなと震えながら首を振った。
「わ、分からない。……な、何で……だって、わたし……」
レイは案外素直で、それ以上榛名を混乱させようとはしなかった。
「ふむ、どうしてかは覚えていないか。ま、やっぱり何か事故があったんだろう。僕がうっかり昼寝をしていたとかね……。とにかく、もう二度とこんなことが起きないように結界を強めておかなくてはいけない。本当に大変だったんだから」
そう言うとレイは立ち上がろうとしたので、榛名は慌てて追い縋った。
「待って! それじゃあ惟は本当は実在しなかったの? あなたの言うように、わたしの……夢だったの?」
レイは袖を掴む手が震えているのを見て、深くため息を落とした。
「それを聞いてどうするんだい?」
「どうするって」
「あれは胡蝶の夢だよ、君は夢と現実の境が分からなくなっているんだ」
「違っ……違う! ちゃんとあった! だってわたし、碧と影虎と、みんなとたくさん過ごしてきた。今もちゃんと覚えてる、何があったか、どんな話をしたか……」
「それを証明するものは何か残っているのかな? ――何もないだろう。それは君の見た夢とどう違うんだい」
榛名は声を失くした。確かに服も消え、ブレスレットもなくし、傷一つ残っていない。死にかけたところを連れ戻されたなんて、人に話せば笑われるような夢物語だろう。けれど。
「……わたしがみんなに出会ったことは、感じた思いは、碧が好きだったことは、嘘じゃない」
涙を浮かべて言い切った。
あの時感じた気持ちは、夢だったなんて軽い言葉で済ませられるものじゃない。一生分の夏、命懸けの恋をした。今もあの温もりが傍にある。幻なんかじゃない。あの世界は確かに存在していた。
弾けるように榛名はその場から逃げ出した。
目指すは鳥居。――大門だ。そこに何があるかは分からないが、何らかの確信を求めて榛名は走った。
きっとある。碧が見せてくれた、あの素晴らしい世界が。何もかも夢だったなんて、信じられるはずがない。
レイはやる気のない声で「おーい、逃げなくてもいいじゃないか」と言いながら、後ろをのろのろと歩いてきた。ちっとも追いかける気がなさそうだ。
とうとう錆びた赤の鳥居が見えて、その柱に手をついた時、榛名は荒い息を整えながらゆっくりと顔を上げた。
しかし、そこに広がっていたのは、絶望的な光景だった。
てんでばらばらな建物や場違いなマンション、そしてその間を縫うように走る車。雑多で薄汚れた灰色の光景は、間違いなく榛名の世界だった。
「……何で……」
榛名は虚脱したように石畳に膝をついた。
「違う……」
「違うって、何がだい?」
追いついたレイは歩きだったのにも関わらず息が荒くなっていた。
「言ったじゃないか、夢だって。この石段を一段降りて、振り返ったらもうここは消えているよ。そりゃ君は今でこそ夢じゃないと言い張れるだろうが、どうだろう。二度とここを見つけられなかった場合、三年後、五年後、十年後……まだ夢じゃなかったと言い張れるかな。いずれ君はここで起きたことを忘れる。そうして昔いい夢を見たなって、たまに思い返すだろう。そんなものだよ。感じる痛みは今だけだ。じき慣れる」
「違う! わたし、ずっと覚えているもの。惟で過ごした日々のこと、一緒にいた人たちのこと、忘れたりなんかしない!」
「じゃあ君、五年前の夢を覚えているかい? 君の過ごした時間は確かに幸せなものだったのかもしれないが、それはちょっと幸せな夢を見た、それだけのことさ。誰にでもあることだよ」
「でもわたし……もうとっくに選んだの。碧と一緒にいるって」
「愚かなことだね」
「あなたにはそうでも、わたしには大事なことだった」
そう言って拳を固めた。軽い気持ちで決めたのではない。今でも会いたい人がいる。心配しているだろうと思うと、引き裂かれそうなほどに辛い。けれどそれ以上に、この思いを捨てることが出来ないのだ。
碧に会いたい。涙が頬を伝って、石畳に染みる。
会いたいとばかり啜り泣く榛名に、レイはとうとうお手上げのようだった。
「参ったね……」
しばらく黙っていたが、レイは突然思いついたようにポンと手を打った。
「そうだ、なにも何年も待たなくていいじゃないか。僕が今ここで君の記憶を消しちゃおう。そうだ、それがいいよ。何て親切なんだろうね僕は! 自分の紳士的な振る舞いには本当に参ったね!」
「な……」
どこが紳士的なのだと非難が口を飛び出す前に、レイは爽やかな笑顔で近づいてきた。彼には本当にそれが名案に思えるのだと知って、榛名はぞっとした。回り込むように後じさる榛名の背中に、鳥居がぶつかる。榛名は追い詰められた獣だった。
「そんなに怯えなくても、大丈夫、痛くしないよ。ちょっとばかし記憶を整理するだけさ」
「嘘つき! 危害は加えないって言ったのに!」
「加えていないじゃないか。記憶をちょっといじるだけだよ。これのどこがおかしいんだい? 人間が毎日当たり前にやっていることじゃないか。無駄な記憶を捨てて新しい記憶に入れ替える。それをちょっと手伝うだけだよ」
話が通じない。絶望的に。
榛名はくるりと身を翻して、鳥居を強く叩いた。
「助けて! 嫌だ……っ碧ぉっ!」
ここは異空間だ。誰も来るはずがない。まして碧に届くはずもなかったが、榛名は叫び続けた。碧に会いたくて、ただ会いたくて、もう二度と会えないと分かっていても呼ばずにはいられなかった。
「碧……っ碧!!」
*
石段を上る足取りは重く、まるで泥沼にはまったようだった。
ようやっと鳥居が見えてきたところで、碧は礼服を着た灰色の髪の男を見つけた。彼もまた自分の姿を発見してにわかに安堵の表情を浮かべたが、碧が単身であることに気付き、眉を曇らせた。それを眺めながら、碧は透が榛名のことを碧の予想よりずっと気に入っていたのだと知った。
「……陛下」
駆け寄ってきた透は、全身にこびりついた血の臭気に僅かに動揺した。
「服を持ってきてくれ。時間がない、ここで着替えてすぐに出る」
「少々お待ちください」
透は急いで走り去る。もう街に下りる時間は目前で、門番は出払っていた。こないだの事件での人員不足と街の警備で人がいないのだろう。人の出払った宮は、しんと静まり返っている。
鳥居を背にして体重を預けると、疲労がぐっと色濃く感じられた。胸に手を突っ込んで、黒ずんだ染みが目立つ紐をぼんやりと見つめる。結局何一つ残らなかった。巴も翠も榛名も――碧を残し、逝ってしまった。
碧は天を仰ぐ。晴れ渡った夏の空は、閉じたように暗かった。
「……何だったんだろうな」
手を伸ばし、日に透かす。だが幻は遠く、掴むことは出来ない。
「馬鹿みたいだ……」
己で傷つけ、己で失った。何かを為し得た気になっていた自分は、本当は誰も救えていなかった。
碧は袖で頬を拭った。見ると手の平にも血がついている。鳥居を汚したのではないかと振り返って、碧はふと気付いた。
鳥居の柱の端、目立たないところに刻まれた傷がある。石で削ったその跡はいびつで、けれど鮮明に伝えたかった思いを残していた。
いつか榛名が教えてくれた、唯一の言葉。
『スキ』
そっと触れて、なぞる。
碧は我知らず涙を溢れさせた。
「榛、名」
この言葉は彼女しか知らない。彼女だけの、愛してるの言葉だ。
涙を流しながら、何故か笑みが浮かんだ。榛名らしい、と思う。
酷い別れ方だった。榛名の意思など無視して強行した。その理不尽さに愛想を尽かしてもいいはずなのに、自分のもとから去る時でさえ、彼女は碧にかけがえのない言葉を残していったのだ。
いつも榛名はそうやって、降るような優しさを与えてくれた。碧が与えられるものは数少なかったのに、惜しみなく愛を注いでくれていたのだ。
なのに、最後まで碧の言葉は届かない。好きだと、運命を越えても構わないくらいに愛していると、その一言すら言えなかった。
「……榛名……どこにいるんだ」
碧は呻いた。死んでしまったと分かっている。もう二度と会えない場所にいってしまったのだと知っている。
だが碧は叫んだ。絶望からではなく、ただ会いたいと渇望する己の感情のままに。
「榛名……っ!!」
会いたい。会いたい。
幽玄でもどこでもいい。
ただ、会いたい。
碧は顔を押し当てて叫び続けた。
時を隔てた向こう側、榛名もまた同じ場所で呼び続けていることを知らずに。
*
榛名は自分の手が叩いた場所にふと気付いて、手を止めた。
ぽろぽろと木屑の零れ落ちる感触。はっとして確かめる。この古ぼけた柱の傷は、榛名が最初に写真に残したものだ。
そして、
「……嘘……」
この傷は――この傷を刻んだのは、榛名だ。
宮殿を立ち去る前に、碧に向けて残したメッセージ。届かなくても伝わらなくてもいいと、そう思って刻んだ言葉だ。
(……残ってる……)
突然動きを止めた榛名に、レイは首を捻る。
傷に触れながら、榛名は震える声で言った。
「……夢じゃない」
「まだ言うのかい?」
今度は力を込めて、榛名は言った。
「惟で過ごした記憶も碧を好きな気持ちも全部、ちゃんとここにある。夢なんかじゃない。わたしは惟で生きてた。わたし……」
涙声になって、榛名は顔を伏せた。
「……碧に会いたい……」
奇しくも同じ場所で、二人は互いを呼んでいた。決して越えられない壁を目前にして阻まれながら、同じ気持ちで。
レイは呆れたように肩を竦めた。
「君ときたら、案外諦めが悪いんだね。しかしねえ、私だって惟に直接は行けないんだよ。光が邪魔してね。だから形代を作ったんだが、君、形代じゃ嫌なんだろう? その様子じゃ」
「当たり前です!」
榛名は食って掛かった。形代が一体どういうものなのか分からないが、禄なものではなさそうだし、何よりレイのように別人になってしまうなんて真っ平ごめんだった。
それに帰りたいのは人形じゃない。榛名だ。別の誰かになりたいわけじゃない。
「無理矢理渡ってもいいけどさ、今回みたいに頭痛で済んだのはとびきり運がいいほうだよ。次は死んじゃうかもしれない」
榛名は躊躇なく、真っ直ぐレイを見据えて答えた。
「それでもいい。わたし、碧に会いに行きたい。このままお別れなんて、絶対にいや」
理解不能だね、とレイは小さく呟く。
「全く愚かだ。僕は止めるべきなんだろうな。一回成功したからといって甘く見ないでほしいよ。君は僕のことをちょっとばかり非常識だと思っているようだけれど、そんな僕にも良心の呵責というものはあってね、君に死なれちゃ少しばかり後味が悪いじゃないか」
「大丈夫です。死なないと思うから」
断言して、榛名は胸に触れた。じんわりと温かいそれを握り締めると、湧水のように自信が沸いてきた。
「これがきっと守ってくれる。そんな気がするんです」
「? ……それは……」
言いかけてレイは口を噤んだ。そしてにっこりと笑う。
「なるほど、君は確かに天運に守られているようだ。それなら僕が協力するのもやぶさかではないよ。ただね、危険があるのは確かだ。いくら加護があったって、死者の門を越えるんだ。何があるか分かったもんじゃない。もしかすると君が行きたい世界とはズレちゃうかもしれないし、君の会いたい人に会えるとも限らない。さっきも言ったように、君自身に何か起こるかもしれないしね。それともう一つ。残念だが形代にも色々と制限があってね、今度こそ僕は干渉出来なくなる。つまり、もう二度とこちらには戻れないよ。それを全部承知で行くのかい?」
榛名は深く頷いた。諦めるつもりは毛頭なかった。
「――わたし、言われました。惟での恋は命を懸けるものだって。それを承知で碧を好きになったんです。だから、もう怖いものなんてない。碧に会って、彼の運命を変えたい。それだけです」
怖じない榛名に、レイは嘆息した。
「……全く、仕方のない子だ。僕が説得するなんて百年とない珍しいことなのに、価値を知らないな。まあいいさ、なら扉を開こう」
レイに構わず榛名は歩き出した。説明の必要はなく、どうすればいいかは体が知っていた。
入り口に立って、鳥居を仰ぐ。――これで本当にお別れだ。
「後悔はしないかい?」
「しないよ。絶対」
レイの問いかけに、榛名は力強く答えた。
左手には、影虎の。右手には、碧の。――それぞれの誓いがある。そして、榛名自身が誓ったのだ。決して後悔しないと。
碧に会いたい。それだけのために、何を賭けてもいい。
目前の空間に小さな点が穿たれ、それが徐々に大きく広がっていく。碧い燐光輝くその輪を見て、榛名は思い出した。そうだ――ここを通り抜けて、榛名は惟に落ちたのだ。
一歩足を踏み出して、榛名は振り返ることなくその世界に飛び込んだ。
どこが床なのかも分からない光の世界は、何故か真っ直ぐに歩くことが出来た。どこまでも真っ白で、先は見えない。けれど、不安はなかった。歩けば歩くほど、段々色が変わっていく。懐かしいあの色――吸い込まれそうなほど美しい碧の光が視界を埋め尽くして、榛名は瞼が熱くなった。
待っていて。今、あなたに会いに行くから。
榛名は駆け出した。――全てを捨て去って、それでも彼を選んだ。何の力もない、隣にいることしか出来ないけれど、それでも。
碧。――あなたが好きなの。
走り抜ける榛名の耳元で、ふいに声が聞こえた。
「碧をお願いね、榛名さん」
はっと振り返る、その途端に碧い光で視界が塗り潰される。
そのまま意識が薄くなって、最後に見たのは何だったのか分からないまま、榛名は落ちていった。遠い、どこかの世界へ。




