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碧の瞳  作者: 古瀬ヒイロ
本編・胡蝶の夢
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第九章・永訣(4)

 それから、榛名たちは森に沿うようにして隣の藩、宗藩(しゅうはん)を目指すことにした。

 宗藩は首都麓鳴に次いで、二番目に大きな藩だ。麓鳴との一番の差は、その地形の殆どが海に面していて、巨大な港がいくつもあることだった。惟の流通の要である宗藩は人も物も出入りが多い。他国からしか手に入らない貴重なものは、必ず宗藩から麓鳴へと運ばれた。そのため二つの間の道は開拓されていて、宿にも困らない。女子供の足でも二日あれば辿りつけた。

 馬を引き連れ歩いていくと、次第に視界は広大な畑ばかりになった。元より農耕から始まった国なので、こうして市街を離れると未だに農業は盛んなのである。のどかな風景に、茫洋とした気持ちになる。

 まだ日は高い。働く男衆の姿を横目に、榛名たちは進む。田園地帯を抜ければ、小さな丘がある。これを西南に向かえば宗藩、東に向かえば華藩、南東に向かえば利藩と、丁度分岐になっていて、下ったところにはそれぞれ宿があった。今日はそこで一泊する予定だった。

「ところで、影虎。飛燕が碧に味方するって言ってたけど、そんなことして大丈夫なの?」

 手綱を引きながら榛名は尋ねた。影虎でなく榛名が牽引しているのは、馬を日除けにするためだ。

「大丈夫大丈夫。あれで麻歌は頭がいいから、うまくやるさ。言ったでしょ、あくまで中立だって。睨まれないギリギリのことまでだよ、手助けしてくれるのは」

 軽く言う影虎に、でも、と榛名は心中で呟いた。

 飛燕は惟の根幹を担う巨大勢力だ。賊から手広い商売人に宗旨替えし、今や国中に網を張り、他国とも貿易を重ね、飛燕なくして惟は成り立たない。自由を掲げる信条、その誇りゆえ政治に口出ししたことこそないものの、財力も人脈も、それが叶うほどの力を持っている。

 影虎は麻歌に、碧に味方しなければ飛燕も転覆すると嘘をついた。そうして得られるほんの僅かの助力のために。――そうまでしても、影虎は碧を助けたいのだ。

 運命に逆らいたい。その強い意志が痛いほどに伝わってくる。

(じゃあ、わたしは……わたしは、どうしたいの)

 組み上げられていく運命の精妙さに、榛名は既に一度負けたのだ。これは定めだったのだ、どうやったって碧は行ってしまうと、戦うことを諦めた。

 けれど――

(わたしは……決めたんじゃなかったの? どんな時も、碧の味方でいるって)

 味方でいるということは、傍にいるということだ。いついかなる時も傍に寄り添うということだ。

 けれど、榛名はまだ碧に何も伝えていない。一人ではないということ。支えてくれる手がたくさんあるということ。榛名が碧を――

 瞬間、後頭部を鈍器で殴られたような強烈な痛みが走った。

 あまりの痛みに、咄嗟にこめかみを押さえる。

「大丈夫?」

 心配そうに覗き込んでくる影虎に、榛名はやんわりと笑みを返した。

 ここ最近なかった、あの叩きつけられるような頭痛がまたやって来たらしい。偏頭痛持ちではなかったはずなのだけれど、と深く息をつきながら、榛名はふと考えた。――またやって来たというが、以前はどんな時に頭痛を起こしていただろうか。

 不思議といつのことだったか、全く思い出せなかった。その部分だけがぽっかりと虫食いになっているように。

(……あれ?)

 榛名は違和感にぞくりとした。これは違う、という肌を刺すような感覚。頭蓋に響く痛みの余韻が、まるで警鐘のように聞こえた。

「……疲れたのかな。丁度丘についたし、休憩しようか?」

 その提案に、榛名は躊躇いながらも頷いた。影虎の顔がひどく不安げだったからだ。

 そこは丘の中腹で、今まで通ってきた道が間近に見渡せた。広々とした台地にはまるで母のように一本の巨木が聳えていて、行き交う旅人を見守っている。榛名たちはその木陰に腰を落とした。

「お昼にしよっか。時間もちょうどいいし、こいつにも餌をやらないと」

 ぽんと尻を叩くと、ぶるんと馬は鳴いた。幹に繋ぎ止める間も、顔を振るって甘えるように鼻を押し当ててくる。

「昔からお世話してたの? この子」

「うん、そう。名前は行野(こうや)。体は少し小さいけど、足が速くてどこまでも野を駆けるから、行野」

 飼い葉を出して小さな水樽と並べてやると、行野は嬉しそうに食んでいた。

 そっと背中を撫でると、一皮隔てた向こうにある血の温もりが肌を伝ってくる。不思議な感触に、初めは怖々触れていた榛名も、次第に行野の顔まで撫でるようになった。人懐っこい行野は、榛名にまで頭を擦り付けてくる。

 そんな様子を笑いながら、行野の背から革袋を下ろしていた影虎は、突然背後を振り返った。野生の獣が敵の気配を感じ取る敏捷さで、すうっと目を細める。

「どうしたの」

 榛名が驚いて声を上げたが、それを制するように影虎は己の背中に榛名を覆い隠した。

「流石に飛燕の長は気配に敏感だ」

 土を踏む荒い音がして、その太い笑い声に榛名は冷水を浴びせかけられたように青ざめた。忘れようはずもない、野卑た野太い声。腕の隙間から垣間見えた姿に、一層青くなる。その熊のような巨躯は間違いない、以前榛名を襲った犯人、ヨルドだった。

 ぐらりと脳が揺れる。後ろにはあのキールと呼ばれていた小柄な男もいて、他にも幾人か見知らぬ人間を率いていた。どうしてこんなところに彼らが。

 影虎は唸るように声を絞り出した。

「何故お前らがここにいる。牢に捕まっていたはずだが」

「さて――どうしてだろうな」

「……まさか」

 はっとして顎を持ち上げる。

 榛名にも言わずとして分かっていた。牢から彼らを解放し、手下に新しい人間を加えさせた。そんなことを出来る人物は、一人しかいない。――宰相だ。

「ならば答えてもらおう。何故俺たちを追ってくる。狙うべきは王ただ一人のはずだ」

「お前たちを殺すというのが新しい依頼でね。それ以上は知らないな」

「……俺を殺してどうする。お前の雇い主が王になるという芽はなくなるぞ」

 ヨルドは本当に余計なことは聞いていないようで、ふむと考え込んだ。

「……利を求める人間というのは、とにかく分かりやすいものだ。一目見ればそれと分かる。飽き足りぬ渇望で、餓鬼畜生のような顔をしているからな。だが、あれはそれとは違う。――あれは絶望の目だ。俺たちの生業にはそういう人間が大勢転がっているが、そんな奴に理屈はない。ほんの僅かの快楽をよすがにして生きている、動く屍のようなものだ」

 その時、榛名は吐胸を衝かれたように違和感の正体に気がついた。

 ヨルドの言う通りだ。榛名は知っている。ヨルドたちに連れ去られたあの日、榛名は宰相の瞳の中にその身を取り巻く心火を見た。恨みに囚われ、何もかも失った目。あれは絶望の中に生きるものの目だ。

 その宰相が、榛名たちを追いかけないはずがなかったのだ。彼は王位を欲しているわけではなく、ただ碧を同じ煉獄へと引き込むことだけを愉悦としているのだから。

 そうして気付く。もしかすると、あの時碧が助けに来ることでさえ、宰相には計算のうちだったのかもしれない。そうやって試していたのではないだろうか。榛名が碧にとって、どういう存在であるかを。

(……碧)

 じり、と後退る。怯えきった表情の榛名を見て、キールが耳障りな声で笑った。

「俺には分かるぜぇ、宰相の気持ちってやつがよぉ。積み上げたもんが一気に崩れるのってさぁ、面白いだろ? 一瞬で全部パァになる。崩壊の快楽は麻薬だぜ? だから俺は人殺しが好きなんだ。今度は逃がしゃしねえよ。覚悟しな」

 がち、と隣で鞘の音が鳴った。

「……榛名ちゃん、そこにいて。動かないで」

 腰低く構えて柄に手を添える。

 けれど言われるまでもなく、榛名は寸分たりとも動けそうになかった。守るように合わせた手は情けなく震えて、膝も笑っている。

 怖い。ヨルドやキールの声を聞いただけで、断片的な映像が蘇ってきて、吐き気がこみ上げてくる。

 ざっと二十人ほどに取り囲まれ、影虎は低く息を吐いた。いかな影虎と言えど、榛名を庇いながら戦うには厳しい人数だった。木を背にしていたのは運がよかったが、逃げ場がないとも言える。柄を握る手に力がこもる。天地来(あめつちきたる)――二本で一つのその刀は、かつて翠から下賜された国の宝だ。

 引き抜いた瞬間、どうか彼女を守ってあげて、と翠が囁いているような気がした。


 ヨルドを先頭に、五人が一斉に襲いかかる。向かってくる剣をいなして、影虎は剣戟の中に飛び込んでいった。

 打ち合う音に驚いて、榛名は行野の背に縋り付いて縮こまった。何度も続く鈍い金属音。行野も異様な事態にピリピリしている。ああ、でも目を伏せていてはいけない。きちんと見届けなければ――……そう思って、勇気を振り絞ってこわごわ目を開けた。

 そして最初に飛び込んできたのは、踊るように戦う影虎の姿だった。

 笑みさえ浮かべて舞う姿は流れるようで、二対の刀を自在に操り戦う影虎に相手は難儀しているようだった。五人の内既に二人は地に伏せている。

 しかし、影虎もまた無傷とはいかなかった。頬に、腕に、腹に、破れた服から血の赤が滲んでいる。

 その時、今までで一番大きな剣戟の音がして、榛名は飛び上がった。

 ヨルドの豪腕が振り下ろした大剣をまともに受けた影虎は体勢を崩して、そこを一斉に狙われた。降りかかる刃に、影虎は咄嗟に半身を逸らしたが、再び腹に赤い筋が走った。痛みに顔を歪めながら、そのまま体を捻って、襲いかかってきた一人の目を抉る。甲高い悲鳴が上がり、緩んだ一瞬で、もう一人の腹を突き刺した。

 一度に二人を倒し、荒い息で体勢を立て直す影虎に、ヨルドは唸った。

「貴様」

「――死ぬのを覚悟で襲ってきてんだろうが。こっちは手加減する余裕ねぇんだよ、悪いけど」

 足元の土に血が滴り落ちて、黒い染みを作る。余裕がないというのは事実のようだった。致命傷と言えるほどの深手ではないが、一人、また一人と頭数がじわじわ減っていく中で、影虎の体には着実に傷が増えていった。

 相対するヨルドにも疲労の色が滲んでいたが、影虎には劣らない。息は明らかに荒く、肩が上下していた。このままでは、いずれ影虎は負けるだろう。あと十人あまり、相手取るには厳しすぎる。

 助けを呼ばなくては。それか、ここから逃げ出すのだ。榛名を守りながら戦うから、影虎は思うように動けないでいる。素人目にもそれはよく分かった。

 けれど、足は石になったように萎えて動かなかった。慄きで声も枯れ、喉が震える。

 涙が滲んだ。このままでは、影虎が死んでしまう――

(誰か……誰か、影虎を助けて……)

 恐怖に打ち震えながら、榛名は祈った。来るはずがないと分かっていながら、何度も祈った。苦しい胸を押さえた瞬間、その手が水晶に触れて、はっとした。

「……あ……」

 そう――以前にも榛名は祈った。来るはずのない助けを。

 そして光とともに、彼はやって来たのだ。

 ……どうか、お願い。助けに来て。

 これが最後でも。

「碧……」

 溢れる思いが頬を濡らして、榛名は行野の背に顔を埋めた。

 もうこれ以上、榛名のために傷を負っていく影虎を見ていられなかった。あまりに痛ましくて悲しすぎる。

 その時、それまで神経質に土を掻いていた行野が、ふっと首をもたげた。脚が止まったのに気付いて、榛名も頭を上げる。何かあるのだろうか――訝る榛名の耳に、土を蹴る蹄の音が届いた。遠くどこかで響く音は次第に大きくなり、榛名の胸に期待が染み出してくる。

(……嘘だよね)

 彼が来るはずがない。もうこの国に彼はいないのだ。全てを捨て去った彼は、もう榛名のことを振り返らないはずだった。それでも、現れた人影を見間違うはずがなかった。会いたくて会いたくてたまらなかった、その人を。

 綺麗に結わえた髪を振り乱してやって来た碧は、馬から飛び降りて走り出した。

「榛名!」

「碧……!!」

 あんなに震えていた体は勝手に動き出した。どこから力が湧き上がったのか、風のように軽々と駆けることが出来た。

 会いに来てくれた。それだけで、もう何一ついらなかった。

 はっと気が付いた影虎が叫ぶ。

「榛名ちゃん、危な……っ!」

 追いかけようとする影虎の前にヨルドが立ちはだかる。その背後に見えたのは、榛名を追うキールの姿だった。

「駄目だ! 榛名ちゃ……榛名っ!!」

 疾走する榛名の耳に、影虎の絶叫は届かなかった。何の音もしない、ただ碧の姿だけがゆっくり近づいてくる――時が止まったかのような、そんな永遠にも似た時間、眼差しだけが交差する。

「榛名……っ!」

 碧が笑って、手を伸べる。

 その手を取ろうとした榛名は、突然背後から襲いかかった衝撃に、くんと弓なりになった。

 行方を失くした腕が、宙を泳ぐ。

 声もなく崩れ落ちていく榛名を前に、碧の瞳が見開かれた。

「は……っ」

 地に倒れこむ榛名を、膝を折って碧は抱きとめた。

 その腹から、どくどくと血が溢れ出す。服はみるみる血で赤黒く汚れていった。

「榛名!! 榛名っ!!」

 ――声が遠い。

 榛名はぼんやりとした頭で、膜を隔てたような音を聞いていた。

「そいつは俺が殺すって決めてたんだ。お前も一緒に殺ってやるよ」

 キールの声だ。

 碧は抵抗しなかった。ただ、ぎゅっと抱き寄せられるのを感じた。――碧の心臓の音が聞こえて、幸せだった。


 しかし、脅威はいつまで経っても訪れなかった。

 代わりにどさり、と重い音が土に落ちる。キールの背後には、血に濡れた剣を手にした影虎がいた。

 荒い息で立ち尽くす影虎は、呆然としている碧と、彼に抱えられた榛名を交互に見やって、きつく奥歯を噛み締めた。そして決意したように身を翻す。それ程までに、榛名はもはや手遅れだと明らかだった。

 ――そして、榛名自身、そのことは分かっていた。

 巴の死に様を見ていた、榛名だから。

「榛、名」

 ぽたぽたと碧の瞳から透明な雫が頬に落ちる。

 泣かないでと言いたくても、喉から血が溢れて言葉にならなかった。

 どうか悲しまないでほしい。榛名は今まで、自分の思いのままにやってきた。だから何の悔いもない。碧に会えて、本当にそれだけで、こんなにも幸せで。泣きたいくらい、幸せなことばかりで。こんなにも温かい最期なら、もう充分だ。

 水晶が熱い。もうあまり時間がない。

「……榛名?」

 恐れる碧の声に、榛名は笑う。言葉にならない代わりに、小刻みに震える手で碧の頬に触れた。

 どうか、最期に伝えたい。

 碧のことが好きで、誰より好きで、本当は最後まで一緒にいたかったこと。残せるもの一つないけれど、どうか忘れないでいてほしい。碧を愛している人が、本当は思っているよりずっと沢山いて、榛名もそうだったということを。

(……大好きだよ、碧)

 体が急激に冷え切っていく。それに反して、水晶はどんどん熱くなっていった。碧の温もりに包まれながら、榛名はずっと碧の顔を見ていた。

 目を閉じたくない。碧を見ていたい。この世界で最後に見るのは、碧の姿がいい。

 次第に視界は霞み、とうとう誰より愛しい人が見えなくなって、榛名は目を閉じた。

(……不思議だね、翠。わたし、翠と同じ気持ちだよ)

 いつかきっとまた会える。その日までのお別れ。

 ――だから、どうか、笑って。



 水晶がカッと輝いて、榛名の全身から燐光が放たれた。蛍火のような青白い光は一斉に空へ駆け上っていく。

「な……どうなって……榛名! 榛名!!」

 碧い光はまるで榛名の魂を連れ去っていくかのようで、腕の中から徐々に何かが失われていくのが分かった。触れている輪郭もあやふやになっていく。

 混乱の中、頬に触れていた榛名の手がゆるゆると力をなくしていって、碧は愕然とした。投げ出された腕には、もう僅かな反応さえない。

「……榛、」

 体重がふっと消えるような、魂の飛び去る一瞬、抱き寄せようとした刹那――彼女はとうとう掻き消えた。淡い光は閉じられて、腕が宙を掻く。

 ――何が、起こって。

 呆然としていた碧は、微かな音に、はっとして顔を上げた。枯れた大地に、ぽつりと腕輪が残されている。震える指でそれを拾い上げた。青い玉を連ねたそれは、榛名にあげた揃いの腕輪だった。

 抜け殻のように立ち呆ける。

 何が起きたのか全く分からないが、碧がただ一つ理解できたのは、自分の腕の中で確かに榛名は事切れたということだけだった。

「……な、んで」

 どうして、彼女が。

 何故こんなことに。

(……来なければ、よかったのか)

 初め、碧はそう考えた。感情で動いたのが間違いだったのだと。だが、碧が来なければどのみち榛名は影虎とともに死んでいた。

 ならば手放さなければよかったのか。危険だと分かっていても手元に置いて守ってやるべきだったのか。――いや、違う。

(出会わなければ、よかったんだ……)

 碧は顔を覆った。

 もし碧と出会わなければ、例えば影虎と初めに出会っていたなら、榛名はもっと平凡で、幸せな人生を送っていただろう。

 出会わなければよかった。彼女を巻き込むのならば、幸福な気持ちを知ることもなく、一生生きていくほうがましだった。だが、もう遅い。

 どぷん、と耳元で音がする。

 ――だから言っただろう。

 お前は呪われている。

 その証がその瞳であり、その血だ。

 何故かその声は巴と宰相のものだった。そして笑う。――その通りだと。

 暗い海に飲み込まれて、碧は深く息を吸った。

 血に濡れた翡翠色の紐を剥ぎ取ると、胸に仕舞い込んで碧は立ち上がった。

 冷え切った瞳で敵を見据え、剣を構える。そうして、争いの中に向かって走り出した。

 加勢する碧の瞳は血走って、まさしく鬼神の如き戦いぶりだった。耳を裂く断末魔も、しぶく血もまるで心に響かない。

 榛名のためだからこそ碧は王になれた。彼女のためなら出来ると、そう思えた。

 けれど、榛名はもういない。きっと碧が亡くなっても、榛名には会えない。恐らく幽玄ではない、もっと遠いどこかへ行ってしまったのだと、それだけは分かっていた。

 ならばどうすればいいのだろう。大切なたった一人がいない。どこを探しても見つからないのだ。

 思わず笑いが出た。宰相が飲まれたものの正体が、碧には自分のものとして感じられた。

 絶望は、こんなにも近くに存在していたのだ。

「は……はっ! ははっははははは!」

 最後の一人を薙ぎ払って、頬に飛び散った血に構いもせず、碧は腹の底から笑った。宰相の目論見通りだ。いつか榛名が言った言葉は正しかった。碧の心は壊れてしまった。心火に囚われ、もはや何も見えない。

 返り血に塗れ、狂ったように笑う碧に、影虎は思わず足を止めた。

「……碧……?」

 糸が切れたようにふつりと笑いを止め、ゆっくりと振り返る碧は、訝る影虎に薄く微笑んだ。

「榛名ちゃんはどこに行ったんだよ。あの光は何だ?」

「さあ。俺も知らない」

「知らないって」

「関係ないだろう。どちらにせよ、榛名はもう死んでいた。死んでいたんだよ」

 碧は影虎に腕輪を押し付けた。これは唯一榛名が残していった遺品だ。しかし、碧にはもう必要がない。――必要なのは、こんなものではない。自分の腕輪も乱暴に剥ぎ取ると、その場に投げ捨てた。

「碧!!」

 罵声に碧は眉一つ動かさず言った。

「じきに式典が始まる。俺は戻る。お前は好きにしたらいい」

 立ち去る碧に、影虎は何の言葉もかけられなかった。怒りは沸いたが、それ以上に碧の気持ちも痛いほど分かったからだ。

 力なく座り込むと、碧の腕輪を拾い上げる。榛名の一回り小さなそれと重ねると、ぴたりとはまりこんだ。

「……榛名ちゃん……」

 影虎は身を屈めて、静かに泣いた。

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