永訣の日
本編直後の碧に関する続きです。
ひとしきり泣いて、叫び疲れた頃、碧はやっと面を上げた。
ずきずきする頭で周囲を見渡すと、離れた場所に、沈痛な面持ちで立つ透の姿があった。碧が落ち着いたことを知るとゆっくりと歩み寄って、静かに言った。
「……逃げますか?」
真摯な問いかけだった。
だが、王族としての責務を常に問うてきた彼らしくない言葉だった。
冷めた目で碧が沈黙していると、透は続けた。
「今ならば何もかも投げ打つ代わりに逃げ出せます。あなたがどうしてもと望むのなら、私もこの身をかけてでも助力しましょう。あなたの望みを聞かせてください」
「……望み?」
透は頷いた。碧は眉を寄せて、絞るように呻いた。
「逃げる……か。……それは、どうあっても出来ない話だ……」
――出来るはずなどない。
榛名は死に、王になる目的を見失ったとはいえ、この国は王をなくしては立ち行かなくなる。
しかし、それは責任感などではない。ただ――ただ、そんな愚を運命が許すはずがないと、知っているだけだ。
不思議と碧には手に取るように分かった。……逃げることは出来ない。今ここから逃げ出して、王としての責務を放棄したとしても、きっと碧はいずれ王になるだろう。もしも過去をやり直せたとしても、きっと同じ結果を繰り返す。運命は初めから、『碧を王にする』ために敷かれていたのだから。
(……それに……)
碧は拳を握り潰す。
――それに共に生きたかった人は、もう。
透は唇を戦慄かせ、「何故です」と射抜くように言った。
「あなたは自分のためではない、民のためでもない、ただ榛名さんの幸せのために王になったんでしょう。翠のために影に徹したように、あなたは彼女のために偽りの王になることを選んだ。ならば、答えてください。あなたはこれから、何のために王になるんです」
何のため。
何のための王だ。
碧は大きく息を吸い込んだ。
「……透。お前には言っていなかったが、あいつは自分は未来から来たと言っていた。そして一つの歴史を教えてくれた。……十九の頃、王は宰相に暗殺されるそうだ」
「な……っ」
透は蒼白になった。
「どういうことですか! 碧、それを知って……」
「勿論、知っている。それがどういうことかも分かっているつもりだ。だがな、透。俺はもう――嘘はつきたくないんだ」
碧は涙を浮かべて笑った。
「あいつを傷つけて、あげくに死なせてしまって、その上あの日の答えまで嘘にしたくはないんだ。……本当は色々考えた。宰相を殺して俺も死のうか、いっそ俺が国を滅ぼしてやろうか――そんなことさえも。だが、榛名はきっとそのどれも望まないだろう」
彼女の答えはおそらく、どんな時も変わらない。ただ碧が幸せであるように、それだけを願い続けているだろう。
(……何処にいるんだろうな、お前は)
死んでも尚、彼女には会えない。この先碧が向かう幽玄の世界に、榛名はいない。それが榛名を手にしようとした、神の領域に触れた罰だというのなら、甘んじて受けよう。
だからどうか、彼女だけは幸せであってほしい。
「惟は遠からず滅ぶ運命かもしれない。ならば俺は絶望の中で王になろう。お前たちと俺自身の誓いのため、惟を僅かでも繋ぎとめる杭となるために」
宣言は錨のように重く沈みこんだ。
――死ぬのだと分かっている。運命の精妙さを誰より知っている。きっと碧は歴史に抗いきれず、定めのままに死ぬのだろう。
だが、と碧は不敵に笑った。どうせ死ぬのだというのならば、座してそれを待つのではなく、抗ってこの国を出来るだけ長く繋ごう。あの日そう願って榛名に別れを告げたように、この国のため、血の礎となってでも。
膝を折り真っ直ぐに見上げる透に碧は微笑みかけた。
「民のためだという立派な答えでなくてすまないな」
「あなたらしい答えです」
透は目を和ませた。
「けれど、嘘がない答えだ」
「……行こうか」
「はい」
衣服を受け取り、袖を通す。新しい服は血の匂いを一切寄せ付けない。
――血塗られた道を歩み続けていた碧は、まるで別人になっていく。
ふと唯一赤黒い染みが残った紐を胸元から引きずり出すと、手の内に込めて碧は瞑目した。
泣くのも悲しむのも、これで最後だ。自分はこれから自分ではない何者かとして、孤独と絶望の道を進むのだから。
(……けれど、榛名)
そっと扉を開けば、一挙に記憶が流れ込んでくる。二人で街に出かけたこと、交わした約束、三人での誓い――津波のように押し寄せる思い出は、どれも温かく碧を通り抜けていった。そうして包まれる。ずっと傍にいると、大好きだからと囁いて。
碧は心の内で「俺もだ、榛名」と答えた。
(愛している。だからお前がくれたものを、思いを、この罪とともに抱えて生きていこう――)
叶うなら、遠い未来で君が幸せであるよう。
それだけを、祈っている。




