第八章・糸(3)
それから、碧の部屋を訪れる面々に新しい顔ぶれが加わった。言うまでもなく、小さな台風、茜音である。
とはいえ彼女の場合、流石に一人で西に来ることは出来ないようで、来訪がある時は必ずお付きの透も一緒だった。どちらにしても榛名にとって来訪者は嬉しいもので、特に初めての女友達となった茜音とは、まるで姉妹のように仲良しになった。
「ねえねえ榛名、ほら見て」
にこにことして差し出す手には、真っ赤な糸が見事に蝶の形を作っている。昔懐かしいあやとり遊びである。榛名は素直に感嘆した。
「凄い、綺麗! こういうのって習うの?」
「お勉強じゃないわよ。暇潰しにたまに透が教えてくれるの」
「透が?」
意外性に榛名は笑ってしまう。真面目な顔をして蝶を作ってくれる透なんて、何だかおかしい。
「問題をね、ここまで解いたら教えてあげますよって、いつもそう言うのよ」
「やっすい餌だな……」
「別に釣られてるわけじゃないわよっ」
兄の揶揄に茜音はつんとそっぽを向く。仕方なしにくすりと笑って、榛名は優しく話しかけた。
「ねぇ、他には出来る?」
「んーと、……こうして、こうして、」
指を複雑に交差させて、茜音は絡みついた糸を丁寧に机に広げた。
「菊の花」
「わああああ! 本当にお花だぁ」
兄と違って目を輝かせて喜ぶ榛名に、茜音は「凄いでしょ」と得意気になった。照れたように頬を赤らめる、その顔が可愛らしい。
すると、肩を押しのけて影虎が身を乗り出す。
「それくらい俺にも出来るって。貸してみ? ほら、こうして、こーして、で、天の川」
「地味……お兄様、どうせならもっと可愛いやつ作ってよ……」
「文句が多いなお前は」
「もう返してよ! 私がやる!」
二人でやいのやいのと輪を取り合っていると、後ろからすいと糸が掬い上げられた。
追いかける視線が背後に立つ透にぶつかって、彼はにこりと笑う。
「影虎、どうせやるならこれくらいやってから自慢してくださいよ。ほら、ここを巻きつけて、でこうして外して、ハイ。つがいの鳥」
「えぇぇぇぇ?! 今どうやったの?!」
榛名は驚嘆した。いつの間にか糸の上には二羽の鳥が現れている。
「……お前、あやとり如きで大人気ないな」
「私、何事も本気でやる主義なので」
透はしらっと答える。
「あやとりって奥が深い……」
榛名は感慨深く呟いた。透のやったあやとりは目にも止まらぬ早さだった上、相当難解な作り方だったので、到底真似できそうにない。
つがいの二羽は透の手の上で愛らしく並んでいた。
「あ……」
不意に浮かんだ思いつきに、榛名は声を漏らした。
「どうした?」
皆が一斉に注目する。全員の顔を見渡すと、怖々と榛名は言い出した。
「……碧、あのね。お願いがあるんだけど」
「……何だ?」
「あのね、今回のことでわたし、翠にも色々と心配をかけたでしょ? だから、一言謝りたいなと思って……」
俯き加減で榛名は手を握り合わせた。
あれ以来、翠は寝込んだままらしい。榛名が連れ去られたあの時、追いかけろと碧の背中を押してくれたのは他ならぬ翠だったのだと、榛名は影虎から聞いていた。だから、お礼を言いたかったのだ。自分も辛い時、碧に傍にいてほしかっただろうに、ありがとうと。
幸い、榛名のほうは傷も次第に癒え、部屋の中は勿論、外を散歩する時間も段々長くなり、体力も回復してきた。会いに行けるものなら会いに行きたい。
頼まれた碧は眉間に皺を寄せて、しばらく思案した後、榛名の隣に膝を打って真摯に目を合わせた。
「今、翠はあまり体調がよくないんだ。会いに行っても、会話も出来ないかもしれない。殆ど寝たきりで起きていられる時間も短いから……あまり満足のいくものにはならないかもしれない。榛名がそれでもいいというのなら、一度だけ、会いに行ってもいい」
榛名はぱっと華やいで、深く首肯した。
少しだけ碧の表情が緩む。その憂慮の滲む顔を見て、翠の加減は相当よくないのだと知った。
「じゃあ私も行く!」
椅子を倒す勢いで起立して、茜音が真っ直ぐに手を挙げた。
影虎はきらきらと顔を輝かせている妹に呆れた目線を投げる。
「大勢で押しかけてどうすんだよ。碧と榛名ちゃんだけで十分でしょ」
「いや。影虎、お前も来い」
きっぱりと言われ、影虎は分かりやすく顔を顰めた。
「何で」
「榛名が途中少しでも具合が悪くなったら、翠に会う前だろうが問答無用で連れ帰る。お前はそのための要員だ」
「はぁあ?! そんなん透でいいじゃん!」
「私が行くとなると必然として姫様がついてきますよ」
「じゃあお兄様は必然として私の護衛としてついてこなくちゃいけなくなるわよ?」
「何でそうなるんだよ!」
「だって碧は榛名の護衛でしょ? 榛名の具合が悪くなったら抱えるのは透、じゃあ私を守るのはお兄様しかいないじゃない」
無茶苦茶な理論に影虎は「わけわかんねぇ!」と叫んだ。
しかし、散々渋ったものの、結局折れることになったのは影虎だった。何せ碧の心配性は引っ込む様子がなく、影虎が行かないのであれば連れて行くわけにはいかないと頑として言い張ったのだ。結果、榛名にも茜音にも碧にも説得されて、孤立無援の影虎は諾というしかなかった。
それでもまだ不服なのか、ぶつぶつと文句を垂れる影虎の横で、榛名はそっと碧に耳打ちした。
「でも、大丈夫? 大人数で押しかけたりしたら翠の負担にならない?」
碧はふっと苦笑して、心配する榛名のつむりに触れた。
「……いいんだ。きっと翠は、賑やかなほうが喜ぶだろうから」
その笑顔に安心して、榛名も顔を綻ばせた。
――けれど後で思えば、あれは虫の知らせだったのかもしれない。
碧と翠、同じ色を名に持つ姉弟。つがいの鳥のような二人だからこその――
清殿に向かう道は、落ちかけた太陽に染め上げられて柔らかな橙になっていた。まるで紅葉したような床板の上は、歩くと温もりがほんのりと伝わってくる。
道中、何人か女官たちとすれ違ったが、宰相派で大きな実権を持つ透と碧が揃っているためか、この一行のおかしさに口出しする人間はいなかった。皆一様に、小さく頭を下げて通り過ぎ、その違和感には目を瞑る。あまり面倒事には関わりたがらない王派の人間だからこそかもしれなかった。
後宮近くに差し掛かると人気は完全になくなった。相変わらず無人の宮は荒涼としている。あまりの寂しさに、心なしか日差しまで暗くなってしまったような気がする。
黄古の間の前までやって来た時、透はすっと前に出た。
「碧、私は先に衛士たちに話を通してきますよ。この面々が揃い踏みですと、怪しいことこの上ないですから、通してくれないやもしれませんし」
「ああ、分かった。頼む」
「透が行くなら私も行く!」
さっと挙手する茜音を、透は鼻で笑った。
「いいですけど、遅れたら有無を言わさず置いていきますよ」
「何よそれ!」
むっとして文句を言いかける、それと同時に透は競歩のような速さで駆け出していた。みるみる遠ざかっていく透に、茜音は「ああ!」と叫んで慌てて後を追いかけた。
小さくなっていく二つの影に、
「……そこまで急ぐ必要はないんだが……」
碧は小さくため息をついた。
「にしても、あの二人はどっちが主人なのやらって感じだねぇ。よく長続きするわ」
影虎が揶揄するのを、碧は生真面目に返答する。
「逆だろう。茜音は透くらいじゃないともたない」
「そうなの?」
不思議がる榛名に、碧は淡々と説明した。
「他のことはさておき、透は女性としての礼節の教授には向いていないだろう。それで今までに何度も女官が据えられたが、あの性格だ。皆一週間ともたず辞めていった」
「そんなにひどいかなぁ」
ぽつりと漏らすと、影虎は大口を開けて笑う。
「そりゃ榛名ちゃんだからだよ。ま、西の人間なら茜音に張り合えるくらい勝気な人もいたかもしんないけど、東はみーんなお嬢様ばっかりだからねぇ。今まで他人にかしずかれてきた人間が、いざ我侭で意地の悪いお姫様のお相手ってなったら耐えられなかったんじゃない? ま、いずれにせよ透と茜音みたいなのはかなりの例外だよ」
「……それはそうだよね。透って碧たちにも変わらないし」
仮にも主君にあんな口の利き方をする従者など、透以外にいないだろう。宮に疎い榛名でも、そのくらいのことは分かる。
「小さい頃から馴染みだったからな。あの嫌味節」
碧が呆れ気味に嘆息する横で、榛名は何となく想像してみた。
――もしかして、だから茜音は透のことを気に入っているのかもしれない。あの歯に衣着せぬ物言いは、裏を返せば嘘がないということだ。この嘘っぱちだらけの宮の中、ただ一人真っ直ぐに物申してみせる、そういうところが好きなのではないだろうか。
それならば、茜音の本当の望みは姫様姫様と煽てられ、甘やかされることではないのかもしれない。
――望みがどうあれ、そうされることからは逃れられない立場だけれど。
(……それが嫌なら、逃げるしかない……)
ちくりと影虎の言葉が胸を刺した。今になって、あの言葉の意味が本当に分かった気がする。生まれた瞬間、望む望まざるに関わらず、碧の瞳は碧の瞳として、宰相の娘は宰相の娘としてしか生きられない。それが嫌ならば、逃げ出す他ない。だが、逃げる道だとて容易くはないのだ。
(縛られている……)
翠の力に――いや、神の作り出した運命にだろうか。誰しもがそこから逃げ出せずに生きている。
ならば、榛名もまたそうなのだろうか。榛名がやって来ることもまた、神の絵図には既に織り込まれているのだろうか。
……この世に必然しかないのだとしたら。
何となく、胸がつんと切なく傷んだ。
二人は寝殿の扉の前で待っていた。
茜音は榛名たちに気がつくと、飛び跳ねながら「榛名!」と無邪気に手を振った。その姿に、つい目尻が下がる。茜音はそのまま真っ先に駆け寄ってきて、榛名の腹部に抱きつくと、顔いっぱいに笑みを浮かべて自慢した。
「同着だったのよ!」
鼻高々の茜音に、榛名は「よかったね」と声をかけた。それだけで満足そうな顔になる。
「話はついたのか?」
碧が尋ねると、
「勿論。翠にはまだ会っていませんが。榛名さんたちが着いてからがよいかと思いまして」
「そうか。……榛名」
促され、榛名は小さく頷いた。
「じゃあ、行こっか」
黒い門扉に手をかける。ぐっと力を込めると、光の筋が差した。溢れ出した光は帯となって、足元を照らす。
底から焚き染めた甘やかな香の匂いが這い出してきて、榛名は目線を上げた。
そこで見た光景に、榛名は何故か御伽噺を思い出した。
長い黒髪は豊かに波打って広がり、倒れ伏す横顔は透き通るように白く、美しくも儚いその姿は、浜辺に打ち上げられた人魚姫そのものだった。
「……み……」
息を呑む。
「翠!!」
叫んで走り寄る、足が縺れてもどかしい。
部屋の中央、横たわる翠を真っ先に抱え上げた碧は、ぐったりとして反応のない翠に愕然とした。脱力した体は、その細さに見合わずまるで重い砂袋のようだった。
「翠! 翠! しっかりしろ、翠!」
呼びかける声だけがこだまする。榛名の隣にいた茜音は真っ青になって立ち竦んでいた。
医療に覚えのある透が翠の隣に膝を打ち、手首、首筋と次々に確認するも、表情は曇っていくばかりだった。
(……嘘、だよね……だってまだ、時間は残されてる……)
十九の時、翠王は宰相に暗殺される。歴史にはそう記されていた。だから大丈夫だ。そのはずだ。そうでないと、――そうでないと。
次第に碧の哀願がすすり泣きに変わる。
「翠……目覚めてくれ、頼む……」
ぎゅう、と胸を掴む。我知らず榛名は水晶を握りしめていた。今や自ら光り輝くようになった、翠の力の結晶に祈りを捧げる。
(お願い……本当にこれに神様の力があるなら、お願い、翠を助けて……お願い……!)
ネックレスを握り潰すほど祈り続けた榛名は、どれくらい経ったのだろうか、碧の声ではっと顔を上げた。
「……翠?」
ぴくり、と瞼が動いて、垣間からかすかに湖面のような穏やかな碧色が現れる。
細い首が動いて、碧のほうを向いた。
「……碧……」
その声は小さくて、聞き逃してしまいそうなほどささやかだったけれど、確かに全員の耳に届いた。皆が一斉にほっと胸を撫で下ろしたのが空気で伝わってくる。
「翠……」
安堵した碧は、薄く涙の滲んだ目を細めて笑った。無事だったのだ、取り越し苦労だったのだと、そう自分に言い聞かせるように。
けれど、翠は悲しげに顔を歪ませて、震える唇でそっと告げた。
「ごめん、ね。……もう、お別れ、みたい」
「……え?」
問いに答える微笑みはあまりに美しく、頬を伝っていく涙さえ神の与えた光のように輝いて見えた。
「もっと、一緒に……いたかったけれど、駄目、みたい……」
その言葉に、碧はいびつに笑った。
「何を言ってるんだ。まだまだこれからじゃないか、翠。もっと色々あるだろう。やりたいことも、行きたい場所も、見せてやりたいものだってたくさんあるんだ。だから諦めるな。諦めないでくれ、翠」
笑って碧は夢を語る。天の川の星々のような、光り輝く希望ばかりを。そんな弟に、翠は震える声で言った。
「……碧、言ったわよね。……わたしたちは、きょうだいだから、ずっと一緒には……いられない、って……」
「……違う、そういうことじゃ」
「お別れの、時間よ。……ねえ、笑って、さよならしましょう?」
「違う、翠」
否定し続ける碧に、手が伸ばされる。冷え切った指先が涙を拭って、ひたりと添えられた。
「……大丈夫。いつかきっと……また会えるから」
その言葉に、碧は激しく頭を振った。
「いつかなんて聞きたくない! 俺は幽玄の世界でお前に会いたいわけじゃないんだ! 翠、お前は今ここにいるだろう!?」
「……碧」
触れていた手から、ゆるゆると力が抜けていく。
これは蝋燭が燃え尽きる直前、一瞬だけ強く燃え盛る、その刹那のことなのだ。瞬きの中、翠は別れを告げに戻ってきた、それだけのこと。誰の目にもそれは明らかだったけれど、碧は認めたくない一心で叫んだ。
「翠、駄目だ! 行くな!」
「……幸せに、なって」
「翠!!」
困った弟ね、と言うように翠は笑った。まるで、女神のように。
「……だいすきよ」
手の中の水晶が燃えるような熱さを放って、榛名は声にならない叫びを上げた。
世界が融解していく中、榛名は何故か翠と目が合った気がした。この熱さ、この痛みで繋がっている――
熱さは流星のようにすぐさま冷えていった。固く握り締められた手の中で、ひやりとした石の感触だけが残る。
――嫌だ。
誰がそう呟いたのだろうか。
耳を打つ声はやけに鮮明で、心に重く染み渡った。
「嫌だ」
――碧の声だった。
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ――翠! 翠っ!!」
その腕に抱かれた翠は、既に事切れていた。
いつも翠の体を包んでいた、あの柔らかな淡い光はどこにもない。
彼女は行ってしまった。もうどこにもいない。それが分かっていても、分かりたくないというように、碧は翠の体を抱き寄せて叫んでいた。
「……か、ないでくれ……行かないでくれ、俺を置いて行かないでくれ、翠……っ!!」
榛名は口を覆った。そうでなければ衝動が喉からせり出してくるところだった。けれど、行き場を失くした衝動は涙になって、ぼろぼろと溢れていった。
どうして。どうして。
――どうして。
「うあぁああああああああ!!!!」
天を衝くような絶叫が空を裂いて、その絶望の深さに世界は凍りついた。
それぞれの心に、深い傷を残して。




