第八章・糸(2)
「駄目だ」
何度目の問答だろうか、今回も全く同じ答えに、榛名は頬を膨らませて黙り込んだ。
あれから数日、碧の心配性が遺憾なく発揮されたのはそれ以来のことだった。
榛名がほんのちょっとでも動こうものなら「熱がぶり返す」、お茶を沸かそうものなら「火傷する」と、後ろをついて回っては何かにつけて駄目だと連呼するのである。そんな調子なので、街に行くことは勿論、部屋の周辺を散歩することでさえとんでもないと、どれほど頼み込んでも却下された。
「また熱が上がったらどうするんだ」
「もう下がったってば……」
傷はかさぶたになり、痣も見た目はひどいが段々薄くなっていっている。包帯も取れ、順調に回復しているというのに、碧の目にはそうは映らないらしい。
流石に影虎も榛名が不憫に思えたのか、眉を下げてやんわりとフォローを入れた。
「あー、碧。籠の鳥じゃないんだからさ、たまには外に連れ出してやったらどう? 俺もちゃんとついていくしさ」
「弱った体で外に出て病を貰ってきたらどうするんだ。せめて傷が消えてから……」
「動かないのも体に悪いっつーの。俺も碧もいる時くらい散歩したっていいでしょうが」
碧はむっつりと押し黙った。その顔には「心配だ」と大書してある。
実際、碧は心配でたまらないのか、あれ以来頻繁に顔を出すようになった。それが例え五分でも十分でも榛名の様子を伺いにやって来る。それは影虎も同じで、朝から晩まで傍にいるようになった。透でさえ来訪の頻度が増えたのだから、それ程までに心配をかけたのだと思うと、榛名もそう何度も駄々をこねることはできなかった。
しょげてしまった榛名を見て、碧は難しい顔でため息をつく。
「……少しずつだぞ」
「……?」
「部屋の周りから、お前が会いたがっていた門番の部屋まで慣らしながら、落ち着いたら茜音に謝らせるところまで」
榛名の表情は一気に華やいだ。
「ほんと!?」
「俺がいる時だけだからな」
「うん! 碧っ、ありがとう!」
現状、碧が榛名を連れて散歩できるような余裕のある日は限られていて、事はそうトントン拍子には進まないと分かってはいたが、それでも嬉しくて榛名は頬を緩ませた。これでやっとあの兵士に謝りに行くことが出来る。
無邪気に喜ぶ榛名と、苦い顔をしながらも笑っている碧を見て、影虎はぽつりと呟いた。
「……ありゃ完敗だなぁ」
今日の御膳を持ってきてくれたのは碧だった。いつも通りきちんと三人前、なのに何故か榛名のだけ少し量が多い。病人食を卒業して以来、量が徐々に増えてきているのだ。
「碧、またわたしのが多いよ」
不平を唱えるが、碧はしらっとしていた。
「お前はもっと太ったほうがいい」
「こんなに食べきれないってば」
「肉をつけないとまた病になるぞ」
「はいはい、碧分かったから。何度言ったか分かんないけど榛名ちゃんは病気じゃないの、心配しすぎ。でも確かに榛名ちゃんはちょっと細すぎだよ。食べきれるだけ食べなさいね」
こちらも何度繰り返したか分からないやり取りに、榛名は溜め息をついた。細い細いと言われるが、翠や茜音などはもっと柳のようにほっそりしている。それに榛名は別にダイエットしているわけではなく、元から小食なのだ。
「パワハラだ……」
そう呟くと二人は同時に首を傾げる。そっくりな仕草に、少しおかしくなってくすくすと笑った。
「まあとりあえず、頂きます」
箸を取って三人は手を合わせた。
今日は夏らしい暑さのこもる日で、手に取ると椀までほんのり温かくなっていた。
そのためか今日の影虎の格好は一段とラフで、上半身は着物を脱ぎ、垂れ下がった部分は帯に差し込んで、タンクトップに似た衣服一枚という薄着だった。髪も高く結い上げ、見るも涼しげな影虎とは対照的に、碧は今日も折り目正しくきっちりと着物を着ている。あまりの暑苦しさに、影虎は辟易として言った。
「碧さあ、暑くないの? 俺も薄着なのに」
「仕事でお前みたいな格好出来るか。お前が例外なんだ」
「榛名ちゃんだって今着物は着てないじゃん」
「病み上がりだから当然だろう。それに榛名は仕事しているわけじゃない。一緒にするな」
「碧、影虎、いいからちゃんと食べて」
「榛名ちゃんはいい子だねえ。碧と違って」
「お前とも違って」
「もう! 喧嘩しないで食べてってば!」
声を大にするとようやく二人は口を閉じた。二人が揃うと毎度毎度この調子だ。喧嘩するほど仲がいいというが、これではちっとも食事が進まない。しばらく睨みを利かせていた榛名は、叱られた犬のように大人しくなった二人を見て、やっと自分も箸をつけた。
惟の食事は相変わらず美味しい。炊きたてのご飯の匂いが胃袋を刺激して、たちまちお腹が空いてくるのを感じた。今日の食事に感謝しながら無心にぱくついてると、ふと影虎の仕草が目に止まった。
じっと注がれる視線に、影虎は目線を上げた。
「どしたの、榛名ちゃん」
「……意外。影虎って、すごく綺麗に食事するね」
「へ?」
きょとんとした影虎の前に置かれた皿は、全て綺麗になくなっていた。魚は身を残さず丁寧に骨を取り去って、椀には米粒一つ残っていない。
「きちんとしてるんだね」
そう褒めると、
「癖かな。こんなん大したことないよ?」
箸をカチ、と合わせて影虎は言った。だが、不思議と影虎の所作は一つ一つが優美で、どこか目を引くものがあるのだ。同じように食事している碧とも少し違う、際立ったものがある。
はああ、と感心していると、
「……ねえ榛名ちゃん、食べづらい……」
「あっ、ごめん」
「いや、いいんだけど。それにしても色男は困るわー、見惚れちゃった?」
茶化した途端碧が腕を振り上げ、影虎の手の甲に箸を突き刺した。
「いっだ!!!」
「……煩い」
「本気で刺すなよ! つーか何急に。痛かったんですけど」
「大丈夫?!」
くっきり赤い跡が残ったのを見て、榛名は慌てて影虎の手を取った。
「痛い? 冷やしたほうがいい?」
「いや大丈夫だよーこんくらい。榛名ちゃんってば優しいねぇ」
「血は出てないみたいだけど……」
必死になって介抱する榛名には見えないように、影虎は碧に舌を出した。分かりやすい挑発に、碧はカチンとなって今度は思い切り影虎の足を蹴った。そこをまた影虎が足を踏もうとするので、ひたすら小競り合いが続く。
密やかな諍いはそのうち大っぴらになって、罵倒に発展した。
「何すんだよ」
「煩い黙れ」
「大体なあ子供っぽいと思わないわけ? そういう行い」
「どこが。それはお前のほうだろう、ちゃらちゃらとふざけた格好をして」
「はあー? どこの爺ちゃんだよ若いくせに古いんだよ。大体俺はちゃらちゃらなんてしてないし」
「その馬鹿みたいに派手な格好、ふざけている以外何があるんだ」
「色男は何でも似合うからいいんだよ。って痛あ!」
「ほんっとお前は減らず口を……っ!」
「そういうお前はほんっと可愛くないよな!」
ひたすら椅子の向こうからげしげしと蹴り合っているのを、一種のコミュニケーションなのだと割り切って榛名は見て見ぬふりを決め込んだ。この二人の会話に割り入っても効果は一時的なもので、すぐに喧嘩が勃発すると、ここ数日でよく勉強したのだ。
蹴り合いに飽きたのか、影虎は勢いよく立ち上がって机を叩いた。
「言っておくけどなあ、お前の弱味なんて俺は腐るほど掴んでるんだからな! 三歳の頃鬼ごっこをしているうちに森に迷い込んで遭難してわんわん泣いてたとか! 四歳の頃お菓子を兄貴に取られて本気で怒って泣いてたとか!!」
「そんな昔の話を今頃持ち出すな! 大体お前だって五歳の頃翠を泣かせて大人全員に怒られて泣いてただろうが!」
恥ずかしい過去の暴露大会は幼馴染の好もあって不毛だった。
罵りあう二人を横目で眺めながら、本当にどうしようもない、と嘆息して膳を片付けていると、服の袖から痣が覗いて、思わずさっと隠した。
怪我自体は大したことはない。もう腫れは引いたし、痛みもない。それでも思い出すと、締め上げられるように胸が苦しくなった。
けれど。
目の前では碧と影虎が怒鳴り合っている。彼らはあれ以来、あの日の話をしなかった。会話といえばこんなたわいもない喧嘩ばかりで、落ち込む暇もないほど賑やかだった。だから榛名は変わらず笑える。彼らの優しさに包まれて、お腹の底からめいっぱいに笑っていられる。
今日も行われる下らない争いにくすりと笑みを落として、机を拭きあげると、榛名は頭を上げた。廊下から聞こえる、滑るような小さな足音。この静かさには覚えがある。
「……何ですか、この騒ぎは」
案の定、戸口から姿を見せたのはよく見知った人物だった。怒鳴りあう二人に顔を顰めると、灰色の髪を乱雑に掻いて、榛名に礼をした。
「こんにちは、榛名さん」
「透。碧たちは……」
「ああ、いいんですよ放っておいて。止めるのも面倒ですし、私は榛名さんに用事があったので」
「わたしに?」
透は頷いて、一度部屋の外へ出た。一体何の用だろうと疑問符を浮かべながらも大人しく待っていると、榛名の目前にずいと何かが突き出された。
「私ではなくてこっちの用なんですけど」
くるん、と赤い巻き毛が揺れる。その向こうから気の強い瞳がこちらをキリリと睨んでいた。――やって来たのは、透に首根っこを掴まれて仏頂面をしている茜音だった。
「透!」
突然碧が声を荒げた。こちらの動向には気付いていたらしい、ずかずかと歩み寄ってくる。
「どういうつもりだ、俺は許可していないぞ」
「だってあなた、怪我が完治するまでと悠長なことばかり言って、いつまで経っても会わせる気がなさそうなので。こういうのは早いうちに済ませたほうがわだかまりも少なくて済むものですよ」
話すのは透だけで、茜音は俯いて黙りこくっていた。榛名はその顔をじっくりと見つめた。
騙されていたということは影虎から聞いている。嫉妬心からつい嘘をついてしまったのだと。
けどその嘘に巻き込まれて、多くの人が傷ついたのだ。あの門番の人はかろうじて助かったそうだけれど、詰所にいた人たちは誰一人助からなかった。皆が駆けつけた時には既に息絶えていたのだ。
「榛名、辛いなら無理をしなくていいぞ」
そっと肩に添えられた手に、榛名は穏やかに笑って首を振った。
無理はしていない。だが、榛名には責任がある。目を逸らさず向き合う責任が。
す、と背筋を伸ばして、感情の機微をちらとも見逃すまいと茜音に注視した。
碧は榛名の落ち着き払った態度を見て、ここまで来たら腹を割って話をさせる以外あるまいと観念したようだった。難題に取り掛かるかのように厳しい面構えで腕を組む。
「……茜音。言うべきことがあるだろう」
「……碧、やっぱり、怒ってる?」
恐る恐るそう問いかけた茜音に、碧は怪訝そうに眉間に皺を寄せて唸った。
「俺のことはどうでもいいだろう」
茜音の表情が一層曇る。きっと碧に嫌われたくない一心でここまでやって来たのだろう。それがこうもすげなく返されては、立場がないというものだ。
するりと腕を伸ばして、影虎は碧の肩に絡んだ。
「まーったく、碧はにっぶいなあ。女心っつーのをまるで理解してないんだから」
「何の話だ」
「そのまんまだっつの。茜音、とりあえずさ、碧じゃなくて榛名ちゃんに先に謝るのが筋でしょ。でないと碧の怒りも解けようもないんだからさ」
影虎にそう言われ、茜音は助けを求めるように後ろを向く。だが、背後に立つ透は無言の圧力で睨みつけていた。
仕方なしに茜音はおずおずと一歩前に進み出る。一瞬、榛名の頬に残る大きな痣が目に入ってたじろいだようだったが、ついと顔を背けると、渋々といった様子で唇を尖らせて呟いた。
「……嘘ついたのは、悪かったわ」
榛名は黙って、ただ茜音を見据えていた。長く沈黙したままだったが、碧も透も、影虎でさえ榛名はすぐに茜音を許すのだろうと思っていた。穏やかで決して怒ったりしない、いつも笑顔の榛名のことだからと。
だが、榛名は静かに言った。
「許さないよ、わたし」
えっと四人が一様に声を上げた。驚いて顔を上げた茜音は、榛名の穏やかな目を捉える。諭すような静かな眼差しは、底に深い怒りを秘めていた。
「騙されていたことは、わたしのせい。だから謝ってもらえなくていい。わたしに謝る必要なんてない」
「……な、何……」
「でも、あなたの嘘に巻き込まれて死んだ人がいる。わたしを連れ去ることが目的で、襲われたのがもっと違う場所だったら、あの人たちは犠牲にならなかったかもしれない。だから、わたしに謝らなくていい。あの人たちと、その家族に謝って。わたしも勿論、謝るつもりだから」
茜音は口をあんぐりとさせる。
見開かれた瞳は、たちまち涙が潤み出した。それが決壊する直前、とうとう茜音は手放しに泣き出した。
「……ご、ごめんなさ……ごめんなさい……ごめんなさああい!」
わんわんと声を上げて泣き喚く。涙を拭きながら嗚咽する、強張りの取れた顔はただの十二歳の少女でしかなかった。
榛名はほっとして、笑顔を浮かべた。
――もう大丈夫だ。碧のことなど頭になく、きちんと自分の罪を受け入れてくれた。
榛名が腕を開いて迎え入れると、まるで突進するような勢いで茜音は腹に縋りついてきた。腹で泣き喚く、熱の塊のような少女を、榛名は励ましをこめて背をさすった。
(……こうして泣ける子なんだ)
透の言っていた意味が分かった気がした。茜音は一見、とても意地悪で我侭なように思えるけれど、それは周囲の大人を見てそう振る舞うようになっただけなのだ。
素顔の茜音は意地っ張りだけれど寂しがり屋で、こうして素直に謝ることの出来る、可愛らしい女の子だった。
「……いい友人になれそうですねえ」
一見すると温かな光景に透がそう呟いて、碧と影虎は顔を見合わせて「どうだか」と肩を竦めた。




