第八章・糸(1)
「ねえ、これどういうことだと思う?」
影虎の突拍子ない言葉に、透は分かりやすく眉をひそめた。
「……どうってどういうことですか?」
「見たまんまの話だって」
「はあ……見たまんまですか」
気乗りせず視線を戻して、影虎の言う通り、目の前の光景を見たままに判断しろというのならば、やっと晴天に恵まれた小鳥も賑わうこの爽やかな朝、目の前には衣服もはだけた男が少女を抱きしめている不埒な光景が広がっている、としか言いようがない。
狭い寝台を分け合いながらすやすやと心地よさそうな寝息が聞こえる中、二人はひそひそと顔を寄せ合った。
「いやだっておかしいでしょ?! ここ榛名ちゃんの寝台だし」
「付き添ううちに眠ったんじゃないんですか」
「布団に潜り込んでか? 服も殆どはだけてんのに?!」
それは元々だと言おうとすると、影虎は首を振って、やたら神妙ぶった顔を近づけてきた。
「いや、言わんとするところは分かる。……つまりあれだ。とうとうやっちゃったと」
「どこがどう分かったんですかこの馬鹿は」
「だってどう見てもそうじゃん! これはどうみてもじ」
透は影虎の頭を思い切り殴った。
「な訳ないでしょうが。榛名さんの今の状態でそんなことを考える馬鹿はあなただけですよこの馬鹿」
「あぁ? だって碧だって年頃だし、その場の勢いとかあるでしょーが」
「年頃でも王族ですよ。分別くらいあります」
「青少年に分別なんかあるか!」
「けだものは黙れ」
思わず声が大きくなっていったのか、寝台の方からううん、と唸り声がして、二人は慌てて声を小さくした。
「……それで、犯人はどうしたんです?」
問いかけに影虎は大きく溜め息をついた。
「一応連れ帰ってきたけど、大きな処罰は出来ないね。市民誘拐の上暴行。罪状はそこまでだ。それじゃあただのトカゲの尻尾切りだよ。……もっとも、今更本人たちが首謀者を口にしたところで、信用もされないだろうけど」
透は表情に影を落として首肯する。透にも大体想像はついていた。それでも榛名の惨状を思えば、どうしたって気は重くなる。
「碧には最低限だけを伝えてください。どうかそのように」
声をひそめて嘆願した。
碧とて宮中の人間だ。彼らの処遇については伝えずとも分かっているだろうが、その理不尽さを目の当たりにして、感情的にならないとも限らない。
影虎はあっさりと頷いた。
「それは分かってるよ。碧がキレたら俺も手に負えないし」
「……ああ、分かってるんですね。あなたも」
透の言葉の意味するところに、影虎は苦笑を返した。
碧は普段冷血だ。従者に対する態度など暴君さながら、非道な振る舞いで一切他人を寄せ付けようとしない。なのに一度心を許した人間のことになると、途端に激情型になる。
榛名が碧にとってどちら側か、口にするまでもなかった。
「……好きじゃなかったら、いくら頼まれたからって翠を置いて追いかけようとなんかしないでしょ。っていうか、最初からそうじゃない? あの碧が女の子を匿うなんてさ」
「そうですね……それは私も驚きました。碧があんな不安要素を拾い上げるなんて、考えられませんでしたし」
くすりと笑った透は、不意に奇妙な胸騒ぎがした。
――そうだ。思えば最初から不思議だったのだ。何故碧があんな少女を匿おうとしたのか。
その不安が薄れたのは、翠の体調が思わしくなくなってしまったからだった。碧にとって、翠以外に大切なものが出来ればいいと望んだ。しかし、今になって思えばそれは間違いだったのかもしれない。
(……いや、翠はもう永くない。支えてくれる人がより多いほうが……)
――いいや、違う。そんなことではない。もう既に間違ってしまった。そんな気が――。
思考を探るうち、耳に届いた衣擦れの音に、透ははっと顔を上げた。
見れば、眠っていたはずの碧はいつの間にか半身を起こしていた。ほつれた黒髪はしどけなく唇にかかって、その向こうにある碧色の瞳は眠たげにとろんとしていた。
思わず透は顔色を変えて後じさった。
――完璧に見える碧だが、実は碧には重大な欠点がある。それは、途轍もなく寝起きが悪いということだった。いや、そんな言葉では言い尽くしがたいほど極悪で、その日によって態度は違うが、どれも厄介なことに変わりなかった。
透は引き吊った笑顔を作ると、聞き取れないほどの早口で述べた。
「どうも殿下はお疲れのようですね昨日の今日ですから仕方ない仕事は全て私にお任せ下さい――それでは急ぎますので!」
「あっ逃げんな!」
呼びかけは一歩遅く、影虎が手を伸ばした時には透は既にすたこらさっさと逃げ出していた。
背後には威圧的な沈黙が張り詰める。
冷や汗を滲ませながら振り返ると、凶悪な面構えで碧がこちらを睨んでいた。
「お、ハヨー?」
一応にこやかに声をかけてみるが、碧の眉間には更に深いひびが入った。
「黙れよ……煩せぇ」
「やだなあーちょっとした朝の挨拶だよ?」
「黙れってつってんだろ。声が響く。死ね」
頭を抱える碧に、今日は機嫌が悪いほうか、と内心影虎は胸を撫で下ろした。それならばまだましなほうだ。悪くとも部屋が傷だらけになる程度で済む。無論、これも十分厄介なのだが――人でも殺しそうな目つきで睨みつけてくる碧を尻目に、影虎はため息をついた。そして笑顔を作って振り返る。
「で、もういい時間だよ? 仕事は透がやるらしいけど、起きる?」
「……疲れてんだよ。うるせえな」
わしわしと頭を掻いている碧を見て、影虎は首を傾げた。変だ。機嫌が悪い寝起きの場合、もうとっくに剣に手を伸ばしている頃なのだが――。周囲を探すと、碧の愛刀は彼の手からかなり離れた壁際に置かれていた。
(あれ?)
普段、碧は就寝時ですら刀を手放さない。暗殺に慣れた悲しい習性か、そうするのが身についていて、でなければ眠れないのだ。だというのに、今日に限って何故。
(……もしかして、榛名ちゃんのため、とか?)
ざわ、と身の内が震える。
いや――勿論、普通の男ならそうするだろう。暴力に怯える一日を過ごした彼女に、護身のためとはいえ身近に剣を置いて怖がらせたりしないよう、細心の注意を払うはずだ。だが、影虎ならば絶対にしない。――碧も同じだと思っていた。
――人は、大切なものが出来ると弱くなる。
「……碧、榛名ちゃんさ」
話しだした途端、碧は突然電流を流したように飛び上がった。
「榛名!」
ばっと振り返ると、すやすやと眠る榛名の頬や額にぺたぺたと触れる。心配で仕方ないといった顔で一通り調べ終わると、長い安堵の息をついた。どうやら完全に目が覚めたようだ。
「起きた?」
おもむろに話しかけると、
「はあ?」
胡乱に睨まれて、影虎は肩を竦めた。
碧の寝起きで一番性質の悪いところは、はっきり覚醒してしまうと何一つ覚えていないところだった。
「……ほんっとムカつく……」
「何の話だ」
「……何でもナイデス。榛名ちゃん、熱あるんだっけ? 下がってるみたい?」
「いや。まだある」
「数日中だっけ? 心労も重なったってんなら長引くかもしんないね。でもま、これを期にゆっくり休ませてやったら? 榛名ちゃん、今までかなり無理してたんだと思うよ。ぜんっぜん知らない場所に来て、知らない奴と生活して、帰る宛もなくて。わがままも言えないし、熱出す余裕もなかったんじゃない? ……って、何してんの碧」
碧は寝台にめり込むのではないかというほど俯いていた。見るからに落胆しきっている。
「……いや。無理をさせていたんだな、と」
「そんくらい分かってたでしょ? ほら、んなこと言う前に、これから榛名ちゃんに気を遣ってやんなさいね」
肩を叩くと、碧は小さく首をこくりと動かした。子供のようの仕草に、つい頬が緩む。影虎は碧を軽く小突いた。
「……つーか何で未だに布団の中なわけ。眠いの?」
「……いや。榛名が」
「心配ってか?」
にやついてからかうと、碧は思いのほか深刻な顔で呟いた。
「そうじゃなくて……離れると、うなされて泣く」
「へー。かあいいじゃん」
軽い気持ちで口にすると、碧は何故だかぽかんとする。そしてみるみる耳まで紅潮した。
「か……っ可愛いとかは置いておいて、だな」
「……。うん、まあいいや。で」
「心配じゃないのか、お前」
「は? あー、まあしばらくは痛みも続くし見た目もひどいかもしんないけど、目立つような痕にはならないんじゃない? 刀傷も浅かったし」
「そうじゃなくて」碧はじれったそうに言った。「俺が言っているのは心のほうだ。……こんな目にあって、今までのように笑えるかどうか」
影虎は、何だそんなことかとあっさり言った。
「それはないと思うよ」
「何故」
「何故って、勘?」
「適当なことを言うな」
鋭い視線に、影虎は苦笑した。
「そうは言うけど、実際そうだと思うもん。これについては透も同意見だと思うよ? 榛名ちゃんのこと分かってないのは碧の方でしょ。榛名ちゃんは強いよ。今までだって、碧が思ってるよりずっと色んなことに耐えてきた。それでも笑ってお前の傍にいたんだよ。危険を覚悟してね」
「覚悟といっても、実際とは違うだろう」
「そりゃそうだけどさ、それは碧もそうなんじゃない? 碧、王族であり碧の瞳であるお前の隣に、それもあらゆる事情が絡んだお前の傍に、ごく普通の女の子がいるって実際にどういうことか、本当に分かっている?」
虚を突かれ、碧は言葉を濁す。
「……それは、辛いだろうと」
「ああ、辛いだろうね、そりゃ。茜音やその他大勢に意味も分からず貶められ、お前のために故郷の大切なものを捨てて。その上何かあれば真っ先に自分が狙われると忠告されて、それでも傍にいる、そういうこと全部引っくるめて分かってやってるって言える?」
碧の目が見開かれる。彼は知らないだろう。榛名が今までどれだけのことを諦め、耐えてきたか。長い時間隣にいた影虎ですら、きっと全ては計れない。
それでも、あの紙束を燃やす時、泣きながら碧には言わないで、と乞うた彼女を思い出せば、少しは分かる気がするのだ。
「……榛名ちゃんは強いよ。強くて柔軟だ。立ち止まって、やけを起こして投げ出したりしない。勿論今すぐには無理かもしれないけど、きっといつか乗り越えるさ。それを支えるのがお前の役目だろ」
そう言って碧の背中を思いっきりひっぱたくと、「痛いな」と文句をつけながら睨まれた。それでも、視線が交わると途端に相好を崩す。
こうして改めて見ると、碧の笑顔は無邪気だった。目元をくしゃくしゃにして、声を上げて笑う。闊達な青年の笑顔に、じくり、と胸の奥深くが膿を吐き出すのを、影虎は笑顔でやり込めた。
そうしているうち、微かに声が聞こえた。
振り返ると、寝台に横たわった榛名の、包帯だらけの隙間から覗いた瞼が、僅かに痙攣していた。差し込む光に眩しそうにゆっくりと瞬きを繰り返して、乾いた唇が動く。けれど、喉は音をなさない。
「……榛名?」
碧が呼びかけて、眦に軽く触れると、榛名は小さく笑った。
「あお」
綻ぶような温かい笑顔に、碧の目も和む。隣に座ったまま、優しい声音で語りかけた。
「体調は大丈夫か? どこか痛くないか」
「……だい、じょうぶ」
「無理はするな。まだ熱がある。寝ていろ」
ふんわりと布団をかけると、不安げな眼差しが見上げていて、碧はふっと笑って榛名の手を握った。
「大丈夫だ。ちゃんと隣にいるから」
目元が和らいで、ぎこちなくも笑ったのが分かる。
何故か腕の包帯の白さが目について、影虎は目を逸らした。その手首につけられた青い腕輪の、黒い蝶が瞼の裏で羽ばたく。どろり、とまた血の混じった膿が吹き出るのを感じた。
口角を引きつらせ、それでも影虎は笑みを作る。
「あー、碧。俺、食事取ってくるわ。榛名ちゃんの分もさ」
上ずった調子を奇妙に思い振り返れば、碧は影虎の硬い表情について問いただしたかもしれない。けれど、幸いにか彼の目には榛名しか映っていなかった。
「ああ。頼む」
疑いもなく笑う二人に、剥がれかかった仮面をつけて影虎は部屋を出て行った。
ゆらゆらとする視界の中、影虎は壁伝いに何とか歩いた。
今や毒は体中に回り、息をすることすら困難だった。人知れず膨れ上がった思いは、針でつつかれただけで、たちまちどろどろと溢れた。
(言って――どうするんだ)
言う必要がない。碧が何と答えるか、影虎には容易に想像がつく。
再会した時、碧は今まで本当にただの一度も悔いたことがないのだと知った。逃げ出した先で幸せでいてくれと、それだけで。
苛立ちが駆け上がってきて、力任せに壁を殴りつけた。
――どうしてそんなに違うんだ。
碧と影虎は同じように育ち、同じように大きくなった。幼馴染同士、道は分かたれたけれど、根っこではずっと繋がっている気がしていた。――いや、それは間違いないのかもしない。縛られているものも、今でも二人は何もかも同じだ。似た者同士。なのに、決定的に異なる一点がある。
それは、碧は決して他者を恨まないということだ。どれだけ己を呪い、憎んでも、その思いが他者に向かうことはない。巴のこともそうだ。自分のせいだと言い張って抱え込もうとした。影虎ならば、幼い時分のことなど知るかと、簡単に切って捨てただろう。
同じように育ってきたのに、碧はどこまでも白く清く、汚れない。その瞳の碧がどこまでも澄んで美しいのと同じように。
――痛い。そんな強さは見たくなかった。
胸を掻き毟ると、自分の汚さが吹き出してくる。
苦しい。
それから、どうやって配膳を受け取り部屋に戻ったのか影虎は覚えていない。他人から見れば、ふらついてすらいなかったのかもしれない。
何とか戻った部屋は静かで、見渡してもどこにも碧の姿はなかった。ほっと肩を落とす。今は碧の顔を見たくなかった。
不意に聞こえた鳥の声に目を向ければ、榛名は上半身を起こしたまま、窓から空を見ていた。日差しが頬を照らし、白い布が眩しい。小窓から榛名にだけ降り注ぐ光は、まるで神の使いのようだった。
床板が軋む音に気が付いて、彼女はぱっと振り向いた。
「影虎」
起床から経ったからか、少し話せるようになったらしい。
膳を机に置きながら、影虎は出来る限り笑顔を作って話しかけた。
「碧は?」
「おみず、とりに」
身振り手振りを交えて話す。熱はそう辛くないらしい。いつものように、ふんわりと微笑んでいる。
その温かさに、唐突に碧と榛名の握られた手を思い出した。同じ腕輪、同じように向けられた瞳。それは、影虎には一生手に入らないものだ。こんな汚い血を引いた自分には、きっと不可能な。背中を突き飛ばされる衝撃で、視界が揺らぐ。
「榛名ちゃん」
彼女は影虎の苦悩を知りもせず、小首を傾げて純粋な瞳で見つめ返す。
やめてくれ。
そんな綺麗なものばかり、見せないでくれ。
やめろと訴える心を置き去りに、喉が勝手に震えて音を発した。
「何で茜音のことを、信じたりしたの?」
「え?」
目を丸くしている榛名に、苦笑が漏れる。
ああ――彼女はこの期に及んでもまだ気が付いていなかったのか。自分が茜音に騙されたことに。
頭では嫌になるくらい分かっていた。榛名は無知だ。人を疑うことを知らない。騙された榛名に罪はないし、騙した茜音とてこんなことになるなんて思ってもいなかっただろう。だから責めてはならない。なのに、暴力的な思いは止まらなかった。
「あれねぇ……茜音の嘘だよ。全部」
驚く顔に、愉悦が浮かぶ。
ああ、汚い。
「どうして一人で行動したりしたの? 茜音なら嘘をつかないと思った? けどそれはいくらなんでも無用心が過ぎるんじゃないかなぁ。榛名ちゃんにはあの時、俺を待つなりなんなり出来たはずだよね。――俺や碧がどれだけ努力したって、肝心の榛名ちゃんが危機感を持たないと無意味だよ。迷惑をかけた自覚はある? あと一歩遅かったら榛名ちゃん、死んでたんだよ?」
じりじりと逃げ場を奪っていく言い方をする自分を、卑怯者だとどこか冷徹に観察する。
卑怯者め。自分もまた、透に忠告を受けていただろう。人を守ることの重みを知らないと。なのに榛名を責める資格はない。
「ねえ――榛名ちゃん」
一歩ふらりと近づいて、影虎は心臓が重く鼓動するのを感じた。
彼女は、笑っていた。
少し泣き出しそうな困った顔で、けれど穏やかに。
動揺で、暴れ狂っていた思いが挫かれる。
「……何で、笑うの」
影虎の問に、だって、と榛名は眦を拭って笑った。
「やっと影虎が、本当の顔をして怒ってるから。嬉しくて」
「……え?」
間抜けな一言だったが、それしか出てこなかった。榛名は目尻を下げて言う。
「わたしには影虎、いつも笑ってるでしょ? でも、碧たちには皮肉言ったり怒ったり、そういうのがきっと本当の影虎なんだよね。だからわたし、怒ってくれて嬉しいよ。……でも、無用心だったってことは本当に反省してる。ごめんなさい」
頭を下げる榛名を見て、滑り落ちるように水滴が一粒頬を溢れ落ちていって、はっとした。
「あれ?」
突然のことに目を丸くする榛名に、影虎は慌てて手を振った。
「や、ごめん違くて。……何だこれ。ごめん、ちょっと待って」
顔は笑っているのに、胸が痺れるように熱くなって、次々に涙が溢れてくる。初めての感情に動揺して、影虎はどんどん赤くなっていった。
「……なんか、とまんな……」
す、と手が伸ばされて、ひやりとした指先が影虎の頬に触れた。
「かげとら」
目の前に広がる、柔らかい微笑みが、影虎を冷静にさせた。
一つ笑って、影虎は寝台に座り込んだ。
「榛名ちゃんさあ――親父に会ったでしょ」
「……」
黙り込む。嘘の付けない子だ。きっと影虎のために、誰に言うつもりもなかったのだろう。
「俺さあ、ずっと思ってたんだよね。飛燕っていう新しい家族が出来てさ、兄弟も親子も、大事なのは血の繋がりなんかじゃないって。……でも、違ったのかな。やっぱり、血、なのかな」
冷酷で、誰も愛さない父親。碧の瞳としての影虎しか必要としなかった、残忍な。
けれど、気がつけばその大嫌いな人間に自分は似ている。否定すればするほどに。
「……期待しちゃうんだよね。ああいう人間だって、とっくに分かってたのに。馬鹿だよね、ほんと。榛名ちゃんに恨まれても、仕方ない」
目を伏せて、自分を嘲笑う。
勝手に期待して、裏切られて、そのたびに憎んで。何一つ、変わっていない。あの頃の、幼い自分のまま――
ふわり。
自分をそっと包む感覚に、驚いて影虎は息を飲んだ。
耳元で、痛みを堪える苦悶の声が漏れ聞こえる。
「はるなちゃ」
「――似て、ないよ」
はっきりと告げる、その言葉に、影虎はまた喉を鳴らす。
「影虎、は、……優しい、ひとだよ」
苦痛に喘ぎながら、それでも榛名は伝えようと必死に口を動かした。
「……影虎は、助けに、来てくれたじゃない……!」
どくん。
鼓動がはやくなる。
榛名はゆっくりと体を離して、膝の上に置かれていた桃色の紙を影虎に差し出した。
「……これ」
首を傾げると、榛名はこくりと頷いた。
いつもの、手紙だろうか。
折り畳まれた紙に手をかける。乾いた音を立てて開かれた紙には、下手な字で、こう書いてあった。
『いつもありがとう 榛名より』
短い一言だった。傷だらけの腕で書いたからか、字はふらついて、解読すら難しい、下手くそな手紙だった。なのに墨の濃さが瞼に焼きついて、またじんと目頭が熱くなった。
「……榛名ちゃん」
ん?、と首を傾げる彼女に、影虎は笑った。
「馬鹿」
救いようがないくらい、彼女は馬鹿だ。高熱で、体中痛むだろうに、そんな中何をするかと思えば感謝の手紙だなんて。
馬鹿馬鹿しくて、だからどうしようもなく――好きで。
影虎に突然罵られた榛名は、それでもやはり何も言わず、照れたようにふんわりと笑った。
*
ふううう、と長い吐息が頭の天辺からおりていく。
碧は戸口にたったまま、俯いて床板を眺めていた。榛名の寝台の横には小窓がついていて、ある程度の会話は外にも響いてしまう。立ち聞きするつもりはなかったのだが、機を逃してそのまま、立ちぼうけていた。
(……どうしたものかな)
漏れ聞こえる笑い声を背にして、空を見上げる。
――影虎が榛名に惹かれるだろうことは分かっていた。
影虎はきっと碧のことを弟のように思っているのだろうが、碧は違う。心の根底に広がる、淀んだ暗い海で繋がっている――そう感じていた。
二人は同じ川から分かたれた支流のようなものだ。抱えているものも求めているものも同じ。だからきっと影虎も榛名を求めるだろうと思っていた。けれど、
(……俺とあいつは、違う)
明確に分かつ、二人の差。
影虎は榛名を何の障害もなく愛せるが、碧はそうではない。どうあっても榛名をこの因果に引き連れて、茨の道をいかなければならない。
重い体を壁にもたれかけ、碧はぎゅっと唇を噛み締めた。
(それでいいのか……)
好きだと伝えるのは容易いが、その一線を踏み越えていいのだろうか。彼女の幸せを思えば尚更、伝えるべきではない気がしてしまう。
ふと腕輪が目について、碧は顔を歪めた。
求めるところに飛ぶという、国の象徴である蝶。けれど、同じ象徴である碧の瞳の碧は、心の赴くままに生きることは出来ない。蝶も蜘蛛の巣にかかればがんじがらめとなり二度と飛ぶことは出来ぬように、宮という糸に絡め取られた碧は、飛ぶことが出来ない。
――そうして、二度と届くことはない。
ごう、と一陣の風が吹き荒れて、木々を渡り青葉を揺らす。そして、碧の耳にざわめきだけを残した。




