第八章・糸(4)
しとしとと、雨音が聞こえた気がした。
けれど外は清かな星明かりで満たされていて、聞こえようのないそれに耳を澄ませば、それは皆のすすり泣きで、悲嘆の声は鳴り止むことなく部屋に響いていた。
榛名は肺が痛むほどに激しく嗚咽していた。どれだけ涙が悲しみを溢れさせても、胸を苛む痛みは広がるばかりだった。
どうしてこんな。安らかな表情で眠る翠の顔を見るたび、何度でも悲しみが襲いかかってくる。
終わりがないかと思えた時の中、ふらりと人影が動いた。
腫れぼったい目で皆を見下ろす、灰色の目は冷たかった。
「……碧」
透は翠を抱きしめたまま離さずにいる碧の隣に座ると、その肩にそっと手を置いた。
「今後のことを話しましょう。今しか出来ません」
それでも碧は一切反応を示さなかった。頭を伏せ、体を震わせるだけだ。
透は力づくで無理矢理碧の体を引き起こすと、顔を上げさせた。
「しっかりして下さい。辛いのは分かりますが、あなたは碧の瞳でしょう。そして王を偽ることに加担している」
はっとしたように腕の中の力が緩む。透は厳しい表情のまま続けた。
「碧。碧の瞳として、翠の弟として、行ったことにきちんと最後まで責任を取りなさい。泣くのはそれからです」
碧は涙をいっぱいに溜めた目で透を見返したが、自らを叱咤するように唇を噛み締めると、ゆるゆると首を下ろした。そして額に手を当て唸る。
「とりあえず……透は侍医を」
「分かりました」
「影虎は茜音と榛名を送っていってくれ」
「茜音はいいとして、榛名ちゃんを一人にしていいの?」
「榛名には後宮で待っていてもらう。この近くならば衛士もいるし人も通らないだろう。透、警備に二人ほど応援を頼む」
「了解いたしました」
「全て終われば二人ともこちらに戻れ。話がある」
命令する顔は既に王族の顔になっていた。毅然として、先程までの哀哭はどこにもない。
それでも、まだ泣き顔だった榛名と視線がかち合うと、碧は柳眉を歪めてすぐに顔を背けた。
「……夜には戻る」
低い声に、榛名ははっとする。垣間見えた沈痛な面持ちに言葉が出てこず、その場にへたりこんだ。
そうして碧は榛名が出て行くまで、一度も振り返ることはなかった。
*
吐く息は地に沈むように重く、榛名は欄干に腰掛けたまま、床に落ちる影を見つめていた。
微動だにしないそれは、この静寂をまるで永久のもののように思わせる。王が亡くなったというのに、この宮は変わらず静寂に包まれていて、幾人かが出入りしている姿を見かけたきり、何の変化も起こらなかった。そうしていると、段々あれは夢だったような気がしてきて、榛名は欄干を握る手に力を込めた。
――夢じゃない。甘い思考に逃げては駄目だ。翠は確かに死んだ。歴史は変わったのだ。それが事実だ。
(でも、どうして……)
歴史が変わってしまったのは、榛名がやって来たからだろうか。それが一番可能性が高いような気がしたが、それなら今ここにいる未来の人間である榛名にも、何がしかの変化があるはずではないだろうか。しかし思い当たる限り、榛名には何の変化もみられない。
考えれば考えるほどこんがらがって、次第に頭痛がしてきた。どれだけ考えても、分からないものは分からなかった。答えを教えてくれる優しい魔法使いは、この世界にはいない。
目を瞑ってこめかみを押さえていると、コツ、と硬い音がした。
軍靴のような、独特の高い音。
顔を上げて、榛名は小さく笑ってしまった。
――気がつけば、足音一つであなたのことが分かるようになった。
星の光に照らされた廊下の向こう、薄い青のヴェールに包まれて、碧はそこに立っていた。青白く浮かびあがった姿は秀麗で、瞳は夜空を映してより深く輝いている。
視線が交わって、碧は奇妙な微笑を浮かべた。
「榛名。星を見に行かないか」
「星?」
「いつか、一緒に星を見ただろう? ……あの日のように」
急な誘いに、怪訝に思った榛名は訳を問い質そうとしたが、朱が差した目元に気が付いて、黙って頷いた。
手をとって、ここからそう遠くない橋廊に向かう。宮の回廊には必ず屋根があるが、弓なりに反った橋には屋根がない。そこに立つだけで、満天の星を眺望出来た。
橋廊が見えると、興奮した榛名は駆け寄って欄干に手をかけた。大きく背伸びするように頭上を見上げると、思わず感嘆の声を上げる。
空は天幕を張ったように一面星に覆われて、散り散りになった星が緑、青、紫と不思議な濃淡を作って夜空を染め上げていた。まるで本物のプラネタリウムのようだ。けれどこんなにも美しい空なのに、今日は何が欠けたように物寂しく思えた。あまりに高すぎて、この広い世界で二人ぽっちになってしまったかのようだ。
コツ、とまた音がして、並び立つ吐息に少し安堵を覚える。
「……綺麗だね」
「……ああ」
囁きは虚空に消えていく。
碧は夜空を瞳に映したまま、ゆっくりと話しだした。
「榛名、覚えているか? 最初にこうして星を見た日、お前は俺に忘れないでくれと頼んだ」
「うん」
――覚えている。ブレスレットを貰った日のことだ。
「次に星を見た時は、影虎と一緒に、後悔しない、決して嘘はつかない、必ずお前を守ると約束した」
「覚えてるよ」
榛名は笑って答えた。どれもこの星以上に輝く大切な思い出だから、色褪せぬままこの胸に残されている。
碧は再び靴を鳴らして、榛名に向き直った。
「……今度は、俺からお前に頼みたいことがあるんだ」
「……頼みたいこと?」
首を傾げる榛名に、碧は硬い表情で言った。
「――俺がお前のことを覚えているように、俺のことも、ずっと忘れないでくれ」
榛名は驚いて、何度もぱちぱちと瞬きする。そしてふっと笑って、碧の手を取った。
「忘れたりしないよ。碧のこと、何一つ忘れたりしない」
冷え切った手を包み込む。
約束などしなくても、大丈夫だ。榛名は碧のことを、ここで出会った人々のことを、きっと一生忘れることはないだろう。たった一夏のことだったが、それだけ鮮明に焼きついている。
温もりが血潮のように、ゆっくりと伝わっていく。
ふと碧を見上げると、何故かその顔は今にも泣き出しそうな笑みに歪められていた。
「どうしたの、あ」
――お。
音が喉を震わせる直前、するりと腕が伸びて、榛名は引き寄せられた。包み込む腕は柔らかに、けれどどこか必死さを滲ませて、榛名を胸の中に閉じ込める。
耳に吐息がかかって、ぞくりと背筋が震えた。
「榛名」
駆け上がるように顔が赤くなる。咄嗟に距離を取ろうとする手を、力で強引に封じられた。
「……榛名。榛名……」
碧は何度も何度も、確かめるように名前を呼んだ。
甘やかな声に、芯から震える。
――ああ。
ぞくぞくするほどに実感する。
どうしようもないくらい、この人のことが好きだ。
何もかも捨てても構わないほどに、好きになってしまった。
抵抗する力をなくしてしまった榛名の髪に指を絡ませて、碧は澄んだ声で囁いた。
「……榛名。教えてくれ。俺はお前のことを殆ど知らない。お前の生きた国のことも、お前の家族のことも聞いたことがない。……辛い思いをさせるかもしれないと、今まで聞いたことがなかった。けれど、聞いてみたいんだ。教えてくれ。そこはどんな世界だ」
榛名は耳元で響く鼓動を聞きながら、笑って教えた。
「そっか、詳しく話したことはなかったよね。わたしには両親と、お姉ちゃんと弟がいるよ。お姉ちゃんはしっかり者で、弟は甘えん坊なの。でも、とっても可愛いんだよ。――住んでた国はね、こことは全然違うよ。夜でも明るくて、だから、こんな星なんて見えなかった。――そうだ、未来に碧の瞳はないんだよ! こんな綺麗な色がないのはすっごく残念だけど、でもね、王様なんてものはいないんだ。そういう国もあったけど、わたしの国は皆が選んだ代表の人が国を動かしてたんだよ。色々問題もあったけど、みんなが自由で、飢えたりすることのない国だった」
「……そうか。平らかな世なのだな」
碧は小さく自嘲すると、空を仰いだ。
「一体幾星霜の時が過ぎ行けば、そんな世界が訪れるんだろうな。……俺には遠くて、見えない」
ずぐん、と引きちぎられるように胸が傷んだ。
――どれだけ年を重ねて、未来を繋いでいっても、榛名の世界に碧はいない。その壁はどうしたって越えられない。
けれど、榛名は確信を持って言った。
「ねぇ、碧。碧はわたしに、ずっと見えなかった世界を見せてくれたんだよ」
「……?」
疑念を浮かべる碧に、榛名は満たされた心のままに前を向いた。
「わたしが今までいたのは、閉じられた小さな世界だったの。そんなわたしに惟を、眩しいくらい素敵な世界を教えてくれたのは、碧だったんだよ」
いつだったか、榛名はここを真秀ろばだと思った。太陽に照らされ、緑に包まれた、人々の笑顔が満ち溢れる豊かな国。今も変わらず、ここは榛名にとっての真秀ろばだ。そこで出会ってきた全てのことが、光の礫となって胸の中で輝き続けている。
「ねえ碧。……わたしね、惟にやって来て、とても楽しかった。辛いこともあったけど、それでもやっぱり、みんなと会えてよかったよ。だから後悔なんかしてない。……そう思えたのは、碧のおかげ。碧がいてくれたからだよ」
たくさんの光点の中、誰よりも光を放つ、眩しくて温かい、愛しい人。だからそのあなたに、見えないはずがない。
「見えるよ、碧。大丈夫。わたしが、碧の未来だよ」
喉が凍てつく音が聞こえる。
「……榛名……」
呼び声が苦しげに枯れて、突然榛名は強く抱きすくめられた。
痛みに喘いで、どうしたのと問いかける前に、碧は言った。
「俺は王になる」
目が見開かれる。
どくん、と耳元で碧の鼓動が重く鳴った。
「……碧が……」
王に?
それ以上は喉が塞がれたように、何の音も出なかった。
碧が、王になる。
――それはつまり、歴史が真実になるということだ。
ぐっと力がこもる手に、碧は言った。
「分かってくれ。このままでは宮中は完全に宰相のものになるんだ。それだけは出来ない。俺にはこうする以外止める方法がないんだ」
「……だって、それじゃあ碧は」
碧は。
――十九で暗殺される、翠王になってしまう。
戸惑う榛名に、碧は射抜くように凛と遠くを見据えて言った。
「……翠が死んで、俺には一つ分かったことがある。翠が言っていたことの意味が、やっとこの胸にも下りてきたんだ。榛名、運命は必然なんだ。なるべくしてなり、出会うべくして出会っている。……この瞳は、翠の力は、そういうものなんだ」
「……え?」
「俺とお前が出会ったのも、きっとこうなるためだったんだ」
榛名は凍りついた。
それは、つまり。
(碧を最後の王にするために、わたしはやって来た……?)
運命の糸は、歴史という図を完成へと織り成すために、榛名をこの世界へ呼んだ。それが必然だったのだ。
「そんな……ことって」
愕然とする榛名の頭をぎゅっと抱え込んで、碧は優しく囁いた。
「悲しまないでくれ。……俺は本望なんだ。これで歴史は違えない。それでお前を守れるというのなら、俺はどんなことだって出来る」
すう、といつの間にか涙が一筋頬に流れていった。
違う。こんなのは間違っている。――それが運命だなんて、信じられない。
「……嘘だよ、碧」
ぽつりと呟いた一言に、碧は苦笑混じりに答えた。
「……嘘じゃない。……お前に嘘はつかないと、そう言っただろう」
耐えられなくなって、唇が歪む。涙は大粒の雨になって次から次へと溢れてきた。
碧は王になる。榛名の告げた陰惨な歴史通り、白刃の露となって消える。
これはそれでも共についてきてほしいという願いではなく、別れの挨拶だ。
けれど。
榛名は碧の服を鷲掴んだ。
――けれど、碧は今ここに生きている。鼓動が聞こえる。温かさを感じる。言葉を交わすことが出来る。なのにどうして、どうして死ななければならないのだろう。
泣き続ける榛名に、諭す声が降ってくる。
「榛名。俺はずっと……王にはなれないと思っていた。こんな呪われた身で、なれるはずがないと。怖かったんだ。耐えられなかった。一国を背負うというのは、それだけ重いことだ。だが、お前がその勇気をくれた。……国のためでも、他の誰のためでもなく、お前のためなら出来ると思うんだ。俺が礎となって、お前の未来にこの国を届ける。だからどうか」
力が緩んで、ゆっくりと呪縛が解かれていく。そして榛名は碧の最後の言葉を聴いた。
「……幸せに、なってくれ」
心臓が重く揺れる。
(……幸せに……)
碧をなくしたまま、欠けた空虚を抱えて?
――出来るはずがないと、そう言いたかった。碧がいない世界で、幸せになんてなれないと。なのにもはや立ち上がる力すら起きなくて、榛名はずるずると床に膝をついた。零れていった涙が、雨粒のように床板にいくつも染みを作る。
嫌だ。こんなのは嫌だ。こんな終わり方だけは、絶対に。
「……待って……」
待って。
行かないで。
置いて行かないで。
ありったけの力を振り絞って振り返ると、榛名は縋るように叫んだ。
「碧!」
嫌だ。嫌だ。まだ何一つ、伝えていない。
あなたが好きだということ。
あなたといると幸せだということ。
傍にいたいということ。
他の誰でもない、あなたと生きたいのだということを――
「碧!! ……碧……っ」
声が枯れるまで叫び続けても、碧は決して振り返らなかった。きっと何度呼んでも、彼は振り返らないだろう。後悔しないと、この手に誓ったから。
滂沱として流れる涙が頬を伝う。
けれど、同時に榛名は感じてもいた。
今まで翠のためだけに生きてきた彼が、あらゆるものに縛られてきた彼が、初めて自分の心のままに選んだ答えがこれなのだと。
皮肉にも、今まで与えられてきた淡雪のような優しさの中で、何よりも碧の思いを感じた。
碧は榛名のために、自らを犠牲にすることを選んだのだ。
去っていく背中が涙で掻き消えていく。
どうあっても、もう一緒にはいられない。止めることなんて出来なかった。
青い石を通した腕輪が、涙で濡れていく。震える体を抱えこみ、榛名は力尽きるまで泣き続けた。




