第七章・恋心(1)
「ううん……」
悩ましげな声を漏らす。
榛名が眼光鋭く睨みつける先にあるのは、文字の羅列だった。
幼児向けのその絵本は、簡便な文章しか書かれていない。同じ年頃の少女ならば数分で読めるような内容なのだが、榛名はそれを何度も何度も繰り返し読み込んでいた。
分からないのではない。影虎の教えもあってか、書くほうはまだまだだが読みは随分と上達して、これくらいの本なら時間をかければ一人で読めるようになった。
今の問題は集中力にあった。
物語は熊が道の途中で花やどんぐりを拾い、最後に友達の熊へ贈り物をする――と、それだけなのだが、どうしても途中で字を追いかける目が止まってしまう。読みふけるうち、ふと碧のことを思い出しては、顔から火が出そうなほど恥ずかしくなって、本を読むどころではなくなってしまうのだ。
はあ、と吐息を落として本を閉じる。寝台に転がったまま瞼を下ろした。
――隣にいてほしい。あれは一体どういう意味なのだろうか。多分、言葉通りだろう。榛名が帰るその日まで一緒にいてほしいということで、他意はない。
榛名だって、味方でいると決めた時から勿論そのつもりだし、何よりここより他に行く場所などないのだから、何もおかしくないはずだ。
なのに、何故かあの時のことを思い出すと、転がりまわりたいくらい恥ずかしくなるのだった。
(恥ずかしいところを見られちゃったからなあ……)
一番辛いはずの碧に見せたい姿ではなかった。それは確かだ。けれどそれでは説明がつかないものも同時に感じていた。
――あれ以来、少しずつだが、碧は元気を取り戻しつつある。食事も増え、顔色もよくなり、たまに笑顔も見せるようになってきた。
ふう、と息をつく。榛名もはやく元気を出さなくては。こんなことで悩んでいては変に思われてしまう。彼に倣って、前を向こう。
本を抱え、胸をゆっくり上下させると、呼吸を止めて、喝を入れるように脇を締めた。
気合を入れた榛名の耳に、カツ、と硬い音が聞こえた。
「……あら。いないの?」
高い声が聞こえて、慌てて榛名は敏捷に身を起こした。
衣擦れに気付いた相手は、返事を待たずに乱暴な足取りでこちらに歩いてくる。衝立から覗いた顔は相変わらず不機嫌そうだった。
「いたじゃない。紛らわしいわね」
「茜音さん」
赤銅の髪を翻し、茜音は小さな胸をいっぱいに反らして立っていた。会釈した榛名を一瞥すると、ふんと鼻を鳴らす。
「いるならとっとと返事しなさいよね。耳詰まってるの?」
「……あ、もしかして何度も呼んだ? ごめんなさい、考え事してて」
「はあ? あなたのことなんか何回も呼ぶわけないじゃない」
吐き捨てるように言うと、茜音はぐるりと視線を巡らせた。
「お兄様は?」
「影虎? 影虎なら、今日は遅くなるって言ってたよ。用事なら伝えておくけれど……」
「いいえ、必要ないわ。私はあなたに用があったんだもの」
「え?」
驚いた榛名に、茜音は嘲笑を口の端にのせる。
「ほんと、あなたって間の抜けた人ね。何で私がここに来たか、ちっとも分かってないなんて」
流石の榛名もその言い方にはむっとして、短く尋ねた。
「何か用ですか」
「その言い方、ねずみのくせに生意気。本当に、碧はどうしてあなたなんかをここに置いているのかしら。理解できないわ」
侮蔑の眼差しが向けられる。まるで変わりない剥きだしの敵意に、もはや怒りも沸かなかった。諦めたように溜め息をつく。
しかし、そのぼんやりとした反応に茜音は余計苛立ったようで、見せつけるように舌打ちした。
「ねえ。あなた、ちょっとは非常識だと思わないの?」
「……非常識?」
突然言われても、何のことか本気で分からない。目を丸めた榛名に、茜音はまああ、と眉を歪めた。
「ここにいることよ! 子供ならいざ知らず、いい年をした男女が同じ部屋で生活するなんて非常識だと思わないの?! それともあなた、そういうまともな教育すら受けてきていないわけ?」
「え……あの、でもそれはわたしがそう望んだわけじゃなくて……」
「それは透から聞いたわよ。安全のためとか適当なこと言ってたけど、それなら碧の部屋じゃなくたって構わないじゃない。お兄様のところへでも行けば? あそこなら生活だって今よりよくなるでしょうし、宮で暮らすより安全じゃない」
榛名は面食らった。
確かに、飛燕は元々大所帯で、今更榛名一人が転がり込んだところで困りはしないだろう。影虎だって今のように通わなくていいし、榛名も宮のいざこざとも一線置くことが出来る。それにここと違って人の目が多いから安全だし、今より自由に人と接することが出来るのだ。無理をしてここにいる必要は何もない。
黙り込んだ榛名を見て、茜音は勝ち誇ったように微笑むと、諭すように続けた。
「私、碧が好きなの。大好きなの。だから、別の誰かに取られるなんて絶対に嫌。他の人と一緒に過ごす碧なんて見たくないの。そういう気持ち、分かるでしょう? ――分かったら出ていって。今すぐとは言わないけど、出来るだけ早く。私は碧じゃなきゃ駄目なの。あなたは誰に守られたって構わないでしょ?」
心臓が引き裂かれるように激しく痛んで、咄嗟に胸を押さえた。全身を貫く激痛は一度きりだったが、茜音の言葉は脳に克明に刻まれた。
――榛名は、碧じゃなくてもいい。
「……そう、そのことについて碧からも話があるって言ってたわ。正門で待っているように、ですって」
くすりと笑って、優雅に身を翻す。立ち去っていく足音を聞きながら、榛名はずるずると力なく倒れ込んだ。
(……碧じゃなくてもいいんだ。他に方法がなかった最初とは違う。手がかりもない今、わたしはもう……どこにいたっていいんだ……)
じんじんと痛みの記憶に脳が痺れる。
この気持ちは何だろう。
――碧じゃなくても、どこでも、いい。
ぞくりと背筋を寒気が走って、榛名は胎児のように体を抱えた。
*
風のようなはやさで景色が流れていく。
茜音は腹立たしい面持ちで足取りも荒々しく闊歩していた。
大きく舌打ちすると、すれ違った下女が恐れおののいて後退する。
(なんなのよ、あの子)
苛々の原因は、間違えようもなくあの少女――碧が庇護している、榛名とかいう女だった。
茜音には彼女の何もかもが気に食わなかった。あの能天気な顔。嫌味にもぽかんとしていて、糠に釘だ。
(馬鹿じゃないの。普通なら腹を立てて言い返すでしょうに)
そのぼうっとした榛名を、碧や兄が殊更に庇い立てするのが、また気に入らなかった。その上茜音のお守りであるはずの透まで榛名に親身なのだから、信じられない。泥棒鼠。
それに、茜音は見ていたのだ。
先日、夜半に碧に会いに行こうとしたとき。透から巴が死んだことを知らされ――彼女のことは心底どうでもよかったが、碧が落ち込んでいるだろうと思って会いに行くと、そこには榛名と碧がいた。泣き出す榛名と、それを優しく慰める碧。何を話しているかまでは伝わらなかったが、まるで恋人のように寄り添う姿に、頭がかあっと熱くなった。思い返すだけで腹が溶岩のように煮えたぎってくる。
(……冗談じゃないわ)
碧は元々、そんな人間ではなかった。他人を区別し、徹底的に排除する。自らの枠の中に入れた人間しか好意は向けない、そういう人間だった。だというのに。
(あの子だけ、何でなのよ……)
雑念でいっぱいになっていると、ふいに背後から声がかかった。
「おや、姫様」
感情の抑制された歯切れのよい声に、茜音はすぐさま振り返った。そしてため息をつく。
背後に立っていたのは予想通り、茜音のお守りであり茜音にとっては何より厄介な相手である、透だった。
「……こんなところで何してるのよ、透……」
苦々しく呻くと、
「所用です」
とへらりと答えた。この男の、こういう掴みどころのないところが茜音は嫌いだった。何もかも分かっている癖に、嫌味ったらしくにやついているような。
「それ、何の答えにもなっていないわよ」
きつく凄んだにも関わらず、透は茜音が見えていないかのように平然としていた。
「姫様こそ、こちらで何をしておいでですか? ここ、西ですけど」
「……所用よ」
「何の答えにもなっていませんね」
「うるさいわね!!」
歩みを止めて振り返ると、彼は薄笑いを浮かべていた。茜音を揶揄する時の常である。気付いて怒りは一気に削がれた。頬を膨らませて――そういう仕草は一層彼女を幼く見せるのだが、自覚はなかった――つんと顎を背ける。
「透は嫌味よ」
「残念ながら、存じ上げております」
「存じ上げなくていいからちょっとは改善してちょうだいよ!」
「いやあ、生まれ持った性格ですから」
にっこりとそう返す。透ときたら、主従関係にありながら、敬うことは一切しないのだった。
「それにしても、奇遇ですねえ。確か今は勉学のお時間のはずですのに」
「ぐっ」
「碧がいもしない時間帯にこんなところで会えるなんて、まこと奇跡的な確率ですねえ」
「なっ何よ! 言いたいことがあるならはっきり言いなさいよ!」
「え? じゃあはっきり言いますけど、勉強を放り投げてこんなところを供も連れずにふらふらしているなんて、あなた馬鹿ですか?」
「もうちょっと言い方を考えなさいよっ!! 極端なのよ透は!」
「お見かけしたからよかったようなものの、誘拐されても私、助けませんよ?」
「そこは助けなさいよ!!」
「嫌ですよ。私、馬鹿は嫌いなので」
「は……っ」
はらたつ。
ぐっと怒りを飲み下して、茜音は拳を震わせた。淑女たるもの、これくらいで怒ってはならない。怒ってはならないのである。ひたすら己に言い聞かせる茜音を嘲笑うかのように、透はもったいぶった言い方をした。
「……碧は今頃、東で御家方と仕事中の筈ですねぇ」
「ええそうみたいねっ。だから?」
挑むように視線を上げる。しかし、全てを見透かすような灰色の瞳とかち合って思わずたじろいでしまった。
「もう一度お聞きしましょうか。――姫様、こちらに何の用があったのですか?」
喉を詰まらせる。優しげな口調だが、有無を言わせないものがあった。
それでもしぶとく沈黙を貫いていると、透は癖のない髪を揺らして、さて、と呟いた。
「そうですね、それでは当ててみせましょうか。あなたが何をしに来たのか――榛名さんに会いに来たんでしょう?」
ぎくりとして体を揺らすと、透の笑みは深くなった。
「……本当に、あなたは分かりやすいですねぇ。姫君としては落第点ですけど」
「なっ」
怒りに任せて怒声をあげようとする、その唇を透がとどめた。
「まだ答えを全て言ってませんよ。――何故榛名さんに会いに行ったのか。姫様、あなたは焦っている」
「焦ってる? 私が?」
つい声を高くしてしまう。茜音の素直な反応に、透は目を細めた。
「そうです。あなたは焦っている。突然現れた異分子が、想像よりずっと受け入れられているということに」
「……っ」
「悔しかったんですよね? あなたは今までずっと翠には勝てなかった。碧も影虎も、皆が一番に翠を優先して、あなたはいつも二番手だった。けれどあなたは翠のことは諦めることが出来たんですよね。それくらい美しく優しい、完璧な人ですから。それなのに、降って湧いたように突然現れた榛名さんが、あなたの望んでいたものをあっさりと手に入れて、悔しかったんでしょう? 本当は碧を助けるのはいつも自分でありたかったし、そういう自分をいつか振り返ってくれると信じていた。なのにその居場所を奪われて、許せないんでしょう?」
「うるさいわね!!」
茜音は突如として牙をむいた。
「そうやって見透かして、馬鹿にして楽しい?! そうよ、私は許せないの。だって、好きな人に近寄る相手が許せないなんて、そんなの当たり前のことじゃない!! 分かってるわよ、私は碧の特別になれないってことくらい! ずっと分かってたわよ! それでもよかったのよっ、碧が翠のことだけ見ていてくれたら! でも碧が他に特別な人を作るのだけは許せないのっ!!」
目に涙をためながら髪を振り乱して叫ぶ。感情の高ぶった目で睨みつけると、乱暴に袖口で涙を拭って、茜音は走り去っていった。
取り残された透は頭を掻きながら、ふう、と溜め息をついた。
「ちょっと苛めすぎましたかね」
そして少し思案したあと、透は茜音を追いかけることをやめて、そのまま西に向け踵を返したのだった。




