第七章・恋心(2)
宙を掻く筆を、碧は溜め息とともに硯の上に置いた。苛立ちまぎれに近くに置いた湯呑を乱暴に引き寄せると、一気に飲み干す。
喉を突き刺す苦さに咳き込んでいると、ひそやかな笑い声が聞こえた。
「どうしたの」
はっとして、目の前の美しく微笑む顔に、碧は取り繕った。
「……何でもない。少し疲れているみたいだな。何せ仕事は山積みだ」
そう言って碧が顎を向けた先に、彼女もまた苦笑する。そこには山のような資料と決裁を待つ書類があった。
最近碧はとみに忙しい。何故かといえば、翠が床に伏してからというもの、嫌がらせのように仕事は増える一方だったからだ。いや、実際嫌がらせのつもりなのだろう。家柄を重んじる御家方の連中は、生まれに曰くある碧を悉く嫌悪している。例え代理であっても政務に出しゃばることが気に食わないのだろう。
細い肩を竦めて、翠は儚くもため息をついた。
「わたしが少しでも手伝ってあげられたらよかったのだけれど。無理そうね」
日に透ける顔色は冴えない。突き抜けるように白い肌には、僅かな頬の赤みすらなかった。こうして一言会話を交わすだけ、それだけでも負担になるほどに、彼女は病んでいる。
眉を曇らせ、寝台に腰を下ろすと、碧はそっと額に手を触れた。
「……俺はお前が元気でいてくれたら、それで十分だよ、翠。お前のためならどんなことも、苦だとは思わない。だから、元気でいてくれ」
何かを言いかけて、翠はきゅっと唇を結んだ。そして代わりに周囲に目を向けると、机にあった皿を差し出す。
「あげる。梨、碧好きだったでしょ?」
虚を突かれて目を丸くした碧は、一瞬のうちにぷっと吹き出してしまった。
「……遠慮なく。もらう」
感謝を示そうと、空いた手でつむりを撫でようとすると、翠は急に顔色を変えて頭を庇った。
「梨の汁で汚そうとしているでしょ!」
一瞬、そんなつもりはないと言おうとして、改めて指先を見つめると、確かに少し汚れている。謝ろうかと思ったが、あまりの過剰な反応に悪戯心が膨れ上がってきて、碧はにやりと笑った。
「気が付かないだろうと思ったのに、バレたな。残念だ」
「まあ! やっぱり。ひどい、べたべたするのに」
意地悪、と責めながらも顔いっぱいに笑みを浮かべている、その明るい表情のどこにも、死の影など見られない。
それでも、碧は皿の上の梨がひとつも減っていないことに気付いていた。
――十九で翠は死ぬ。
榛名に言われるまでもなく、宰相が何もせずとも、遠からず翠は幽玄の世界へ旅立つだろう。
(……だが、まだ大丈夫だ。……きっと、大丈夫だ)
確かめるようにそう繰り返す。翠の誕生日は冬だ。今はまだ十八歳、死ぬには早い。少なくとも、あと半年はもつはず。その言葉は呪いのようにみえて、碧には支えとなっていた。
榛名が現れ予言を残した、そのずっと以前から、翠は生死の綱渡りをしていた。それもあまりに細い、頼りない綱渡りだ。いつ死んでもおかしくない毎日、気が狂いそうになりながら、行かないでくれと、病床の翠に何度縋ったことか。
それが、あと半年の猶予がある。碧には唯一の救いの光明だった。それも病による死ではないなら、いくらでも手立てはある。もしかすると、余命よりもっとずっと長く生きられるかもしれない。いや、そうでなくとも一年、二年――いくらでもいい、可能性があるということが大事なのだ。
翠はまだ生きていられる。ここにいる。――何かを、なしてやれる。
「碧」
上機嫌な声音に、碧は知らず険しくなっていた眉間を緩めた。
「何だ」
「ねえ、最近よく影虎に会っているんでしょう? どうしてるの?」
きらきらした目に、碧は苦り切った様子で首を振った。
「相変わらずだ、あの馬鹿は。何も変わっちゃいない」
「……そうみたいね」翠はふふっと笑った。「榛名さんは? 元気かしら」
「最近あまり会っていない」
「あら……」
「仕事が、な。御家方がいちいち俺を呼び出さなければもっと手っ取り早く終わるんだが、どうもうまくいかない。……俺に聞かなければ何も分からないような無能はとっとと首を切りたいんだが」
「そうもいかないわ」
「だろうな……」
残念だが、彼らは皆それなりに年を重ねている。その年月に得た繋がりはまるで葉脈のように絡まり合い、強固な絆となっている。彼らの一人でも罷免すれば、反発は免れないだろう。今の王宮の情勢は拮抗、下手に手をつけられないのが現状だった。
ぱん、と書類を叩くと、碧は腰を浮かせた。
「愚痴ばかりも言ってられないな。そろそろ戻る。翠に話を通しておくべき案件は全て報告したし」
「あら、もう?」
「寂しいのか?」
冗談めかすと、
「だめ?」
本気で落ち込んだ様子の翠に驚いて、碧は柔らかい笑顔を作ると、書類を置いて再び彼女に寄り添った。
「どうしたんだ、今日は」
壊れ物を触るようにそっと黒髪を撫でる。細い髪は指の間をさらさらとこぼれ落ちた。翠はされるがまま、碧の瞳を真摯に見つめ、そっと囁いた。
「息子が奥さんを連れてきた心境なの、わたし」
「……何の話だ?」
「碧も影虎も、段々大人になっていくんだってことよ」
真っ直ぐな目に、
「お前だってそうだろう」
「……そうかしら」
その言葉に、碧は胸を痛めた。
「……そうだ」
小さな手を包みこむと、ぎゅっと強く握り締めた。青白い手はすっぽりとおさまって、その頼りなさを如実に伝えている。
あまりに小さく、か細い。今にもくずおれてしまいそうだ。
だが――碧は励ますように明るい声音で言った。
「お前だって大人になる。そのうちきっと俺が泣く羽目になるさ」
「碧が?」
「ああ。――俺たちは兄弟だから、ずっと一緒にはいられないだろう?」
そこまで言って、碧ははっと瞠目した。伏せられた睫毛の向こう、湖のようなその碧色は、どろりと濁っている。手を伸ばして首に触れると、やはり。碧は強い口調で言った。
「翠、熱がある」
「……大丈夫よ」
「そんな訳ないだろう。すぐに医師を」
「碧……」
みるみる青ざめていく翠を寝かしつけようとしたその時、咳き込んだと同時にごぼっと音がした。手から溢れた赤い雫がぱたぱたと落ちる。
「翠!!」
慌てて背を支えたが、眩暈がするのか目はうつろになっていた。吐血は少量だが、長く臓腑を病んだ翠には重い症状だ。一刻を争う。
「すぐに医師を呼ぶ。寝ていろ!」
そう言って、碧は一切をかなぐり捨てて部屋を飛び出した。
*
茜音が去って、榛名はまず身なりを整えることから始めた。
きちんと若紫の帯を締めなおし、胸には色紐を通す。取合せは質素に、けれど決して地味ではなく、しっかりと惟の人間らしく見えるように。
(少しは、成長したかな。わたし)
裾を持ち上げて、全身を確かめる。おかしくはないはずだ。碧から何度も何度も繰り返し教わった服の着付け。おかげで、一人で簡単な服の着付けなら出来るようになった。
すう、と勇気を出して部屋から一歩を踏み出す。
正門まではそう遠くない。碧の部屋から角を曲がれば間近に鳥居が見えているので、道に慣れていない榛名でも迷うことはなかった。
怪しまれないよう、背筋を伸ばして前を向く。
そうすると不思議に、空気まで新鮮に感じた。
(……あの日から、全部変わったんだ。ここに来た日から、全部……)
あの夏。首筋が焼ける、あの暑い日から。
じゃり、と玉砂利が鳴る。
振り仰ぐ頭上には、けぶるような朱があった。久しぶりに間近で見た鳥居は、以前よりずっと荘厳に見えた。
圧倒されながら視線を向ける、朱門の向こうに拓かれた今日の麓鳴は、曇天のために薄暗かった。霧がかったような色合いの向こう、真っ直ぐに伸びる市が見える。
(……碧と影虎と出かけたときは、楽しかったな。目新しいことがいっぱいで、みんな光って見えた……)
今も瞬きするだけで、ほんの少しも色褪せず思い出せる。夏の日差しで焼き付いた、あの思い出は目がくらむほどに眩い。
思えば、たったひと夏のこと。けれど、振り返れば長かった。
気が付けば榛名は一人で服を着られるようになって、ごく簡単な文字を書けるようになり、翠やみんなに出会って、碧の痛みや影虎の優しさを知った。
きっと榛名は惟で生まれ直したのだ。佐川榛名ではなく、ただの榛名として。
そうして、その隣にいたのは、いつも碧だった。
背筋を駆け巡るように会いたい気持ちがこみ上げて、榛名は逸る気持ちを押さえ込んだ。
(これは、どういう気持ちなんだろう)
碧のことを考えると、今すぐにでも会いたくてたまらなくなる。これは何という感情なのだろうか。
考えなければならない。これはいわゆる恋というやつなのか、それともただ、初めて出会った人が碧だから惹かれているだけなのか。きちんと精査して決断しなければならない。
いつか影虎に言われたこと。そして身をもって知ったこと――ここでは、人が人を好きになるということは、命取りになるのだ。
ただ碧の傍にいるのが利益になるから、傍にいたいのか。それとも好きだから傍にいたいのか。
十五で、まだまともな恋愛を経験したこともない榛名には難しい問題だった。
(でも――何でだろう。分かる気がするんだよ)
今日、碧に会えたらきっと。――分かる気がする。
小さく蹲っていた榛名は、ふと気配を察して視線を周囲に配った。
すると門前に番兵だろうか、若い兵士が立っているのに気がついた。目が合うと小さく会釈してくれたので、榛名も同じように頭を下げる。槍を手に、姿勢よく立っている兵の顔は精悍だった。二十代前半というところだろうか。
「あの」
あまりに突然声を発したので、榛名は一瞬誰の声か分からなかった。きょとんとした榛名に、番兵は申し訳なさげに視線を宙に浮かせた。
「……あの、もうすぐ降りますよ」
ああ、と納得した。見上げる先にある黒雲は、その厚みの向こうに大量の雨を孕んで、降り出すのは時間の問題に思えた。
「ここで待っていると、迷惑ですか?」
「いえ、そんなことは。……待ち人ですか?」
「はい。ちょっと」
榛名がそう言うと、
「このままでは濡れますよ。……あの、もしよければ中で待ちますか?」
彼が指差す先には、小さな掘っ立て小屋があった。塀に寄り添って建てられたそれは本当に簡易な造りで、言われなければ木々に紛れて気が付かないほどだった。粗末な作りからして、番兵の詰所なのだろう。榛名が目をぱちくりさせていると、番兵は急に恥じ入ったように手を振った。
「あっ、あのっ見た目はああですけど中はそれほどひどくないんですよ! 男所帯で気後れするかもしれませんが、ご婦人が体を冷やすのはよくないですしもしよろしければ……」
あまりの慌てぶりに、榛名はくすりと笑って、丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます。でも、待っている人がわたしに気付かないかもしれないので。すれ違うと困るから、ここで待っていたいんです」
彼は少し戸惑ったようだったけれど、表情を緩めてはにかんでみせた。
「ではせめて、塀の下にいてくださいね。小さいけれど屋根がありますから、多少はしのげると思います。何かありましたら遠慮なく声をかけてください。汚いかもしれませんが、毛布もありますから」
「あっ、ありがとうございます」
深々と頭を下げると、榛名は鳥居を出て塀の下に向かった。彼の言う通り、木が等間隔に並んだ格子塀には小さな屋根がついていて、榛名一人くらいならずぶ濡れは避けられそうだった。振り返ると、鳥居の下で立つ彼と目が合って、ぎこちなくも笑みが交わる。
榛名は格子にもたれかかりながら、上機嫌になっていた。
あんな親切な人がいるなんて、やっぱり惟はいい国だ。――碧。やっぱり、わたしここに来てよかった。
そう思っていると、ドカッと鈍い音が聞こえた。
違和感に体が固まる。
動けなくなった榛名の顔に影が差して、狭い視界に図太い足が現れた。
恐る恐る見上げる、その先にいるのは野卑た屈強な男たちだった。
彼らは声もなく青ざめた榛名の腕を驚くべきはやさで捉えると、たちまち力任せに捻り上げた。
「ひっ」
「静かにしろ」
即座に口を塞がれ、低い声で男は脅した。触れた肌がざわつく。
「声を出さぬまま、あちらを見ろ」
従った、その先にいたのは先ほどの青年だった。倒れ伏したその腹からは、血が滲んで石畳にまで広がっている。
それだけで、もう十分だった。怯えて震えていた手から魂が抜け落ちたように虚脱して、榛名は全ての抵抗を諦めた。
それを見て、男はいい子だ、と嗤う。
「そうだ。大人しくしていれば、これ以上の犠牲はない」
――これ以上の犠牲は、ない。
巴のような、犠牲はもうない。
(……でも、いや、だよ)
「では、お前は一度眠ってもらおう」
どすんと腹部に重い衝撃が走って、吐き気と同時に世界が揺らめいた。
遠のく意識の中、榛名は何度も、何度も繰り返した。
(助けて……)
――碧。――碧……。




