第六章・心火(5)
それから数日、誰しも気が晴れない日々を送った。
顔を合わせても会話は弾まず、己の殻に引きこもったままやり過ごす――そんな毎日だった。
碧は特にそれが顕著で、顔を合わせることすら辛いのか、一日の殆どを仕事に費やすようになった。朝早くに出かけて行き、深夜に帰って来る。唯一食事だけはともにしていたけれど、それもほぼ手をつけずに残してしまう有様だった。
日に日に憔悴していく碧を見て、榛名も本当は何か声をかけてあげたかったのだが、今はどんな言葉も傷になってしまいそうで、結局は何も言えなかった。
(こんなんじゃ……味方なんて言えないよね……)
自らに落胆して寝台に身を落とすと、ぽすんと体が跳ねた。小窓から覗く空が思いのほか眩しくて目を細める。
あの日、血の混じった泥にまみれてしまった服は、元のように綺麗にはならなかった。何度洗っても染みは消えず、こすればこするほど繊維を痛めつけるだけだった。
――戻れないのだ。起きてしまったことは二度と消せない。そう思い知らされたようで、その鮮やかな切っ先に怯えた榛名はそれを箪笥の奥に仕舞い込んだ。あの日受けた傷はまだ血を流していて、痛みを受け入れるには時間が足りなかったのだ。
傷ついたのは碧だけではない。榛名もまた同じく、耐え難い痛みに今は蹲っているしかなかったのだ。
「おはよ、榛名ちゃん」
挨拶とともに、日光を背負って影虎が部屋に入ってきた。見合わせたその顔に、いつもの陽気さはない。それでも、目が合うと柔らかく笑ってくれた。影虎はこうして、自らも気落ちしているだろうに榛名のことを気遣ってくれる。
「今日はね、お土産。榛名ちゃん、果物は好き?」
「果物?」
首を傾げると、
「うん、はいこれ。どうぞ」
がさがさと紙袋を鳴らして、取り出したものを手の平にちょこんと乗せる。榛名は目の前の真っ赤な果実を凝視した。
「……林檎?」
「そう。甘いよ、利藩のだから」
「有名なの?」
「うん。どうぞ、食べてみて。榛名ちゃんの国の林檎とは、少し違うかもしれないけど」
優しく促されて、榛名は小さく果皮に歯を立てた。
かしゅっ、と音とともに口いっぱいに爽やかな酸味が広がる。続いて二口目にうつると、今度は驚くほど甘かった。
「……懐かしい味がする」
思わずそう呟くと、影虎は喜色を浮かべて綻んだ。
「ちょっとは元気出た?」
その言葉尻から安堵が伝わってきて、榛名は眉を下げた。心配をかけていたのだ。こっくりと頷く。
「うん。……ありがとう」
「よかった。わざわざ飛燕から取ってきた甲斐があった」
「これ、飛燕にあったの?」
「そう、前ちょっと話したっけ? 飛燕って今は殆ど交易で成り立ってるんだよね。これは利藩から麓鳴に運ばれてきた分。このうちいくつかは宮殿に、いくつかは宗藩っていう大きな港があるとこに運ばれて、そっから他の国に持ってくんだよ」
「へえ……」
感嘆を上げる。中々興味深い話だ。特に榛名は藩ごとの特色が分からないので、こういう話は何もかも新鮮に聞こえる。
ふと思いついて、榛名は身を乗り出した。
「ねぇ、影虎。今度わたしも飛燕に行ってみたいな。連れて行ってくれる?」
「ええ? ほんと? 大歓迎だよ。男ばっかだからみんな喜ぶと思……ああでも何か榛名ちゃんって捕って食われそうだなあ」
ううんと唸って悩んでいる風にしていたが、影虎は明らかに乗り気だった。目が悪戯っぽく輝いている。
「副長さんは女の人なんだよね?」
「あー麻歌さんね。うん、俺よか年上だから榛名ちゃんとは離れてるけどね。でも元々女の人は少ないんだよ。一応、成り立ちは賊ですから」
「影虎の手紙の飛燕の話、すっごく楽しいよ。あの蜜柑の話とか。部屋中蜜柑でいっぱいになったんだよね」
「あれねえ、最悪だった。あんま食べると手が黄色になって風呂入っても取れないんだって。口の中は常に酸っぱいしさあ……」
面白おかしく話す影虎に、榛名は久しぶりに声を上げて笑った。交わした手紙の内容を取り留めもなくなぞるのは楽しかった。まるで榛名も飛燕の一員として樽に――男所帯で椅子が足りないから殆どは酒樽に座っているという話だった――座って、賑わいの中で笑っているような気がした。
笑いが引いた頃、影虎は不意に目を細めた。
「あのさ、飛燕って俺にとって、家族みたいなものなんだよね。俺の本当の父親はあんなろくでなしだし、母親はもうとっくに死んでるし、兄弟にだってまともに会ってないんだけど……あそこで暮らして、家族になるのに血なんか関係ないんだって思った。あそこにいる全員が、俺の親で兄弟なんだよね」
榛名は膝を抱えて静かに耳を傾けていた。影虎を形作った、温かい、温かい記憶の話。幸せな。
「……幸せだった?」
ぽつりとした問いかけに、
「当たり前。それにさ、俺が逃げ出せたのは碧たちのお陰だから。俺が幸せにならなきゃ、碧たちがしてくれたこと、無駄になるでしょ」
影虎は穏やかな表情でそう答えた。
(家族……)
血の繋がりではない、家族。
羨ましい、と素直に思った。そういう存在がいるというのは貴重なことだ。家族がいたって、不仲だったり会えなかったりすることはままあることだから、新たな居場所を見つけられた影虎は、本当に幸運だ。
だが――。
碧。
碧は今まで、榛名に両親のことをあまり話さなかった。それはきっと、話せなかったのではなく話したくなかったからだろう。母親は父親のせいで自害したなど、誰が言えるだろうか。
けれど、それで全部が腑に落ちた。碧が母親の死も巴のことも自分のせいだと思っていること、碧の父や宰相が母を死に追いやったということ、直系の碧の瞳でありながら王に選ばれなかったこと。全て全て、そこに起因しているのだ。
ぎゅうっと身を寄せて貝のように縮こまる。
碧の痛みが、味わった孤独が、どれだけ深いものか――榛名は何も知らなかった。疎まれ、無きものとされ、閉じられた世界の中、碧が見つけた唯一の生きる意味が翠だったのだ。たった一人の大切な家族。失えない、かけがえのないもの。
なのに榛名は――
がたん!!
突然の物音に榛名は体勢を崩して、思わず椅子から落ちかけた。慌てて机に手を突いて上半身を起こす。
「な、何?」
「……碧の部屋からだね。何か落ちたかな」
影虎が立ち上がって碧の寝台がある衝立のほうへ向かう。すると、突然大声が響いた。
「うっわ! 何これ?!」
「え?」
あーあーと声を上げる影虎の後ろから首を出すと、榛名まで愕然としてしまった。
「な、何これ」
そこに几帳面に整った碧の部屋の面影はなかった。部屋中に散らばる紙、紙、紙。小さなメモ用紙程度の大きさの紙が一面に散乱している。それも、全てにべったりと墨が塗りたくられて――いや、何かを書こうとして塗り潰したのか、黒塗りになっている。こんなに散らかすなんて、普段からこまめに掃除する碧には信じられないことだった。どうやら散らかっていたところに箪笥の上にまとめていた分が崩れたようで、足の踏み場もなくなっている。
「……ちょっと壮観。つーか何? この呪いの札のような紙切れは。ごみ?」
「ううん……ど、どうだろう」
実際、少し怖い眺めだった。もう文字を書けるような余白もない紙を、碧は何故こんなに大量に取っておいたのだろう。
偶然足元に落ちていた一枚を拾い上げて、じいっと見つめてみた。
皺だらけで、力任せに書き殴ったのが窺える。しかし、よく見てみると、榛名には何か引っかかるものを感じた。
(……これって、もしかして)
――。
言葉を失くして榛名は棒を飲んだように立ち竦んでいた。
そして自分を落ち着かせるように大きく息を吸い込むと、丁寧に皺を伸ばして、その紙をそっと胸に仕舞い込んだ。
*
その日は月の明るい夜だった。満月ではないが、雲のない空はどこまでも高く清明に光を落とす。部屋からの明かりが背中を照らし、回廊はほんのりと橙に染まっていた。
ふう、と吐息を空中にくゆらせる。
……静かだ。風がなく、僅かな葉ずれの音も聞こえない。世界が寝静まったかのようだ。
榛名は一人、夜空を眺めていた。
今日はこんなにも綺麗な雲のかからない夜なのに、星が見えない。月が孤独にぽっかりと浮かぶだけ。
――静かだ。手首に力を込めると、冷たい感触が指先に触れた。
こうして沈黙に浸っていると、色んなことが頭を過ぎる。今まで惟で過ごして、榛名の中に降り積もってきたもの。
『聞けばいいんですよ。何を考えているのか、どうしてそんな態度を取るのか、聞けばいい』
『この世に偶然はないんだ。みんなあるべくして出逢って、時を重ね合わせて生きていく。運命の糸を交差させて。この世にあるのは、必然だけだから』
『……ああ。覚えておく』
――たくさんのことがあった。嬉しいことも楽しいことも、辛いことも。けれどそのどれもが大切で、決して失くしたくない出来事だ。この世界に来て良かった。心からそう思っている。絶対に後悔しない。したくない。
――だから、
(わたしには、責任がある)
確かな光を宿して、目を開けた。
例え碧が――
「……榛名?」
心臓が重く鼓動する。緊張を押し隠して、榛名は声のほうを振り返った。
濃紺の衣に、浅葱の紐が映える立ち姿。見慣れた彼は、驚いたような顔で榛名を見つめていた。苦笑がちに笑みを返す。
――例え碧が、榛名を抱え込んだことを後悔していたとしても。榛名はそれを受け入れるほかないのだ。
にっこりと笑みを作って、榛名は問いかけた。
「……お仕事終わったの? わたしもちょうど今、影虎が帰ったところなんだ。お帰りなさい」
碧はああ、とぎこちなく返事する。背けた顔の痩せた頬が目に付く。多分殆ど寝ていないのだろう、疲労が滲んでいた。
沈んでしまったここ最近、普段なら会話することもなくそのまま部屋に入ってしまう碧だったが、何故か今日はそのまま立ち尽くしていた。疑問を感じて見つめると、その迷いのある横顔に、榛名は思わず身構える。
――言うつもりだろうか。手紙に書けなかったことを。榛名には渡せなかった、後悔の念を。
しかし、碧の口から零れたのは予想外の言葉だった。
「……大丈夫か」
「……え?」
思わず目をしぱしぱさせる。
鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている榛名に、碧は呆れて眉を寄せると、
「――榛名は」深く嘆息を挟んで言った。「大丈夫か?」
ぽかんとして、沈黙する。
「あ、の……」
うろたえながらも声を出すと、同時に目の奥がつんと痛んだ。刺激に突付かれて、みるみる涙がこみ上げてくる。
「……そ、れは、ど、どういう……」
意味。
潤んだ目に、碧は少しぐっと息を呑んで、諦めたように話し出した。
「……色々考えたんだが、あまり言葉が思いつかなかった」
時折溜め息をつきながら、碧は続ける。
「ああいう場面を目にしたら、普通落ち込むだろう。俺たちはまだしも、お前は……慣れていないだろうから。……ただ、うまい言葉が見つからなかった。遅くなったのは謝る。心配は、していたんだが」
俺にも余裕が、なくて。
その言葉に、榛名は見開いた目から静かに涙を落とした。馬鹿みたいに次々と涙が零れてきて、袖を濡らしていく。
それを見て驚いたように瞠目していた碧も、苦笑を浮かべてそっと榛名に手を伸べた。頬の涙を拭って、その指先で髪に触れる。
「……どうせお前のことだから、気にしているだろう。自分が関わったために悪いことが起こったんだろうかとか」
「な、何で……」
「お前が言ってたんだろう?」
――ああ。覚えていたのだ。たまらなくなって榛名はしゃくり上げた。その頬に手を添えて、碧は言い聞かせる。
「……違うからな。言っただろう? お前はもうここにいる。どうなったかなんてことは考えるほうが間違っているんだ。お前がいる、それが現実だ。他の可能性なんてない」
「でも……わ、わたし、い、いちゃいけないんじゃないか、って……」
「何故」
するりと顔が寄せられて、真っ直ぐに榛名を覗きこむ瞳に驚いて黙り込む。至近距離で見る碧の瞳は、海のような煌きが揺れていた。
「お前はここに、いていいんだ。榛名」
「……ほ、んとに」
「……いていいんだ。隣に」
こつり、と額が寄せられる。
「いてくれ」
ひんやりとした感触に、榛名は嗚咽にまみれた涙の向こうで、微かに頷いた。




